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ともに浮かべば肺、満ち! 8章

 遠い山並みをイスズの白いピックアップは迷わず、また震えず求め続ける――かの女の黒い髪が、青い頬が、大きな瞳が、その遠い向こうにある景色を求めた――見渡す限りあの天使の都も、網目の街道も、または太古の亡霊の彷徨う水田さえも無かった。只、空へ向かう坂を上がり下り、元あった全うなもの達の救う世界へと近づき続けていた――ここで見ればあの狂った音楽者達や裏林の幽霊も決して驚くほどのものではなかった。彼女のそばに青い虎はいなかったし、金色の竜もなかった、しかしエンジンの音以外にその気配を嘘と見なすものだってない。ゲッドは強い日光の下にいると霞んで見えた。遠くへ行けば行くほど幸せになる、それは完成される!と彼女は言う。俺は腹を空かせてただ彼女がハンドルを切る方へ食堂ばかり探したが、そんなものはないらしく、ある地点で彼女は車を降り、亜熱帯林の中へ歩き入った。ついていくと、五十歩も行かないうちに、広場があり、奥に小さな寺院――古いコンクリートの上になんと金の装飾がある。元は白かっただろうに、灰色にくすんでひび割れた壁の下から階が伸び、そこに二人の壮年の比丘、ドリアン色の袈裟を着ていた。彼女は彼等の足元に座って、話しかけた。どこどこへ行きたいのだけれど、どちらへ行けばいいでしょう?と彼女は聞いていた。俺は広場の隅で木々が季節風に揺られているのを見ながら煙草を吸い始めたが、一人の比丘が寄って来て煙草をたかった。一本くれてやると、彼は困り果てたように言った。彼女はとても神聖な人に違いないよ、僕はどう話して良いかわからない、と――俺とてわからない、彼女はどこへ行きたがっているのかな?――彼は首を振った。高い山の麓にある小さな村に彼女は行きたがっている。ここだって大概山の麓だろう?そんなことはないよ、この辺虎がいそうな気色はあるかい?――まだ、ないな。しかしいないとも言い切れない場所――そうだろう、あっても小さな洞窟がいくつか。洞窟?そうだ、ライム岩の山がいくつか、その斜面から大きな洞窟が地下へ――僕が思うに今は今は乾季だ。そう、俺だって知ってるよ、今は乾季だ。うん、だから平気だ、でも一度雨になると君だってあの子のこと手に負えなくなるよ。今だって手に負えない俺はどこへ行くかだって知らないんだ――そういうと彼は笑った、そしてほとんど吸い終わった煙草を地面の方へ投げ、サンダルで踏み消した――俺は半年ほど前に吸い殻の火を消そうとしたら裸足だったんで火傷をしたことがある。そういったが比丘は笑いもしなかった――とても暑い日で自分がサンダルを履いていなかったことも忘れて居たんだ。君は俗物だな、彼は首を振った。普通だろう、君とて俗物だからテーラヴァーダの修行に熱心なんだろう――そうかもしれないな。とにかく、雨季が来ると彼女だって、暇じゃなくなるんだって言いたいんだよ僕は、せいぜい今を楽しむんだ、そういうことだ。道を聞き終えたゲッドがこちらへ戻ってきた――太陽の角度は既に九十度を越えて、夕方へと向かい始めていた。もうあと二時間ぐらいで着くみたいね。そこ、知り合いでもいるの?――いないと行かないわ。車に乗り込んでから彼女は終始無言だったが無理はない、これまでと比べ物にならないほど道が悪い、その上に彼女は半分迷っていた。標識なんかないんだからね、地図にだってあんまり載ってないし、と何度か言ったぐらいだった。それでも在ったり無かったり逃げたりする類のお化け集落ではないらしい、ただ山の奥にあるせいで見つけづらいだけで、県の名簿だってあるし住所を書いたらはがきだって届く。どこで知ったかと聞くと、ピーレックのバーだと言った。森林学部生が溜まっている学内の違法酒場で、俺も何度か行ったことがあった、そこではやたら酒に強い髭面学生が多く、彼らのほとんどは布団よりも寝袋よりも木々の下ハンモックで眠るのを好んだ。夕方やっと森の中の村に辿りついて、村人は辛い飯をたくさん振舞ってくれたが俺らは疲れていてそこまで食べられなかった。空き家が宿がわりでそこで俺らは眠る支度をした。蚊帳を張ってその下に、さっき埃をはたいたばかりのマットレスを敷く。

 高床小屋は森のすぐそばでサイチョウの遠く鳴く声がどこまでも不吉に響きまとわりついていた、彼女はそろそろ、と言った。誰が来るの?――誰かが来るなんて言ってないけど。ねえ、少し歩かない?こんな山奥を歩いて?素敵なのよ、トラはいないから安心しなさいよ。彼女は笑って、オーバーを羽織って梯子を降りた。僕も仕方なく歩き出した。くるぶしぐらいの清流を裸足で渡り、林の下の小道をいくと幹線道路があった――が、来るまでに通ったのとは違って街灯もないし車も来ない――なにせ山奥で両脇は森だった――その真っ平らのアスファルトを跳ねる様に歩き出した――真っ暗なところを彼女が光を引いて跳ね踊り進んでいく――どこまでも真っ暗が続くだけなのに照らされ、どこかから光が来るのだ。彼女の青い肌が反射する、美しく、その残像は俺の舌にまとわりつく。強烈な光は正面から来る。ストロボスコープの前で鎖に下がり揺れる金の佛陀が変容し続けていた――子供の頃にあった救いは全部嘘だったた――ゆっくり瞳を閉じると陰性残像が希望を描く、目を開けばそこに救われた己の姿が震え、浮かびゆく。その強い光は「道」を真っ直ぐ俺たちの方へ向かって来た、道の脇の草むらに避けた、夜露が裸足に垂れて感触が脊髄を潰す。どんな素晴らしい芸術も酒も煙草も大麻も、これには叶わなかった――その救いはどこにも存在しないのと同じで俺に掴むことはできない。これはただ通りすぎていくだけだ。ゲッドは首を傾げて笑った――照らされた足元を雌鶏がむしをついばみ蟇蛙は避けて歩き回った。