表紙へ

bum  第1章 haru ..8

 ✧  

 昼間に農作業を終えて小屋に戻った時なんかは、いつも早い方がハンモックを取り、遅い方が縁台で昼寝をした。双方に平等にアボカドが木漏れ日をこぼした。実もそこら中に落ちていた。しかし、その森のバターが積極的に食べられることは稀で、通りがかりの村人に分けてやることがほとんどだった。

 今日はもう畑から帰って、僕はハンモックを独り占めしていた。ホタルも戻っている。僕は瞼に太陽光の玉を感じながら昼寝をする。ホタルは部屋でカップ麺を食べている。

 窓の開く音がして目を開けると、プラスチックのフォークでホタルがカップ麺を食べている。窓の向こうから僕に話しかけようとしているところだった。フォークを持つ右手の指には烟草も挟まれている。ズルズルと音を立てて赤い香辛料のトムヤム滴る麺をすすり、「どう?日本人みたいでしょ!」と言ってきた。

「わかんないから」

「でもいっつもあなたズルズルやってるよ」

 窓越しに麺をフォークにぶら下げて僕の口まで運んで来ようとした。顔に辛い汁がつくとひりひりするだろうなと僕は仕方なく起き上がり、口で迎えに行った。

「もうね、部屋の中に入ってくる風が暑いったらありゃしない。なんか、影だから涼しそうに見えるでしょ?でも全然ダメ。もう100パーセントのお昼じゃない?」

 風に乗って烟が薄く流れていく。床の下では鶏が歩いている。

「僕は気持ちがいいけれど、涼しいところに行きたいのなら、今日はもう用事はないし出かける?」

「蝶を見に行こうよ」

 僕は立ち上がった。彼女は吸いかけの烟草を僕に渡して、窓から顔をひっこめた。階段を駆け上がる音が聞こえた。お出かけの準備に何が必要なんだろう。

 吸いさしの烟草からは、当然だがトムヤムの味がした。彼女は口紅をつけない。だが今日の烟草は吸い口がほんのり朱い。

 僕は縁側に置いてある籠を、彼女がどこかから借りてきて小屋の前に停めているピックアップの荷台に乗せた。どうせ車を返しに村へいくだろうし、その時に倉庫へトウモロコシも運べばいい。

 リュックサックを背負い、ネイビーのTシャツを着て出てきた彼女は、籠を見て声を上げた。「急がなきゃ。もう出荷の時間だよ。さあ、さあ、何突っ立ってんの」とわざとらしく僕をせかす。待っていたのは僕の方だったが、こういうのは楽しいから好きだ。彼女はキーをカチャカチャ鳴らして、忙しそうに運転席に乗り込み、僕がゆっくり乗り込もうと、足をかけると、相変わらず「さあ、さあ!」と助手席を叩いてまくし立てる。村までは歩くと十五分ほどかかるが、車で行けば二、三分だ。そんなに慌てなくても。

 集荷をしているのは、ホタルの幼馴染の家の隣にある倉庫兼集会所だ。セメントの床にジジイがぺたんと座って、カッサバを仕分けている。大きさか重さかをみて、背後のピックアップの上にあるプラ箱に投げ込んでいる。振り返りもせず、投げているから、入っていないカッサバもある。トウモロコシの籠を四つジジイの前に置くと、重さだけ図って帳面に記録するよう教えてくれた。ホタルはやっといてね、と言って幼馴染に会いに行ってしまった。

「マークは?」ジジイが噛み烟草を勧めてきた。僕は興味本位で頷いた。マーク椰子の実をはさみとペンチの合わさったような器具で砕いて、何かの葉っぱに包んで渡して来た。噛め、と言う。口に放り込んで噛むと、ほとんど味はしない。なんとも言えない噛み心地があって、これはなんだろうと真剣に考えているうちに、少しずつ味が分かり始める。甘いとも苦いともいえる。渋さもある程度ある。不思議な味は一言で表せない。

「昔は良かった」

 カッサバを投げながらジジイはひとりごとのように言った。

「何が?」

 ジジイは何か言おうとしているが、昔はこの村も、と言い、ここいらは道もろくなものがなかった、とか、学校なんてものはもう、という調子に歯切れ悪く中途半端に言葉を空中に浮かべるにすぎず、やがて諦めたのか、裸足でぺたぺたと外まで歩いて行って、植木の脇に噛み烟草を吐き出した。

 人が昔を懐かしむことは美しいことだと、第三者の僕からは思える。しかしそれは当人にとって本当にポジティブな感情なのだろうか、そう悩みこんで人間特有?の懐かしさの感情が分からなくなった。例えば、鮭や鱒が生まれた川へ戻る時に、懐かしさを感じているのならば、それはもっと簡単に自然として説明のできるものだったかもしれない。こうも言葉にできないでいるのを見ていると、美しさも不透明で、こちらまで切なくなる。

 彼にとっての昔の思い出は脳の中でどんな形をしているのだろう。それは曇り空の向こうに透ける太陽のような形をしているのか、それとも雲そのもののような形をしているのか。きっと彼の記憶は現実に面影を残すわけではなく、脳裏にもはっきりとあらず、ただその記憶とか経験に対するぼんやりとした感情だけが、かつてそこに記憶があったことを覚えているのだとすれば、そこに記憶があると言えるのだろうか?彼はその感情を引っ張って元あった記憶を呼び起こすことができるのだろうか。忘れてしまった人の中に残っているものは何?僕は知りたかった。

