(2019/06/27)
小雨に濡れたアスファルトの道路はすみれ色の夕焼け雲の色を反射させながら、その上に車のランプが線を引く。十分もしたらすみれ色はなくなって赤と白のランプだけが、道路の上で跳ね返るだろう。ここから少し坂を上ったら僕とアメちゃんが暮らしているアパートがある。
梅雨のうちはいい、僕は静かに生きていられる、この世界もうるさくない、みんな静かでどんよりしている。もっと長引けばいい。よく雨が降って、市民薄明を縮める。夕暮れを見せないで薄暗くなっていく空のせいで、こげ茶の木のドアは冷たい金属のようだ。鍵を入れて回すと、逆に回った。錠を閉め忘れている。
「ただいま」
返事は聞こえないけれど、ガチャガチャと音が聞こえる。磨りガラスの戸の向こうに見える部屋もすみれ色だ。電気はついてない、レースのカーテン越しに夕日が見えているのだろう。だいたいアメちゃんはヘッドホンをつけてビデオゲームでもやってるんだと思う。僕はリュックを廊下に放って、濡れた服を洗濯機の前に脱ぎ捨てるとそのまま風呂に行った。
頭から熱いシャワーを被っていると、風呂のドアが強く叩かれた。
「帰ってたの?一回顔見せてよね。ビックリした。もう、ちょっと怖かったわ」
アメちゃん、曇ったガラスごしに箒を持ってるのが見える。「ただいまって言ったじゃん」と言おうか迷ったが、僕はシャワーを止め、「ごめんごめん。ただいま」と言った。
「うん」
向こうで彼女が手を洗っている音が聞こえる。水を見ると手を洗いたくなるのが彼女の性癖だ。そうか、と思ってまたシャワーを浴びる。
シャワーを出て、僕は回転いすに座って彼女が黙々とテレビでゲームをしているのを眺めていた。
「ああ、もうやめよっかな。めっちゃ連敗してんだけど」
「負け始めると止まらないってわかってるならやめりゃいいじゃん」僕が笑うと、彼女はまたやられて、まだ終わっていないのに座布団にコントローラを放った。
「大学は?」と尋ねながら僕はコントローラを拾って、彼女の負けの続きをやる。
「行く気しないんだもん。寝ないでずっとゲームしてたよ」
こればっかりはどうしようもないという風で彼女は顔をしかめている。僕は笑った。今日僕は図書館に行っていた。大学を卒業して京都に引っ越したからには、院に行くつもりだったけれど、急に面倒にも馬鹿らしくもなってやめてしまった。アルバイトと図書館とこの部屋を永遠に巡回して、時々アメちゃんと出かける。そんな毎日を送っているんだから、大学サボんなよ、なんて言える立場じゃない。
アメちゃんはおもむろに立ち上がり鏡の前で髪の毛を色んな風に手でまとめては、方々の角度から眺める。彼女は常に首の高さに髪の毛を切って揃え、前髪を左眉の上で分けている。僕はこの髪型がたまらなく好きだ。知り合った時からずっとこの髪型なのは、単に変えるのが面倒だったかららしい。
「最近さ、結構毎日楽しいよね」
「一緒にいると何もかもうまくいくんだよ。ずっと遠かった分、ギャップでめっちゃハッピー」
「そんな理由なのかな、もっとなんか、私前までとは違う人になったような気がするんだよね、思わない?」
「ずっと、変わり続けてるよ、アメちゃんは今は僕がそれを横で見てるから実感できるとか?」
「せっかく変わって行くんなら、髪型も全然違う風にしたい。その方が合う気がするし、気分も冴える気がする」
やはり時間内にアメちゃんが重ねた負けを挽回することは出来ず、ゲームオーバーの画面がモニターに映った。そして、僕が正式に、盛大にコントローラを後方へ放り投げる。
「いいじゃん。切ったら? 急に長くするのは無理だし」
コントローラはロフトベッドの上で転がっているアメちゃんの上を通り越えて壁に当たった。
「バカにしてるの」
僕はテレビを切って、コタツの上にある本の山を崩し、表紙を一冊ずつ眺めて時間を潰す。読みはしない。この部屋では一年中こたつがある。本はこのまま、永遠に読まれない。僕も彼女も、夏のこたつは最初のうちはひんやりとしていて良い、とわけのわからないことを言って、一向に片付けないし、本の山のある景色はかっこいい。アメちゃんはベッドで足をブンブン揺らしながら、ラップトップを開いて、髪型を調べている。黒いパイプのロフトベッドは軋んで音を立てている。貧乏ゆすりの最終進化系が立てる騒音は僕らが二人でベッドの上で立てるどんな騒音よりもうるさいだろう。
「美容室で似合う髪型にしてもらったらいいじゃん」
「髪切るのにお金払うなら、美味しいもの食べるわ」
