表紙へ

-CANDY- Ceremony 6章

「ここでお別れだ、キャンディ。きっと君は好きな人に再び出会えるよ。もうすぐ会えるよきっと」フォンはそう言った。

 彼女は荷物を取って、フォンは仕事へ行く支度をして、一緒に家を出た。フォンは自分の原付に乗ってガススタンドにある珈琲屋へ行った。残された彼女はひとり、どこへ行くべきか、考えるまでもなかった。彼女は半ば当然のように、あの川へ戻ろうとした。忘れられない景色の中に一郎の強い記憶があるのた。彼女はあの壮大な風景を自分の記憶にもしっかりと焼き付けておきたいとも思った。彼女は紫の原付を川へと走らせた。一度行っただけの場所で、暗くて道も景色もはっきりとは覚えられていなかったが、自然と彼女はその方角に引っ張られるよう進んで行った。川は大きすぎて、方向さえ間違っていなければ見つけられる。彼女は十分かそこらで川沿いに走る道へ出た。

 人々の住んでいる世界のそばに川が流れているのではなかった。川があるところに人は文明を築いているのだ。彼女の水色の瞳は今、人間の姿さえも正しく灯すようになっていた。人々の生活するさまが鮮やかに見える。籠を背負って畑へ行く老人、山羊を追う少年、収穫したキャッサバをこぼれ落ちそうなくらい積んで走っていくピックアップ、紫の原付に乗ってあてもなく走る彼女、それらは川を中心とした風景の一部であった。彼女は川が持つ力の中にいた。彼女は、現実の世界に馴染み始めていた。彼女は市場に寄って、植物の繊維に巻かれた米を買い朝食にした。イサーン人の少女が彼女に売りに来たのだ。彼女は原付を降り、ござを敷いてそれを売っている少女の隣に腰を下ろした。

「これは何?」と彼女は少女に尋ねた。

 少女は彼女の言葉を理解しなかった。が、身振りで察したらしく、竹の筒を持ってきて彼女に割って見せた。中には竹の繊維で包まれたもち米が出てくる。きっと竹に入れて米を炊くのだろう。彼女それを買って半分を少女に渡した。少女は食べ方を見せてくれる。竹の皮を剥いて中の豆入りのもち米を一口ちぎって食べる。同じように一口ちぎって彼女に渡す。カオラムと言うらしい。それはほんのりココナッツの風味がするもち米だった。

 彼女はしばらく少女がカオラムを売るのを眺め、それから一郎の日記の初めのページを、開いた。それはアメコが初めて一郎に出会った日の記録だった。それは彼女にとって忘れられない記憶で、また一郎にとっても大切な記録であるに違いなかった。

 ある一文を読んで彼女は涙した。彼女は自分が一郎にあった時、どんなことを話したのかを覚えてはいなかった。彼女はただ、一郎のことばかり考えていて、自分がどんなことを思っていたかなど覚えていなかったのだ。

「だから、私、イチロウ君を見つけたんだよ。私あなたを救う為に生まれてきたんだから」アメちゃんはそう言った、と書かれているのを読み、彼女は泣いたのだ。そうだ、彼を救う為にアメコは一郎に出会ったのだ。それなのに、救うことができなかった、彼は耐えられず死んでしまったのだ。彼女が一郎の苦しみを記憶の重みを、本当の意味で分かち合うことができていれば、きっと一郎は死にはしなかったかもしれないのに。アメコは自分を責めた。一郎を殺したのは自分なのかもしれない。しかし、彼を失った今、アメコにできることは何もない。亡くなったものを再びこの世に蘇らせることは、人間にはできないのだ。彼女には一郎の記憶があった、彼女にはただその思いに浸ることしかできない。手に取るように、一郎の思い出に沈み込もう、川の流れのように美しいこの記憶に、身を委ねよう。

 キャンディは再びヘルメットを被り、原付に乗った。メコン川を流れる水は泥色で、しかし彼女の瞳はそれを透過した。水と、泥のコロイド粒子は美しく彼女の瞳に飛び込む。水はエメラルド色に輝いている。巨大な魚が飛ぶように泳いでいる。無数のコロイド粒子はオレンジ色の星のように点滅している。一郎の瞳には映らなかった本当の光が、キャンディの心を揺さぶった。決して彼女を飽きさせることなく川は流れた。彼女は見晴らしのいい場所を見つけるたびに、原付をおり、川べりに座って美しい流れを眺めた。いつか一郎と見たかったその景色に沿って、彼女はメコン川をゆっくり上流へと移動して行った。