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-CANDY- Candy Says 6章

(2019/07/15)

 快晴。どこまで深く澄んだ青い空、まっすぐな太陽。僕の気分も晴れている。くだらない過去を振り返る隙も無い。アメちゃんはおかしくなりそう。跳ねる心で夏と遊ぶ準備をしている。彼女は水着を買った。僕も水着のショップに連れていかれた。周りにいた若い女性に嫌な目で見られるが、こればっかりは仕方がない。僕は強引に引きずって来られたんだから。彼女はシンプルなワンピースの紺色の水着を選ぼうとしたが、僕は見るなり猛反対してしまった。そりゃスク水とほとんど一緒じゃない、君は華奢だし似合うかもしれないけどね、このご時世ロリコンに見られる周囲の目を浴びて痛がるのは僕だよ、と勘弁して頂いた。

 次に彼女が選んできたのは、普段下着代わりに使ってる紺色のタンクトップと同じ形の上と、真っ赤なチーキーボトムとか言われるビキニだった。試着室から出てきた彼女を見て僕はゲラゲラ笑ってしまった。変だと言うと、また口を尖らせて怒った顔をして見せる。鏡を見ろと言うと、アメちゃんはきゃっきゃっきゃと大笑いして赤いのを脱ぎ始めたので、僕がピシャッとカーテンを素早く閉めた。

 服を着て出てきた彼女は不安げに「どうしよう」と言う。一旦僕らはショッピングモールのベンチに座って、作戦を立てた。アメちゃんは紺色が好きだ。そして、殆ど胸がないから、上半身は露出したくないのだと言う。けれども、お尻は可愛いと自分でも自信があるから見せびらかしたいのだ、と説明してきた。上半身を隠して下半身がよく見える紺色は、要するにひと昔前のスク水である。そこで僕は、君のお腹とか背中とか、後おへそなんかは可愛いんだから、肋骨くらいから下は見せびらかしてもいいんじゃないか、と提案をした。

「色は?」とアメちゃんは僕の顔を覗き込む。「アメちゃんの好きな色って青じゃないの?」「まあ、青が好きだけど、青は、派手だから紺を着るの」「青ってそんな派手ってこともないよ。綺麗って感じ、澄んだ色だし」

 そこまで作戦を練り、僕たちは再び水着の店に入った。今度はアメちゃんが一人で選べないのを身を以て実感していたから抵抗はなく、責任感を抱いて、堂々と僕は水着屋に入った。彼女は青色発光ダイオードの様な美しい深みのある、しかし最大限の鮮やかさも持った色のタンクとビキニの下を左手にぶら下げ、得意げな顔になって歩いて来た。ビッと広げてにんまり顔で僕に見せる。相変わらず、リボンなどの飾りや模様もない、単色のシンプルなものだ。彼女らしさはここにある。「どうかな?」彼女は寄ってきて、静かに尋ねる。「試着するまでもない、完璧じゃない?」

 次の朝、僕らは水辺に出かけた。海水浴に行くんじゃない。僕たちは大仙古墳に侵入する。一か月作戦を立てに立てていた。今日は待ちに待った日なんだ。放棄された工場と違ってそこに立ち入るには気合いと勇気が要る。立ち入り禁止の規模が違う。あそこは国に決められている禁足地なんだから。じゃあ、今思うと水着をあんなに真剣に選ぶ意味はあったのか、と思うけれど、まあ誰かに見られてなくても、人は素敵なものを着たいに決まってる。気合いと勇気はいくらでもあった。僕たちはとにかく、自由に支配され、時間を支配する感覚に取りつかれていた。侵入のことばかり考えて暮らしている男女だった。

 彼女は朝早くに起きて今日の晴れ着を選んだ。夏らしい服を何着も抱えて僕を起こしに来た。僕はすごく寝起きが悪い。彼女は文字通り僕を叩き起こし、「どっちがいいかな」と近所中に響くような声で僕に聞いた。

「わかった。起きる。真剣にどちらが似合うか考える。頼むから叫ばないで」と僕は身体を起こす。彼女が持っているのはどれもワンピースだった。僕が数日前にワンピースを着ている女の子が一番涼しそうだと商店街を歩きながら言ったのを覚えていたらしい。彼女は普段ほとんどワンピースは着ないけれど、今日は押入れから引っ張り出してきたらしい。真っ白、紺、ミントグリーン、水色、白地にグリーンの植物柄の入ったのと、赤と彼女はカラフルな色とりどりのワンピースを代わる代わる身体に重ねて、僕の顔を見続ける。

「白」

「どっち?」

「ツタが生えてるやつ」

 聞くが早いが彼女は例の青い水着の上にそれを被って、僕は「もう水着きてるの?」と笑った。「小さい頃の夏休み、プールの日は家出るときもう服の下に水着を着てたでしょ、あれワクワクしたじゃん」濃い緑の刺繍の入った白のワンピースに、紺のリボンのついた麦藁帽を被ってアメちゃんは早く行こうよと僕をせかした。夏の日、来たれり! 僕たちは今日、古墳に隠された淡水のプールで水浴をするのだ。ホームセンターで更に補強した侵入セットをカバンに詰め、電車に乗った。僕らの青春の一ページに、残酷なロープとクリッパー、ペンチは不可欠だ。大仙古墳に着くと足慣らしに一周歩いて回る。まあ、侵入する場所は決めている。濠の囲む遊歩道の表情はさまざま。あるところで広い車道に面しており、あるところは公園になっている。事務所と、拝稜のための門がある一角、住宅街が歩道を狭めている面もある。公園のあたりから侵入するのはまずありえない。公園では子供や老人が何か面白いものはないかときょろきょろ辺りを見ている。僕らのような人間は格好の餌食だ。一部始終を目撃されてしまう。事務所も車道側もありえない。理由は言うまでもない。

