(2019/05/18)
僕が再び発作に襲われ自殺を試みたのは、アメコの誕生日からほんの一週間しか経っていない日だった。その日、僕はいくつもミックステープを作っていた。僕自身はカセットプレーヤーを持っていなかったから、先週プレゼントした彼女のカセットプレーヤーを借りて、作ったテープを聴きながら散歩をした。彼女にあげる為に作ったテープを聴いていると、ちょうどその時、アメちゃんから電話がきた。僕たちは家の近所の大通りで合流し、インド料理屋でカレーを食べた。彼女に早速今日作ったミックステープを手渡して、カレー屋を後にした。
その日は何故か人が多かった。店を出て、家に帰ろうとしている途中、僕は人混みの中で、急に消えていなくなってしまいたいと思った。アメちゃんはそんなことも知らずに、僕の前を歩いている。
僕は静かに、彼女に背を向け、歩き去った。人混みで、彼女は僕がいなくなったことに気がつくまでに少し時間がかかったと思う。僕はコンビニで封筒とルーズリーフ、切手を買って、電車に乗った。京都有数の自殺の名所と言われている保津峡に向かう電車の中で、両親に宛てて遺書を書いた。死のうと思う理由を書こうと試みたけれど、それはうまく説明できないもので、僕はただ、いなくなるとだけ書いた。
終電で駅に着き、電灯の下のベンチでアメちゃんに対して手紙を書いた。その時僕は既に正気に戻っていたけれど、もう彼女や家族の元へ帰っても同じことを繰り返すだけと思い、きっぱりこの世に別れを告げようと決めた。生きているのは辛かったけれど、彼女に二度と会えなくなることもまたとてつもなく悲しかった。書き終えて、僕は涙を袖で拭いながら近くにあったポストに両親に対して書いた手紙を投函した。アメちゃんに対しての手紙を投函する気にはならなかった。可哀想な顔が目に浮かんで、耐えられなかった。僕はリュックに手紙を入れたまま、橋の方へ歩いて行った。そして、今度は間違いなく飛び降りた。
大仙古墳は相変わらず静かで、現代文明からはっきりと分断されている。目を覚ますと、川崎一郎は森の中に倒れていた、またしてもである。古墳時代の呪いだろうか、と彼は笑った。遠くを電車の走る音が聞こえるが、彼は世界から目を背けるよう、森の中に入った。
今度は帰らなかった。彼はもう帰らないと決めていたのだ。彼は二度、死ぬことに失敗していたが、今度は何があっても戻らないと決めていたのだ。後悔はあったが、それがあるからといって今後二度と死にたくなくなるというわけではない。生きていて死にたくなる時間は、きっと死ぬことよりも苦しいだろうと彼は考えていた。
京都にも、アメコにも、もう二度と合わないと決めていた。人生など彼にとって死へと続く憂鬱な一本道以外であり得なかった。彼にとって死を急ぐことは、生きることと何ら違いはないように思えた。彼はカバンからカセットプレイヤーを取り出しヘッドホンを頭に掛けた。柔らかいノイズが広がり遠くからベースが鳴った。オムニシンセサイザーが美しく叩かれ、イアンカーティスは囁いた。
死に損ないの一郎は途方に暮れていたが、静かに歩き始めた。アメコに渡したはずの誕生日プレゼントを持ったまま死ぬのはおかしな話だった。だが、返しに行ってどうするのだ。彼はリュックサックから侵入用のロープを取り出した。自分がまだ死んでいないことに腹を立てながら、本来立ち入り禁止である深い森を歩き、最適な木を探した。しばらく歩いて、彼は根元に洞穴のある巨木を見つけた。彼は両手に透明で奇妙な水かきが付いていることを対して気にも留めず、ロープに輪を作り、古木にロープを投げかけた。自力でよじ登り、高さを調節した。一郎は輪を首に通し、力を抜いた。彼の体重が綱に伝わり、木の枝が揺れる。一瞬苦しむのかと一郎は不安に思ったが、すぐに意識が遠のいていく。混乱と幻想が自己嫌悪の仮面のようににらみ合い、そして死んでいく。アトモスフィアのチャイムは遠く上ってゆく。
瞬時に呼吸困難になり、一郎は視界が赤くなるのを感じ、また次の瞬間しばらく虹色の美しい波が視界を覆うのを感じた、そしてやがて全てがゆっくり暗くなっていった。
木の枝がたわんだ。地面が揺れている、彼は意識を失いながら、そんなことを考えていた。深い穴に落ち込むように感じられた。暗い奈落へ吸い込まれるようで、また彼は重力に解放されるように感じた。ゆっくり、あの世へと運ばれて行くのだ。得体の知れない人のようなものが見える、脳裏をアメちゃんや、家族や、友人たちの姿が見えたような気がする。
