表紙へ

bum  第3章 aki ..5

✧  

 朱色の袈裟を来た比丘が寺院の掃除にやってきた。枯れ葉を掃く音が淋しく響いていた。

 宿を探すことも忘れて話し込んでいた僕らは、寒くなってようやく日が暮れかかっていることに気がついたのだ。僕らのことが見えていたのか、彼は林から枯れ枝を一抱え持ってきて、境内でたき火をつくれた。

「僕はもう十一年もこの寺の世話をしている。こんな長い間いる若い比丘は僕の他にはいないよ」とラオス語で話した。ラオ語はタイ語に類似していた。簡単な意思疎通は可能で、僕たちは複雑でない言葉で語り合った。その晩、僕とホタルは比丘の好意に甘え、結局この今にも崩れ落ちそうな寺院の床で眠ることになった。

 僕とホタルと比丘は日が暮れてからも、長いこと外で焚火を囲んで話していた。

「君は日本人なんだから知っているかもしれない」そう言って僧侶は両手を鳴らした。パンと音が響いた。

「両手で打ち合わせる音が聞こえるだろう?」

僕は頷いた。

「なら、片手で叩くとどんな音がする?」

僕は首を傾げた。ホタルは聞いているのか分からない。どこかで買ってきた魚をむしゃむしゃを食べながらこちらの話をうかがっている。

「人はその音を知るために生きているんだ。生きているからにはその音を追い求めるべきなんだな。いや、きっと追い求めようとすると至れないだろうね。自ずとそこに至らないといけない」

 僕の方をまっすぐに見つめてその比丘は話していた。眼下の町、対岸のルアンパバンでは夜市が開かれているらしく、明るい光の群れが、一カ所にあった。しかしそれより明るい光が僕のそばにあった。たき火は音を立てて燃えていた。僕はその音に耳を傾けていた。

 ✧  

 ひとりで目を覚ました僕は寺院に荷物を残し丘を降りた。漁師の船が何艘か行き交うのが見えたのだ。

 朝日が昇る寸前の静寂をここの人々は目を開いて飲み込むのだ。魚籠を抱えた青年がいた。彼は泥の岸辺を歩いて行く。裸足だ。僕はケープのような褐色の繊維を雑に身体に巻き付けて、それでもなお寒さを感じていた。しかし漁から帰る青年は寒そうに見えない。彼は半そで半ズボンで元気に歩いている、無表情に歩いている。

 僕は不意に懐かしさを覚える。彼はほとりの木々の下を歩いて家々の陰に消えた。僕は彼が行ってしまった後にも、彼のことを考えていた。彼が残して行った舟を眺めた。水辺の泥に乗り上げたその木の船は小さかった。舳先を柔らかい泥に刺して、川の水の流れはその船にせき止められ向きを変え、避けるように流れていく。水は動じず、嫌な顔せず、迂回して、自然と流れていく。

 漁師の青年が残した足跡は今も歩き続けているようで、まるで人の気配が人をすっかり抜けて土の上に落ちているようだった。僕はついに、人は何故歩くのかを考え始め、メコン川の流れ、歩いて渡れないそれを不思議な世界と捉えるようになった。僕が歩くのは本能の欲するからだった。彼が歩くのは生きるためだろう。ホタルが歩くのはモーターサイクルが使えないからだ。

 僕は歩きながら何をしているか?歩行は呼吸と同じ無意識の行為だ。歩行は無意識に行われ、それなしに生きられない、そしてその行為から至上の幸せを感じる。歩行は時に、僕に考えることを促す。考えることに気づくと、僕は歩みを緩め、あるいは立ち止まり、座って休むかもしれない。

 今、僕は立ち尽くしていた。泥の地面は柔らかく湿っている。とても座ることのできる場所ではない。いつのまにか僕はサンダルを脱いでいたらしい。サンダルは遥か後方の、木立のそばにあり、僕は水際に近いところにいた。寒いと思っていた時、僕はサンダルを履いていただろうか、脱いだのは青年の足を見た時だっただろうか、僕はその時どこから、青年が魚籠を運ぶのをみていただろうか、はっきりと思い出すことはできなかった。だが僕の後ろには裸足の足跡が残っている。

 足跡をたどって自分のところまで戻ってくると、足についた砂泥が目につき、途端に小さい砂粒の一粒一粒の感触が思い出され、僕自身が地面に直接触れていることを知った。その地面は柔らかく、ざらざらとした土で、少し動くと冷たい水が染み出てて、僕を感じさせる、そして感覚は僕を透過して、背中側へ抜けていく。それは地が僕に入り込むと同時に、僕の心が地面に染み込んでいるような状態で、実際にそうなのかもしれない。

 僕の歩行に対する本能は、心を地面に溶かし込むことを目的としているのだろうか?細い二本の脚を糸電話の糸にして、僕は世界を感じようとしているのか?丘の上に戻ろうと川に背を向けると、緑の木々の下を、橙色の托鉢の列が通っていた。

 ✧  

 丘を上がって寺院に戻ると、焚火の跡でホタルと例の比丘が並んでコーヒーを飲んでいた。

「コーヒーか、良いね。どこでもらえる?君、托鉢は?」

「ネスカフェーだよ。もち米が余っているから欲しかったらあげよう」と彼は言った。

 ホタルが立ち上がって、僕を寺の裏手にあるやかんをかけてある焚火に連れて行ってくれた。ホタルがコップをすすいで粉を入れ、僕は布で覆った手で熱いやかんを持ち、お湯を注いだ。

「マークもあるって言ってたよ」

「いいよ。マークはいいよ。あれ僕の中ではイサーン以外では食べないようになっているらしい」

「それはノートに書いてたの?それとも思い出したの?あなたイサーンの日々を覚えているの?」

「ノートだよ。書いてたよ。マークを見ればイサーンを思い出すんだろうなってホタルが言ったと書いていたよ」

「なんでも書いているんだね」

 コーヒーを飲みながら、彼とあと少しだけ話す。もち米ももらう。右手にもち米、左手にコーヒー、美味しいとは思いづらい組み合わせだ。すっかり日が上った頃、僕とホタルは比丘にさようならを言いルアンパバンを去った。