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アポカリプスドリームス 5.

 都会は喧騒に包まれている。往来では、停止している自動車やバイクのエンジン音が響いていた。歩道を行き交う人々も大きな声で話をしている。交通整備の警察官はヘルメットを被り、紺とも深緑とも茶色ともつかない黒に近い色の長袖の制服の上に蛍光オレンジのベストを着て、笛を吹き、手を回す。

 日が暮れた直後の薄明の街で、人工の光は徐々に自然光を上回って行くのだ。信号は変わり、交差点の先頭で待機しているバイクは走り始める。そして、赤いブレーキランプの群れは前から順に光を消していく。横断歩道で大きな声で話している人の中には中国人もムスリムもいた。もちろん学生や小さい子連れの観光客の姿もあった。

 憩いの時間の中を、ゆっくりと香の煙がカワサキの傍まで漂っている。近くに大きな祠があるのである。街の真ん中でショッピングモールの眩しい照明に照らされながらその祠はあった。そこでお香を両手で挟んで膝をつきお祈りをする老婦人がいる、おしゃれをした若いカップルがいる、うす紫の制服を着た高校生がいる。

 高架の上をスカイトレインが走っていく音が都会の喧騒を一瞬覆って、また笛が鳴る、中国人が横断歩道の向こうの連れに何かを叫ぶ声、タイ人の夫婦はタイ語で話す声。

 一瞬地面が震えたような気がしてカワサキイチロウは地面を見た。見ただけでは揺れているかどうかは判らない、そうと知っていても視覚に頼ってしまうのが人なのだ。カワサキが違和感を覚えイヤホンを外した時には、既にすっかり辺りは静かで、皆は周りを見回していた。車が完全に止まっているにも関わらず、クラクションも笛も止んでしまった。時間が止まった街を、お香の煙だけが動いている。カワサキイチロウが終に恐怖に気がついた瞬間、時間は早まり、遠くで大きな爆発音がした。人間の直感性は現代においても機能しているのである。

 カワサキも、彼の周りの人々もすぐに地に身を伏せた。二秒後にさっきのものより少し大きく爆発音が鳴り、周りでは人の泣き叫ぶ声が響き始めた。しかしカワサキの気が動転することはなかった。爆破テロに違いないと彼は分かっていたのだ。そう、この場所は数ヶ月前にテロがあったのと同じ場所なのである。また二秒経って音が鳴った。爆発音は近づいている。カワサキはやっと逃げなくてはならないという状況を把握した。彼が顔をあげると再び爆発音が響いた。

 カワサキの他の人々は地面に伏して手を合わせている。膝を折って頭を地面につけその前で手を合わせていた。

 まだ恐怖に倒れて神頼みするような状況ではない、逃げられるはずなのにどうしてこの人たちはひれ伏しているのだろう、という当然の疑問がカワサキの脳裏にはあったのだが、この状況でその疑問に対する答えを見つけることはできなかった。カワサキは気を確かにして、なんとかひれ伏す大衆の中に逃げ道を見つけた。

 片道四車線の広い道路の内側二車線分が、神に割られた海のごとくすっかり空いていることを知りカワサキは一目散に駆けたのである。その間にも、爆発音は二秒おきに徐々に大きくなり続け、遂にその音は窟で鳴らされた鐘のようにカワサキの耳の中から響いては消えなくなっていた。爆発は車道に沿ってカワサキの方へ近づいて来てはいるが、どうしても逃げられないほど速いわけではない。

 車や原付の間を縫って、死にものぐるいで走り、カワサキは車道の真ん中にひらけた二車線分の空間に飛び出した。停まっている車の窓の奥で人々は手を合わせて音のする方を向いている。爆発音も地鳴りも、既にカワサキのすぐ近くにまで迫っていた。音の方向を見る暇があれば走るべきだと分かっていながらも、どうしても恐ろしさに芽生えた好奇心に抗えず、彼は後ろを振り返ってしまった。

 そして見上げた。

 地鳴りのする方角には、七メートルほどもある巨大な一頭の象がいたのである。その象の近くに止まっているバスすら、象の隣では小さく感じられる。ショッピングモールの二階と同じ高さに目があるのである。とてつもなく大きな象だ。

 象の瞳は小さく黒かった。象の瞳はカワサキに怒りや悲しみという負の感情を思い出させた。巨大な象は、進路を遮る形でよろけているカワサキを見るなり、その巨大な濃いグレーの胴体を小さく震わせた。そして、言葉を話すかのようにブォっと乾いた空気の音を鼻から吹いた。驚いたカワサキは慌てながら象に道を譲り、傍に下がった。象は堂々とゆっくりと一歩ずつ前に進んで行く。鼓膜が割れそうになるなるほど大きな足音と、膝が崩れるほどの揺れを伴って象は歩いた。そして、立ちすくんで震えているカワサキの目の前に止まり、左目でゆっくりとカワサキを見下ろした。もしかするとカワサキイチロウではなく、彼を透かした後ろの世界を見ようとして偶然に彼を視界に入れただけなのかもしれない。どちらにせよ、人間の感覚的にかなり長い時間、カワサキは象の瞳に映っている不安げな自分の姿を眺めていた。

 何かが腑に落ちたかのように、象は鼻を少しだけもたげ、再びブォっと音を鳴らした。そして、小さく横に、カワサキに半歩寄った。カワサキのすぐ目の前に象の真っ白で長い牙がある。長さ四メートルもある、窯から出したばかりの白い瀬戸物のように淡く青みのかかる、キリッと澄んだその牙は、深い透明感を誇っていた。牙は左右で対になり美しく湾曲している。それはこの世のものとは思えないほどに美しく完璧だった。牙の先端は優しく丸みを帯びている。カワサキの心の中に広がっていた畏怖の感情は少しずつ薄まり、膝の震えもいつしか収まっていた。きっと何千倍も青年より長く生きているであろうこの動物に、何故か彼は尊敬の気持ちを抱いた。カワサキイチロウは同じ重力にとらわれた存在としての共感、親しみをも感じたのである。

 象は首を曲げ、カワサキに顔を向け、長い鼻で彼の身体を優しく撫でた。その力、優しい鼻の撫でる力にカワサキは心と身体を委ねたようで、自然と彼は地面に膝を折って座り込んでいた。気づけば周りの群衆と同じように象に頭を下げていたのである。象は優しくカワサキイチロウの背を撫で、むき出しになった彼のうなじに鼻の側面を添えた。象の力強い脈動を、古く分厚い皮膚越しに感じたカワサキは、その生命の動く波に心地の良さを感じて目を瞑った。そして頭を空にして、平穏の淵へと沈んでいった。