彼は美しい夢を見ていた。美しい砂浜で彼は一人で立っていた。彼はまるで何をすべきか知っているかのように、砂を手ですくい上げ、太陽に翳した。手からこぼれ落ちる砂粒の一つ一つは、宝石のように美しく、彼はその中に美しい記憶を見つめた。自分の一生を見つめた。砂つぶは、あるいは彼自身の人生の全ての脳の記憶の粒なのかも知れない。彼は貝殻や、シーグラスや、流木や、他の何もかもを拾い上げてゆっくり見つめた。どれもこれも美しい思い出で、彼は、これまで感じたことがないほどに幸せな気持ちになった。彼は永遠にも思えるような、そんな長い時間を美しい白い砂浜で過ごしていた。しかし、彼は瞬きをすることを思い出し、目が乾かないうちに目を瞑ってしまった。瞳を開くと彼は、もう美しい砂浜にはいなかった、最後の夢は終わり、川崎一郎は真っ暗で恐ろしいような場所にいた。
川崎一郎は、長い綱を首からぶら下げて、一人暗い洞穴に倒れていた。ぼんやり立ち上がり、彼はポケットから垂れ下がったヘッドホンを拾い上げた。音楽は止まっていなかった。ライフ・リビルディング? 長い洞窟をひとり歩きはじめた。洞窟というと語弊があるのかもしれない。それは人によって掘られた地下径である。彼はそれを死後の世界と現実の中間にある場所と考えた。きっとそうなのだろう。そして、ここが暗いからには、彼は今地獄へと続く道を歩いているに違いない。地下を伸びる道には彼の知らない苔が生えている。絨毯のように柔らかく、びっしりと生えている。触れると、それは青白く光る。この世のものではない不思議な植物に一瞥もくれず、彼は地の国へと歩いていく。
終わりのない暗い道だということもあり得るな、と一郎は考えた。死という終わりすら見えないこの道は確かに地獄の服役として、かなり効果的かもしれない。そんなことを思いながら、一郎は十分ほどその薄暗い下り道を歩いていた。
やっと突き当り、壁を見つめた。突き当りの壁は別の種類の植物で覆われている。ヒカリゴケではなく粘性のある水草のような蔦だ。ため息をつき、彼は、電灯か何かがないかとリュックサックの中に手を入れた。携帯電話が壊れたままであったことを思い出した。彼はリュックの底からマッチ箱を見つけ、彼は道を照らすことも忘れて喜び、煙草を取り出し、その壁の前で咥え、マッチを擦った。煙草から煙が上り始めてからも、マッチの火は力強くゆっくりと燃え、白色に光っていた。空気の組成が地上とは異なるのかもしれない。
彼は壁に生い茂る植物を、白く燃えるマッチの炎で照らし、眺めていた。その植物の葉はスカイブルーに透けていた。大学で生物系の勉強をしていたが、彼にもそれがこの世のものではないこと以外確かなことは分からなかった。彼にとって青はこの世にある色で最もあの世的な色であった。青は空と水の色だ。生き物がまとうことは許されていない。鳥や蝶、トカゲや魚のうちで青いものがあるが、それは構造色といって青いのではなく、青く反射しているだけで青い色素を持っているわけではない。だが、その植物は透かしても、千切っても青い色をしていた。やはりこの世のものではない。
彼は煙草を吸いながら、彼は勿忘草の花びらを思い出し、感慨に浸った。彼の思いだす最後の記憶は青い空ではなく、その雑草の花束であった。ここは地獄の入り口なのだろう、彼はそう考えた。彼は既に死んでいるのだ。炎が指に触れる寸前で彼はマッチから手を離した。
その炎が湿った砂に落下し、音もなく光を消すまでの一瞬だけを、彼は現生との別れを惜しむことに用いた。彼が物事を思い返したのはその時が最後だった。スカイブルーの蔦がうごめき、彼は深呼吸をする。
「さよなら」
彼は植物の壁に手を入れ、搔きわけるようにむしった。すると、絡み合う蔦のような水草はひとりでに反応し、奥からゆっくりとほどかれていった。奥に光が見える。星屑ほどの灯りは少しずつ、彼の虹彩に合わせるようにゆっくりと視界を支配し、やがて彼の前に美しい色の紅色に光る道が姿を現した。彼は蔦の壁の中にぽっかりと空いた入り口を跨ぎ、人間の知らない世界に踏み入れた。
ホオズキのような形をしたランタンが赤々と行く手を照らしている。彼はしっかりとした足取りでその道をゆっくり下る。背後で蔦の入り口は音もなく閉じられていくが、彼は一度も振り返らなかった。下り坂の先に、輝く地下の帝国が姿を現したのだ。