 僕たちが選んだのは住宅街に面した一角である。住民がすぐそばで生活していると考えると気が引けそうだが、彼らは毎日ここにいて、古墳になんか飽き飽きしている。僕らの姿が仮に見えたとしても、二度見しない限り何をしているかも気づかないだろう。

太陽は真上でサファイアの空を照らしている。空気も僕らも、泳ぐ準備はすっかりできていた。クリッパーもペンチもロープも役に立つ場面はない、一目見てそうわかるくらい低い柵を越えて、僕らは大仙古墳に侵入した。

「ほんと、大したことないよね」と彼女は言った。

 周濠に沿って僕たちは柵が壁に取って代わられる場所まで歩いた。そこで急いで夏の衣装を脱いで水着になる。せっかく水着の出番だが、水は泥で濁っている。亀が侵入者に驚いて逃げていく。最外部の濠は細く、水着は泳ぐためではなく、濡れるためにあるだけだった。人に見られると困るから急いで岸まで渡る。陸に上がると木陰に隠れ、顔を見合わせて笑う。林を越えると第二の周濠が姿を見せる。僕たちは映画を見ているみたいだった。切り取られる全ての瞬間は完璧なフィルムで、僕らの呼吸する一秒一秒が見逃せないシーンだった。早くにじみ始めた汗を淡水で洗おう。その濠はさっきのに比べると透明で、深い。空は樹幹の隙間で細々と、太陽は木の葉を貫いて瞬く。膨らませたナイロン袋に入れたリュックを水面に放り投げる。大胆な音が立つ。僕はこの駆け抜ける白昼夢のような青春を愛した。

 アメちゃんは先陣を切って濠に飛び込んだ。そして、こっちを振り向いて「飛び込まない方がいいよ。そんなに深くないから。危ないかも。あのね、私の足、今太ももまで泥にぶっ刺さってる」と大笑いしている。

「見ればわかるよ。バカじゃないの」と言って僕は勢いよく飛び込んだ。

 ナイロン袋に入れられたリュックは僕らの周りをぷかぷか浮かんでいる。僕らの身体も水面でぷかぷか浮かんでいる。柵の向こうで社会は勝手に回っている、僕らはそんなものに煩わされず、古代の墓を守るために作られた池で泳ぐ、たったふたりで、時間を過ごす。涼しい濠を魚と一緒に漂っている僕たちは実に幸せだった。

 アメちゃんは言う。「今私たちがやってるみたいなことって、純粋なロマンスじゃない?」彼女は木に覆われた、空を見上げて、浮かんでいる。僕も黙って浮かんでいた。木々の間から見える青い空を眺めていた。

「こういうのって永遠に続くのよ。終わるべきじゃない」とアメちゃんはぷかぷかと浮かんでいる。

 一瞬僕は言葉を失った。数秒後なんとか絞り出した。

「ずっとこうしてたいね。毎週でも毎日でも」

 水は冷たくなかったけれど、とても綺麗だ。水を覗くと底の土が見える。そこには透明のエビが跳ねていて、彼らはふさふさとした水草のしげみに隠れる。水草は決して乱されることのない調和に揺れていた。

「奥に行こうよ」とアメちゃんは言う。

「もちろん。最後の森を抜けて一番大きい水で遊ぼう」

古墳を囲む森の中でも二重目はよりたくましく、生き物は野性を覚えている。落ち葉に隠れるトカゲを目で追う。

「蛇が出そう」とアメちゃんが草むらを睨んでる。聞いたこともない鳥の鳴き声に耳を澄ませ、木を見上げる図鑑でしか見ない甲虫がしがみついていた。

「なんかさ、田舎で山道を歩くよりここの方が野性にいるって感じるかも」

「だってここには道がないんだぜ」

「それだけなの?」

 僕たちが森を歩いた後にしたことは、ただただ水泳のみで、古墳を直接守っている一番大きい池はやはり最も泳いでいて良かった。何と言っても景色が素晴らしい。大きな水面に大きな山、それも人口の山が突き出ているんだから。まるで、秘境だった。

 それに池はさっきまでのとは比べ物にならないくらい深かった。深みに足が届くとひんやり冷たい。美しい緑の水草が繁茂している。魚の量だって何十倍にも増えて、賑やかで仕方がない。すぐそこに都会があるとは思えないんだ。僕たちは泳ぎ続け、古墳まで競争をしたりもしたが、決して古墳そのものには上陸しなかった。ここまで来たらどこまで入っても同じと思われそうだが、僕たちは他人の墓の上を歩く気にはならなかった。死者への畏怖、敬意からくる倫理感で主墳には上らなかった。僕たちはただこの巨大な墓をできるだけ近くで見たかった、それだけなんだ。この何億世紀前かに人によって作られた美しい形を目に焼きつけ、夏の思い出にした。

「どうせ、ちょっと緑がかった泥水なんじゃないのって疑ってたけど、ここの水はなかなか凄いね。水晶のようじゃない」

「航空写真で見ると緑に見えるのに、不思議だよな」