彼女は僕にその煙草を手渡し、にっこり笑った。「ねえ、これを吸って」僕は戸惑っていた。「早く吸わないと、火が消えてしまうよ?」僕が煙草を咥えるのを見ると彼女は走り出した。
僕は深く息を吸った。彼女は止まらず、陸稲の間をかけていき、次第に見えなくなった。誰もいない細い畔を上りながら僕はむせ返った。顔を赤くして何度も咳をした。誰もいなかった、僕は耐えながらひと吸い、ふた吸い、そうして火が消える前に彼女に渡そうと走り出した。青い煙が広がった。
丘の上に一本だけあるチークの木の幹に彼女はもたれて座っていた。正面から夕日を浴びて彼女は鮮烈なピンクに染まっていた。彼女は僕に手を伸ばした。隣に座りその手を握り返すと、彼女は三度ゆすって忙しく手を離し、僕から煙草をとりもう一つ吸い込んだ。夕日の前に紫の光が広がった。煙は深く広がり、その中を夕日がぶつかりながら僕の方へこようとしていた。僕はぼんやり視界が広がるのを感じた――視界はハジけ出してしまいそうなくらいの衝動に満ち溢れている。「フランツマルク的な色彩のほとばしりだ、君の吐く煙はまるで魔法だ。夕日が揺れている」
「揺れているのはあなたに違いないわ」
夕日と彼女の両方から発される原色の尖った光が、僕の目の前のすぐそこのところでぶつかってて、もうすぐ飛沫がかかるくらいだった。「あれはメコンだろう?」遠く銀の帯が輝いており、そこから来る風が陸稲のくさむらに模様を作っていた。
「綺麗」
「本当に。青い馬なんかが駆けてきそうな景色」
「私たちは青と赤の豚」
彼女は僕に煙草を渡した。僕はこの時間に愛を感じていた――深く息を吸い空へ吐き出した。「君の頬はオレンジと赤をいったりきたりしている」
「夕日越しに川を見ると、あなたが言った通り、あそこでは水面が夕日に分解されているの、あの波にバラされてオレンジとか紺とか紫とか深い緑とかピンクやら赤とかもう思いつく限りの色になってるの」
「ここから見ると結構小さい」
「凝縮されて銀色に見えるのね。煌めいてすらいない一番眩しい色であそこにある」
「ブラウン管のテレビが消えようとしている瞬間」
「あなたの天国だ」
「ねえここで広い世界を見下ろしていると、何もわからないという感覚に抱きしめられている気がする。でも、いつだって何かをわかっていたことなんてなかったんだ。わかったつもりになってあれこれ考えてばっかりいたけれど、僕は自分のことだってなんにもわかっちゃいない。本当になんにもなんだ」
彼女は煙草、をね、白いぺしゃんこのシューズの裏に擦り付けて消した。そして、夕日に向かって放り投げた。
「私は川を見ていると思うの。水面の夕日は生だって。あなたのテレビの話と同じ、近くで見れば色々なことが起こっているけれど、離れてみると眩しすぎる」
「きっと死ぬと僕らは砂浜に打ち上げられるんだ。ねえ、僕は何もわかっちゃいないと思ったけれど、聞いてくれ。わかったような気になっているんだ。僕らは水面に立てないのは沈んでしまうからだ、僕らにできるのは泳ぐことと流されることだけだ。じっくり水底のものを見たりはできないんだ。僕ら自身の影に隠されてしまうし、水面の反射はせわしない。でも、死んだ後に打ち上げられる砂浜、あそこに行けば、前まで水面の下にあった何やかやをただ拾い上げて光に透かせて見ることだってできる」
「私たちは今もずっと川にいるの?」
「そうだ山の中に生まれ、海へと流れる川は僕らだ。過去から未来へと流れていく、遡ることはできない。僕らは水面で生きている、小さな波の一つだ、形を変えながらくだっていくんだ。反射する美しい世界は今起こっていることだ、水底に沈んでいるのは、過去の記憶だ。見ようとすればするほど、水面の光も水底の記憶も姿を変える――僕はずっと過去に手を伸ばそうとしていた――でも、真実はすぐそこにあるように見えるのに手を伸ばすと届かない、息ができなくなって溺れてしまう。僕らは水を介して歪んで震えるリアルしか見られないんだ。水という人々の感情にかき回されているんだ。濁った水は、誰かの偏見とか誤解とかかもしれない。澄んだ水はきっと公平に水底を映してくれる。水は綺麗に揺れる時もあるし、そうもいかない時もある。汚らしい水を見てしまうと、世の中に良いものも悪いものもないのに僕たちは、それを悪く思っちゃうんだろう。それでずっと水底にある本当のものに憧れて下流に流されていくんだ」
「どうして海は死なの?」
「海は行き止まりの世界だろう?どこにも行けない」
「私海にいったことがないんだもの」
「いつか一緒に海を見に行こう」
「でもこんな喩え話聞いたあとじゃ何だか嫌な気がしそう」
「でも海は天国なんだぜ?」
「私たちが死んだあとに打ち上げられる砂浜には何があるの?」
「今まで水面を通してしか見られなかったものだよ。過去と記憶だ、何もかもが積み上がっているんだ。そんな中には頭に入ってきたきり死ぬまでに一度も引っ張り出されなかった記憶もあるはずだ。そんなこと覚えてたのも知らなかったような小さな記憶。五歳の頃に通った散歩道の草の匂いとか、いつかのタクシー運転手の顔とか、全部、本当は覚えていた記憶が打ち上がっている。懐かしくて懐かしくてもうやめられなくて、一個ずつ全部見ていって、きっと夢中になって漁っていたら、角の取れたガラスのかけらなんかも出て来るはず。青とか水色とか緑とか茶色のガラスのかけら。生きてる時にずっと手を伸ばしても届かなかった大事な思い出だ。それがまたうんと綺麗なんだと思う。きっと見るなり泣いてしまうようなそんな思い出が海には――」
「砂って白いでしょう?」
「水面やテレビと同じだよ。本当はカラフルなんだ。僕は子供の頃に、砂を顕微鏡で見たことがあるんだ――色々な形をしていた」
「夢みたい」
僕らは黙って夕日が川の向こうに沈んでいくのを眺めていた。空は血のような赤色をしている。彼女は言った。
「私、別に見たくない。思い出なんて、ひとりで見ていても寂しいだけよ。それに、多分、その砂浜でひとり幸せな気分になってもやっぱり仕方がない、そこには本当のもの、一回みたものしかないんでしょ。私、絶対に不完全でいびつな川の流れに戻りたくなってしまう」
「じゃあ、なんとかするしかないよ。生きているうちに」
夕日はラオスの向こうに見える山の奥に沈んでいって空は紺色になっていた。
「帰ろうか?」
「そうね」