表紙へ

ともに浮かべば肺、満ち! 2章

 昼過ぎにだらだらキャンパスを歩いていると、図書館の脇の白い石机でカイワンのカップルとピートが飯を食っていた。二メートル近いオオトカゲがその様子を木陰から覗いており、俺はまずどちらに挨拶すべきか決めかねていた。朝の授業で先生がお前の文句を言っていた、とペアー(カイワンの彼女)が怒鳴った――髪を熊耳のようなお団子にして今日もピンクのTシャツをチョッブジャケットの下に着ている。怒ってた?――彼女は蛙の愛嬌がある顔で眉を吊り上げ、また手指でよくわからないジェスチャーをした。制服の学生たちが大声で話しながら歩き回っていてうるさい。どこもかしこも賑やかだ、落ち着く。彼女は早口でしかタイ語を話すつもりがない為、俺に話す時は常にデカいジェスチャーをしてくるが、そのジェスチャーにしても理解できら試しはない、ほとんどの場合は無視。昼の授業は一緒じゃないだろう?――彼女は苦笑いをした。ペアーとピートは頭が悪くよく落第していたせいで、俺とは授業が被らないことの方が多かった。太ったポリネシア風な女の先生と、若い角刈りゲイの先生が厳しいせいで、彼らの卒業は怪しい。ペアーの彼氏のカイワンは成績優秀だが、皆は彼が長髪であることを残念がっていた。図書館の脇に出る屋台でママーの麺を買っていた――ピートの隣に座り、勢いよく啜ると真っ赤でくそ辛い汁が机に飛び散り、三人同時に勢いよく顔を上げて顔をしかめた。行儀が悪い、と。仕方がない、啜らずに食う術を持っていない。

 結局、カイワンと午後の授業に出て出席のサインをしたら、ティーパコンとケンドーと一緒に煙草を吸いに出てそのまま授業には戻らなかった。それでお前は最近小説とやらは書いているのか、とティーパコンは俺に聞いてきた。書いたところでどこにも行けないのだ、と俺は言った。ケンドーは笑いながら、お前はどうせ日本に帰ったらパチンコマスターになるしかない、真面目にやらずに飄々と生きていくんだろうよ――そんなことを言って笑った。お前はどうするつもりなんだ。彼は知らんと言って、バルコニーの排水溝に煙草を放った。今晩、ジョームのところで大麻をやるけど来るか?とティーパコンが言う。誰が来るんだ?俺とケンドーと、Bと、あと先輩とか、知らねえよ。いっぱい来るだろうよ――唾を吐きながら言った。行くよ、と返事するとティーパコンは親指をぱんと立ててみせ、それから売店の方へ歩いて行った――四六時中食っていないと気が済まない人間ばかりだ。ケンドーは大麻ばっか吸ってるとお前はどんどん細くなって死ぬぞ、と要らんことを言った。背が高いだけでなく、体重も優に百キロを超えているケンドーに健康のことなんか言われるのは癪だった。俺は彼の腹を突いて、お前こそ死ぬんじゃねえのか、と笑った。痩せる分にはいくらでも脂肪があるからな、と彼は髭の奥で笑った。情けない、俺もお前も。

 ケンドーははぐれ犬だ。でぶだからはぐれ豚かも――どちらにせよ、基本的に彼は仲間といつも飲んでいるとき顔を出さない。金曜、俺があのゲッドという某学部女に出会った夕べもケンドーは来ていなかった。結局、あいつは大麻以外の社交には顔を出さない。学校ではだいたいティーパコンといるが、ティーパコンは夜仲間らと一緒にいる。ティーパコンが一番いいやつで、ケンドーが一番賢く、パニックが一番真面目だ。煙草を吸い終わって、ケンドーと解散した後も、俺は学部棟のバルコニーでぼんやりしていた。ちょうど二階のバルコニーからはヤシの木のてっぺんのもりもりしてる奴が近くで観察できる、それを眺めて居ると、遠くの道路を原付やら釣り人やらが通っていく。空が広いせいで細い雲がちぎれて地平に沿って流れていく、まばらにあるスカイスクレイパーの一つでもあの雲に触れたか?サイアム平野は広くどこまでも。研究用の水田の畔に座り込んで雑談するハット被った学生ら。時間は過ぎていった。真下でパニックが腰に手を当てて偉そうにペアーに説教を垂れているのは見えていたが、その様が意識の焦点にあたる場所へ上ってくるまでには多少の時間があった。ピートが原付に跨りながら二人を眺めへらへらしているのを見てハッと人間を垣間見たような気になった。パニックは真面目だが偉そうにしても間抜けは隠せないで、ペアーはあほ面でふざける――ピートはそれを外から眺め笑っているに違いなかった。二階からパニックに待っているよう叫ぶと、パニックは手を振って合図した。戸締り直前の教室からパニックが俺のカバンを出してくれていた。俺は一階に降り、パニックの方へ行くと、彼は何してたんだと聞いてきた。煙草を吸っていた――やけに長いな、と彼は笑う。ケンドーとティーと二、三十本ずつくらい吸ってたからな、と言うと彼は真に受け、病気だろうと言った――ところで、お前金曜の夜に俺はどこへ行ったか見ていないか?――こいつらはあの晩途中まで一緒だったんだから俺がどこでゲッド嬢とばったりしたのか知ってるはずだ――したら、パニックだけでなく、ピートもペアーもげらげら笑い始めた。トイレに行ったきり戻ってこないと思っていたら、一時間ほど経ってからやっとお前は荷物取りにテーブルに戻ってきた――運命の人を見つけたと言いながら――やけに陽気、かつふらふら、お前は幸せそうだった――横には同じくらい変に陽気な女が居た。あいつとは最近どうなんだ?覚えていない、そんなんだったか?と真剣に首を捻って思いだそうとした。運命の稲妻的なものは、だらしない二日酔いに上塗りされた。

 仲間らが去っていくのを眺めて俺は一つ妙な気分になった。彼らが他人であるなという実感が粘土のように手の中に収まっていた、俺はそれを人差し指の付け根にすり潰しながら歩いた。一匹のオオトカゲ、おそらく昼間図書館のそばにいたのとは違うやつが俺の後をずっとついてきて、なんとなく恐ろしくなって走ると追いかけまわされた。急に立ち止まると、一メートル以上ある長い尻尾をぐらぐら振り回しながら、通り過ぎ、そのまま真っ直ぐ走っていき、すれ違い様に彼は言った。そうはいっても最近は前までより寂しくないんだろう?――それだけ言うとそのままドボンと灌漑用水路に消えた。そんなことを言われてもわからなかった。学部を出てシャトルバスに追い越されながらも、他人という実感にばかり触りながら居た――触れられるだけ他人と違うが寄れば寄るだけ誰も彼も他人だった。ンガムヲンワンの大通りに出てバスに乗って家に帰ってしまってから大麻を吸いに行くのに誘われていたのを思い出したがもうどうでもよくなっていた。ベランダの鳥籠柵を眺めて、小さな窓に俺はすっかり収まっていた。