紺のタンクトップを着た細い女の子がベッドからのそのそ降りてくるのがシルエットで横目に入る。自分と違う人間がこんなに近くで勝手に生活しているのを見ているのは面白い。鉛筆立てからはさみを取って彼女はテレビの隣にある姿見の前に立った。鏡越しにニコニコを僕の顔を見ている。とりあえずにっこり頷いてやると、それがファンファーレになって、アメちゃんは一番長いところからバサバサ髪を切り始めた。どうなるのかが気になったから止めなかった。始めはビートルズくらいになるのかと見ていたけれど、その辺りに来てもはさみは勢いを緩めない。僕は少しずつ心配になってくる。アメちゃんは相変わらず、少し切っては、鏡ごしにニコニコした顔でこっちを見てくる。僕は本を眺めるのをやめて、また山の形に積み上げ、ベッドの上からラップトップを取った。
彼女のラップトップではジョイディヴィジョンのテンプテイションが流れていた。ユーチューブに上がっているミュージックビデオだ。この曲に関して、ちょっと面白い話があって、確かリリースされる前、僕の生まれる何年も前の話だけど、その頃ボーカルのイアンカーティスが二年ぐらい失踪してて、色んな事に耐えられなくなって、二、三回くらい自殺をしかけたけど、失敗して、諦めて失踪してたらしい。それまでのジョイデヴィジョンの詞を読むと、死にそうになってしまう人の気持ちがすごくわかる。イアンは失踪後自殺してたって思われてたけど、ギタリストがテンプテイションを書いたすぐ後に、ひょっこりバンドに戻ってきた。彼が歌詞を書き直し、一瞬ニューオーダーとして活動していたバンドは、またジョイディヴィジョンに名を戻した。曲のタイトルだけがテンプテイションのまま。イアンが気に入って残そうと言った。僕はこのエピソードと、この曲が好きだ。
きっと彼女はこの曲のビデオに出てくる女性を真似して髪を切っているんだろうと思う。ピクシーカットの女の子がハイドランシスを持ってジョイディヴィジョンのライブを見に行くという筋のビデオで、最初の方が真っ暗かつモノクロなんだけど、ライブハウスに入ると、世界は色彩取り戻すんだ。モノクロの世界から飛び出した、ピクシーカットの女は虹色の様に美しい紫のハイドランシスを持って踊る。一番暗いのを超えるときっと世界はこうなるはず。
「結構うまく切れたんじゃないかな?」と彼女は鏡越しに聞いてきた。僕はうなずいた。ピクシーカットはよく似合っていた。
「横と後ろの方見えないから手伝ってくれない?もうちょっと短くしたい」そう言って僕にはさみを投げてきた。僕はひょいとそれを避けて、床に落ちてから拾った、キッチンバサミって結構尖ってて怖い。まあ、彼女ちゃんとハサミの刃の方を握って僕の方に投げてくれたけれど。適当にちょきちょきと切って、手鏡を持ってきて見せてやった。彼女は苦笑いして言う。
「これじゃダメだよ。もう。後ろはまあ、ちょっとそこだけピョコって残ってるところ、ちょっと斜めにハサミ入れて切って。違う。そんなんじゃだめ。もう外出歩けない」彼女は笑いながら刈り上げると宣言した。
「夜でよかった。見えないよ」と言ったら、彼女は口を尖らせて怒った顔をしてみせる。可哀想に、途中までいい感じだったのに僕のせいで変な髪型になっちゃったアメちゃんが可愛らしくてバリカンを買ってやることに決めた。
「どうせ髪、染めるんだろう?買いに行こう」
僕たちは二人でドラッグストアに行って、バリカンとブリーチ剤、それに七二〇ミリリットルのトマトジュースを二本買った。部屋に帰り今度は失敗しないよう襟元にバリカンをかけた。シャワーで髪を染めている彼女を、僕はワクワクしながら待っていた。トマトジュースを冷凍庫で冷やしながら。一時間ほど経って出てきた彼女は別人のようだった。ピクシーカットにしては少し長い前髪が、雑にかきあげられていた。シャワーから顔だけ出して、不安そうに僕の方を見ている。
「それ最高だぜ?」
その後、僕たちは冷えたペットボトルのトマトジュースをそれぞれ握りしめて、夜の公園へ歩いた。そこで七二〇ミリリットルのトマトジュースがすっかりなくなるまで話し続けた。そして合計一・四四リットルの血を蚊に分けた。
「これで蚊も私たちの親戚ね。蚊の子供たちは私たちの孫」
帰りに公園の花壇からアジサイを一輪摘んで帰った。立ち入り禁止の場所に入り込んでも何も感じない僕たちだったけれど、植物を折ると罪悪感を感じた。帰ってアメちゃんは折ったアジサイから根を生やす方法を調べた。美しい薄紫色のアジサイの花は、部屋で一番美しい透明の空き瓶に活けられた。何年か後には木に戻っていると期待している。