 彼が吐き出す噛み烟草は、それこそ昔はタイ中どこでも見られたものだった。しかし今では田舎でジジイババアが時折噛んでいるだけになってしまっているらしい。マークを噛んでしばらく経って、口の中から頭まで、ほんのりとひりひりする気がしてきた。しかし、それは気のせいかもしれない。身体が弱い電波をたくさん浴びているような感覚で少し暖かい。が、それも気のせいかもしれない。その程度の変化しかない、が悪い気分にはならない。

 こんなに面白いのにマークは、歯が黒くなってみっともない、マークを誰も彼もが吐き出すから道路が先進諸国に程遠い、前時代的だ、と言われタイからほとんどなくなってしまったらしい。良いじゃないか。道路なんて今もたいてい汚いんだから。僕は口が赤黒い人と喋ってても、気にならないのに。

 僕はジジイにどこでマークの実が取れるのかを尋ねた。彼は、西を指し、あちらに山があってそこの畑の脇に生えている、と言い、モーターサイクルで何キロどの道を、と説明しかけたところで面倒になったのか口を閉じた。遠いのかと聞くと、遠い、最近はしょっちゅういくことはなくなったとぼそりと言った。しょっちゅう行っていた頃が懐かしいのか、と聞こうとしたところでホタルが戻ってきた。彼女は首から上等そうなカメラを提げている。

「借りて来た!」

 遠くの彼女に返事をすると、口に含んだままのマークが飛び出そうになる。

「あなた何を口に入れてるの?マーク!?また、もう変なものばっかり教えないでよ」

「どこに行くんだ?」

「蝶を見に行くのよ」

「どこへ?」

「タットトンに」

「取ったら怒られるぞ」

 ホタルもジジイも明るい顔で話している。

「知ってるってば。一緒に来る?」

「いや、おばあさんの水道が漏れてるらしいから直してやらないとな。彼にマークを取ってる畑をおしえてやってくれ。通るだろう?」

「通ったらね」

 僕は二人が話すのを耳の隅で聞きながら、庭先にマークを吐き出しにいった。一体いつまで噛み烟草というものは噛んでいるべきなのだろうかと思っていたが、ハッキリ味がしなくなったなと分かるタイミングがあった。

 車に乗ってホタルに国立公園に連れていかれている道中も僕はずっと窓からマークのかすを吐き出していた。口の色んなところから細かいカスが出てきて、唾がすごく溜まるからだ。

「それドアとかについていたら嫌だわ」

「あぁ、気がついたら掃除をしておくよ」

 この近辺では五十キロ圏内を近所という。僕には近所の山、と言われるタットトン国立公園がとても遠い場所の様に感じられるが、彼らにとってはそれも近所である。視界の奥にこんもりとした山のシルエットが見え始めたころには、僕は自分が他所の時代まで移動してきたような心持だった。

「さっきマークが生えてる畑通り越しちゃった」

「爺さんはこんな遠くに何でわざわざ来てたの?」

「あの爺さん、娘がそこの村に嫁いだのよ。最近は身体が良くないからあまりいかないみたいね」

「そっか。来ればよかったのに」

「つらいんじゃない?」

「何が」

「彼は自分の生きて来た世界が減ってしまったのをあまり見て歩きたくないのよ。寂しさ、そうじゃない?彼って頭はっきりしてるのよ。でもあんな風に途中で話すのをやめてしまう癖があるの。昔はずっとべらべら喋ってたのに、その喋ってた思い出の景色が少しずつ減って、話す言葉も一緒に減って、寂しいわ」

 車は森の中を走る。道は広いが、ところどころコンクリートに穴が空いていて、座席が揺れる。決して高くない、険しさもない、柔らかい丸みを帯びている、そんな山だ。しかし丘というには大きすぎる。葉の厚みと青緑色は森の持つ温かさを思わせた。きっと古い山なのだろう。なだらかな山並みはどこか遠く、北へ続いていくことを予感させた。

「乾季だから、川が干上がってるかもしれない。そうすると、蝶もいないかもしれない」

「まさか、蝶は泳がないから関係ないでしょ?」

 ホタルは無視して続ける。

「まあ水が少なければ、泳げないぶん人も少ないだろうし、快適かもね」

 ご機嫌らしい。彼女は烟草に火をつけて窓を開けた。通りかかった商店に大声で道を尋ねる。婆さんは大声で教えてくれた。また大声でお礼を言い、発進する。涼しい木立の影を走りながら、彼女は頬を撫でる風に歌う。

「耳を傾けて、まっすぐ聞いて、朝にまた来る。僕はぼんやりしているだけだから。君の烟草が燃えている。君のめちゃくちゃな世界が僕をひりひりさせる。ねえ、僕は迷ったよ」

 何の歌?と僕が尋ねても彼女は構わず歌い続ける。彼女の声と横顔に歴史、彼女の生きてきた歴史を辿ろうとする。それは元からなかったもののように、僕の指の隙間から逃げていってしまった。道が折れる度に、クラクションを鳴らして、見通しの悪い道をのぼっていく。太古の森から帰ってくる車たちがライトを照らしたまますれ違う。僕たちは蝶を見に行った。