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アポカリプスドリームス 9.

 彼女の部屋は裏通りの小さな雑貨屋の二階だった。彼女の言葉を借りれば「その店にはなんだってある」――冷えたコーラ、ビール、常温のミネラルウォーター、セングソーンウィスキーからホントンラム、ブレンド、そしてジャックダニエルがあった。飲み物だけではない、カップ麺やインスタントのお粥やチップスが売ってあった。店主の老人はピクリとも動かず、青いプラスチック椅子に腰掛けてテレビを眺めていた。彼女はこれが自分の叔父だと言うが、挨拶なんかはせず店のなかを素通りし、裏口から続く階段を登った。部屋の窓越しに日没色に透けた裏通りのバーの笑い声や、叫び声がぼんやりと見られた。人はどこかで楽しそうに生きており、僕ら二人はそこから追い出されていた。床のほとんどを覆っている絨毯の中央には大きなホタテ貝が――その上には蝋燭のとけた跡があった。その貝と、テーブルの上にある空っぽの水槽が、伽藍堂然とした部屋の広さ、空白を際立たせた。

「海の夢は見るのか?」

「いいえ、見たことがないから」彼女は貝殻をとり、眺めた。

「これは誰かにお土産でもらった、珍しいと思う。あなたも南極土産にペンギンのくちばしをもらったら飾るでしょう」

「南極は遠いから」

「海だって遠いのよ。モーターサイクルじゃ行けっこない」

「次もし会うことがあったならば、僕の故郷から、歩きながら鳴らす鉦を持ってきてあげよう」

「ホトケの関係の品物?」

「そう、巡礼の印だ、持ってどこまでも君は歩いていくんだ。海も遠くない」彼女は台所で洗ったグラス二つに氷を入れて戻り、僕に栓抜きを寄越した。僕らは日の暮れるよりも前から部屋にこもって、ビールを二本、三本と空けていった。ほとんど話をせず儀式的に酒を飲み続けた。やがて暮れると彼女はホタテの上に蝋燭を灯した――見上げると天井に電球ははまっていなかった。全ての瓶が空になったとき、僕が考えていたのはビールなどうまいものではない、ということだった。蝋燭の炎の中で彼女の青白い顔が揺れていた、半開きの赤い口は湿っていた。僕は黙ってその顔を眺め、ゾッとしていた。彼女も僕を見つめていた。僕は部屋にあった国産酒ラオカオの瓶を、決して彼女に渡さないよう抱きかかえていた。これを飲めば最後、彼女があのみみずのような母国語に覆われ、やがて僕らの共通の言葉を口にしなくなるだろうと信じたからだ。絨毯に背を預け壁に揺れる彼女の影をぼんやり眺めていた、この奇妙な人の影はとても臆病で暖かかった。

「昔は、日本でもあちこちで燐光が飛び回っていたらしい」

「なにそれ」

「死んだ人の魂とか、お化けの炎。でも、そういうのは現代の都市の光で見られなくなったらしい。誰かが言っていた」

「誰がそんなこと言ってたの?」

「覚えていないよ。どこかのおじいさん」

「ここじゃまだ見えるのよ。死人の魂はゆらゆら、首都の近くでも一緒だと思う。見たことない?」

「蛍だって見たことない」

「蛍の方が珍しい。故郷でも見ない?」

「見ないよ。でも、生まれた国にはお化けがいるよ。感じるし、薄ぼんやり闇の中に浮かび上がるし、動く。でもここじゃそういうのないね。音も気配もなにも感じない。怖いことはなにもない」

「いっぱいいるのよ?鬼火だったら窓から見えるくらい」

「嘘だ」

「字も読めない言葉も解らない人に見えるわけないじゃない」彼女は鼻をすすり、髪を後ろでくくった。「暑くない?」と僕に尋ねた。僕がいつも暑いと答えると彼女は首を振り、目に入ったグラスのウィスキーを飲み干した。氷が音を立て、彼女はどうしても暑いので夕食がてら外へ行こうと立ち上がった。その表情はもう恐ろしいものではない。僕は彼女について靴を履き、部屋を出た。僕の他にも外国人の旅人がいた、彼らは赤く焼いた肌を夜風に冷やしながら大股で歩いていた。彼らのように自信げに他所の土地を踏み歩くのに僕は慣れていないのだ――彼女もゆらゆらと、自信なさげに歩き、時折酔っ払いらしくありもしない星を探そうと見上げていた。

「ここには秋があるんだ、君はその差に気が付く?」

「ずっと夏で季節は雨が降るか降らないか」

「風なんだよ、この夕涼みの風は肺にもつれ込む、焦燥感を孕んで――」彼女は返事せず、星を探しながら歩いていた――淀みなく話しなさい、さもなくば――「匂いなんだよ、いつもの匂いとは違う、十月なんだ。僕は懐かしくて――」酸素が足りなかった、僕は溺れそうな気がした。

 彼女が僕を連れて行ったのは、市場の中にある麺屋台だった。そこで麺を啜りながら、僕はついに涙を流し始めてしまった。ここの野菜出汁の必要以上に濃いスープが、故郷で母が家族に振る舞ったあまりうまくないうどんの味に似ていたからだ。「やがて十一月になるとストーブを出して、その上のやかんで湯を沸かすようになるんだ、僕が宿題をしている、父が仕事から帰る、妹はソファーでテレビを見ている、母の料理の音。石油の匂いが平和を象徴していた。妹だけが熱い緑茶を飲まず、冷えた麦茶を飲んだ。その面には綿のような海藻をのせるんだ」

「ここには石油は香らない、ガソリンスタンド以外では」

「秋の香りは他にもある、ここにあるのは焦燥の香りで、でも僕は石油の香りがする家へ帰ることができない」

「落ち着かないの?」僕は忙しく何度も頷き、唾を飲み込み、箸を置いた。