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-CANDY- The Murder Mystery 8章

 天気は良くもなければ悪くもなかった。空には大きな晴れ間があり大気には日光がいくらか散らばっていたが、分厚い雲の数々はその日が晴れではないことを確かめるよう、どんよりと暗い影を大地に落としていた。顔の上を雲の縁が通り過ぎ、控えめな太陽が閉じられた彼女の瞳を撫でた。アメコはゆっくり瞳を開いた。

 身体を起こすと、目の前に水面に大きな緑の島がある。それが日本で最も大きい墓であると彼女は理解し、やっと自分が眠っていたことを思い出した。大きくあくびをしながら、首の後ろに張り付いた枯れ葉を払った。しばらくは古墳を眺めていたが、飽きて足元の水面を泳ぐ小魚の群れを見た。平たい身体を持つその魚はイタセンパラだ。こうやって呑気に泳いでいるのを見られる場所はここ以外ではなかなかないだろう。もうほとんどいない魚なのだと一郎が三年前アメコに教えた。

 アメコは子供の頃に奈良を旅行したことを思い出した。父親と二人で自転車に乗って田と田の間を走った。護岸されていない小川がたくさんあった。そこで似たようなタナゴの仲間を見た気がする。ただのフナかもしれない。川辺に降りて足を濡らしながらエビを追いかけもした。父親とは高校を卒業して以来会っていないし、前に口を利いたのがいつなのかは全く思い出せなかった。だが、彼女は今でも護岸されていない水際にいると父親のことを思い出す。

 遠くに釣りをしている者が目に入り、彼女はその人のビクを覗きにいこうと立ち上がり、歩き出そうとして目をこすった。半ば無意識に彼女は腕をつねった。長らく会っていない父親の幻影を見ているかと思ったが、そうでもないらしい。そこには確かに人がいた。彼は古墳内の堰堤の岸辺に座り、両足は水に浸け、ゆらゆらと遊ばせている。そこから正しく波紋が広がっている。アメコは目を細め彼を注意深く観察した。ここは大仙古墳の内堀、つまり人間がいるはずのない場所なのだ。

 背丈からして大人だろう。ルンペンが住み着いて自給自足しているか、熱狂的な釣り人が珍しい魚がいるのを聞きつけ入りこんだか、彼女に考えつく可能性はそのくらいだった。彼は黄色のレインコートにすっぽり覆われている。レインコートから出ているのはその細長い脚だけで、黒っぽいズボンか何かのまま水に浸かっている。おおよそ百メートルほど先だろう。雨も降っていないのにレインコートを着ているのは、実際に見てみると気味が悪い。おかしな恰好をしているならそれはきっとルンペンだろうと決めつけた。フードを目深にかぶっていて顔は見えないが、どこか親近感が湧いた。二十メートルほどまで近づくと彼も気づき少し顔を向けた。一郎なのではないかと彼女は僅かに期待するが顔は暗くてみえない。彼は木陰にいて、太陽は正午近くで影は濃い。彼はまた水面の糸に視線を戻した。警戒する様子はない。彼は小さな安っぽいコードを垂らして、音楽を聴いている。

アメコは後ろからゆっくりと近づいた。

「何か釣れてます?」と彼女が尋ねると、その人はヘッドホンを外した。そして、首の裏から発するような不思議な声で、「何も釣れてないね」と答え、クルル、ルル、とうなり、さらに「君が砂藤さんかい?」と言いながら、アメコに振り向いた。

 彼女が河童というものを見たのは実にこの時が始めてだった。それはほとんど画にある通りの河童で、片手を彼女に差し出し、握手を求めた。どうやら彼はここでアメコが来るのを待っていたらしい。アメコはわくわくしながら握手に応じた。三石の煙突工場で見た水かき付きの足跡は河童のものだったのだ。

「水、冷たかったろ? よく来たね」と言った。それは異国の楽器の音色のように不思議な声で、しかししっかりと意味を持った言葉だった。

 河童の顔はほとんど黒に近い緑で、目には瞼ではなく半透明なトルマリン色の膜があった。その膜が瞳の七割以上を覆っている。瞳そのものは、言い伝えのようにぎょろりと大きいわけではないが、ただその形状が特別風変りだった。それは全体からガラスのように見える。透明な球の中にクラックの入った水色のビー玉が浮いているという具合である。瞳孔、虹彩、角膜など人間に一般的にみられる仕組みとは全く異なるようで、きっと深く澄んだ淵のような色をした水色のクラックビー玉が黒目の働きをしており、それを包んでいる透明のガラスが白目なのだろう。鼻はない。口は伝承に忠実で、魚の口或いは鳥の嘴のどちらとも結びつけられる尖ったものだった。あいにくフードのおかげで頭頂部の皿は確認できない。レインコートを着ていることと、瞳が彼女の認識と異なること、それ以外は概ね知っていた通りの河童である。

 その姿はもはや彼女に驚きをもたらさなかった。彼女はただその姿を見て腑に落ちたようだった。また、異物に対する恐怖も、心の底で一瞬ちらついたという程度であった。

「一郎を追って来たんだろ?」と河童は言った。

「はい。お名前は?」

 黄色のレインコートの彼はラルと自らを名乗った。ラルは一郎を知っているらしかった。ラルはアメコに会うため東京から来たという。彼は一郎にそうするよう頼まれたのだ。三日前に届いた手紙は彼が投函したものだという。アメコが一郎が今どうしているのかを尋ねようとした時、ラルの釣り竿がしなった。答えを急ぐべきではないのだろうかと彼女は制止する。

 釣れたのはナマズだった。傍らに置かれていた竹に似た植物で作られているであろうビクに、ラルはナマズを入れながら「一緒に来るだろう? 荷物を取ってきなよ」と言った。アメコはすぐに立ち上がり荷物を置いてきた場所へ歩く。三年間ずっと彼女は何も知らないままだったのだ。それが急に、少しずつ明らかになりはじめ、アメコも少しずつ気づき始めていた。その日の天気は良いとは言い難いものだったが、アメコの心と同じように、そこにはよく目立つ晴れ間があった。それが希望だった。彼女が分厚い雲の存在を無視できないのは、いくら手がかりに近づいたとはいえ、一郎がこの世にいないという事実に変わりがないからなのかもしれない。

 一郎は河童にさらわれたのではないだろうか。河童のところに一郎はまだいるかもしれない。いや、河童と会った後に頭がおかしくなって彼は自ら命を絶ったか。彼女はどうにかして彼がまだ生きているということと、この現実に起こっている非現実な現象、河童との遭遇を結びつけようとしていた。

 河童とはなんなのか、どうやって古墳に入ってきたのか、彼女自身がこれから彼と行く場所はどこなのか、アメコには考えることが多すぎた。だが、考えてどうにかできることもない。彼女は古墳の上を飛ぶ鳥を見て思う。既に一郎は三年前に失われているのだ、今は彼について知らなかった部分を埋めていく、ただ、それだけで幸せに感じていいのだ、と。