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-CANDY- Ceremony 7章

 右に雄大な川の流れ、左には人が生きるための農地があった。老人は手巻き煙草に火をつけて休む。それらはちりちりと燻って時間の煙になり空へ上っていく。キャンディは蛇行する川の流れに寄り添い、何も考えずに移動し続けている。

 日が傾き、人の生きる風景も変わっていく。露店でコーラを買う。彼女が原付に乗っているのを見て、飲み物を売っている老婦人はコーラを氷いっぱいのナイロン袋に直接注ぎ、ストローを差し、彼女に渡した。コーラのナイロン袋を手首に掛け原付に乗った。袋でジュースを飲むのは違和感があったが、走り始めるとそれが一番飲みやすいとわかった。彼女は左手でハンドルを握り、時折右手でコーラを飲んだ。六時間近く太陽に照らされ走り続けていた。ところどころ川を眺めて休んだが、それでもかなりの距離をきていた。気づけば川は大きく流れの向きを変えていた。

 太陽は再び彼女の正面に見え始めている。もうしばらく行くと、太陽は対岸に沈み始めている。今朝、対岸に昇った太陽は、また対岸に沈もうとしている。不思議な心持ちがした。一瞬原付を停め、氷で薄まり始めたコーラを飲みながら彼女は考える。右手から左手に持ち替えるとき、人差し指と親指の間の皮膚が太陽に照らされキラキラと緑に透けた。

 一郎を探すための旅は、いつしか彼女の大切な思い出に変わっていた。自分の瞳はもう長く持たないだろう、そう彼女は感じていた。目が強すぎる光を送っている、目の奥が焼けるような感覚があった。最後にもう一度この美しい川を、美しい赤い光が満たすのを見ようと思った。彼女の瞳はただ夕日と大河を眺めるためだけに光を写していた。

 ソルガムの畑が彼女の左手に壁の様にそびえ、右に小高い堤が出現したとき、彼女はそこで夕陽を見ると決めた。目が見えなくなる予感は恐怖にも近かったが、諦めることができた。彼女は自分の頭の中にある、様々な記憶を理解し始めていたからだ。一郎がすぐそばにいるように思える。きっと彼女の脳には一郎の記憶があるのだ。彼女は一郎の過去の全てを抱きしめて生きているように感じていた。

 畑の際に紫の原付を停め、彼女は歩いて堤を上がった。川は蛇行しているせいで川幅を一段と広くしていた。その広い川面には、暮れようとする太陽が彼女を待って揺れていた。草の生えた斜面を降り、護岸用に置かれたであろう岩の上にぽつんと座り、彼女はひとりで煙草に火をつけた。彼女は生まれて初めて、夕日が沈むのを待っていた。足元の泥の岸辺を川の流れが静かに浸している。彼女は十七歳の頃から、二十三歳になるまで、少しずつ変化していた。彼女はもう大人になってていた。

 既に十分赤く見える夕日は、少しずつ、ゆっくりと、もっともっと赤くなっていく。空はゆっくりと染まっていく。彼女が見ているのは、太陽の命が終わり、翳が世界を食う景色だった。日が沈めば残り半分の人生が始まるのだ。そして、その残り半分は、昼と肩を並べるほど、いや昼とは比べものにならないほど美しいのだ。太陽の死というより、彼女はむしろ夜の誕生を待っていた。彼女は自分の最後の光を見届けるためここで待っている。永遠に続く夜の入り口に彼女は今佇んでいる。生死の境界は唐突に、真っ赤な光線で区切られた。

 深紅の光は、オレンジやイエロー、ピンク、果てにはパープルやブルーの光を撒き散らしながら、水面を切り裂き、彼女の瞳へ飛び込んで来た。川面の波は、この世界に存在するほとんど全ての色に染められて、花火の様に弾け散りながら彼女の瞳に飛び込んだ。境界の世界の光景を、彼女は瞬き一つせずに、見惚れていた。強い風が吹いた・

 そして、強烈な赤い光が、水色の眼球を焼き切った。彼女の水色の瞳はより一層明るく輝いているが、脳は夜の水のように暗く光を失っていた。瞳は僅かな波を感じるだけの暗さも脳に伝えない、彼女の世界を闇で覆った。

 ただ、彼女の瞳には、散った花火が残す静かな星屑が舞い落ちていく、その色とりどり残像だけがあった。それは、彼女が終ぞ経験したことのない、激しい夜だった。後悔などない。慌てもしない。手探りで新しい煙草を探し、それを咥え火をつけた。ライターの火花を見られないことを彼女は惜しく感じた。

 もう目には見えない風が、波を撫で、そのままこちらへ来てアメコの頬を撫でる。さっきまで見えていた水面の世界が完全な影に変わっていくのを彼女は肌で感じた。太陽の最後の一滴が肌に触れ、少しずつ乾いて、やがて消えた。一郎を探すために家を飛び出した彼女は、半年後に異国の地で旅を終えた。

 彼女はため息とも深呼吸ともつかない息を長く吐いた。彼女は、ついに追うべきものに考えつかなくなり、真っ暗な世界で一人座り込んでしまった、川の音が聞こえる。ゆっくり立ち上がり、彼女は一歩ずつ、静かに、その川の流れる音の方へ歩いていく。彼女の目の前に川がある。全てを得た彼女の最後の望みは川へ消えることだった。彼女は岩の上を歩き、つまずきながら、柔らかい泥の地面に降りた。足がメコンの深い泥に刺さる。ふくらはぎまで沈んでしまった両足を、右からゆっくり引き抜いて、一歩先へ出す。川の音はもうすぐ先だ。左足を引き抜こうとすると、右足の太ももまで冷たい泥の中へ沈む。前へ大きく踏み出す。水の流れ、涼しい水の流れが彼女に触れる。左足はメコンの水に入り、その強い流れが彼女の足を強く水中へ引っ張る、彼女はそのまま川へ体重を預けるように右足を抜こうとする。

 その時、彼女は肩を掴まれた。Tシャツごしに、彼女は人の手の温もりを感じた。

「誰なの?」と彼女は虚空に呟いた。振り返ったが、彼女の瞳はもう何も映さない。

 その人は返事をしなかった。ただ、胴に手を回して彼女を泥の中から引き抜き、岩の上に引きずりあげた。彼女はその手の感触を覚えていた。キャンディはそれが誰なのか分かっていた。男の腕に捕まるようにして立ち上がる。

 彼女は「また会えたね」と心の中で呟いた。そして彼の手を強く握り直した。二人の親指と人差し指の間にある水かきのような青い膜が触れ合ったとき、彼女の脳にかかっていた濃い墨汁のような霧は晴れた。混濁していた記憶のうち、半分が手の先に伝い、その指間の透明の水かきを介して他方へ流れていく。向こう側にある空っぽの洞を彼女の中にある記憶が少しずつ満たしていく。手を握り合ったまま、向き合っている二人の感覚は繋がれていた。

 彼女は一郎の瞳を通して世界を見た。夕日のすっかり沈んでしまった暗い空と暗い川を背に、アメコが立っていた。少し伸びた金髪がよく似合う、爽やかなアメコの顔を、よく見ようと彼は顔を近づける。彼はアメコの髪を撫でた。愛おし気に笑う一郎の姿がぼんやりと、彼女の翡翠色に光る瞳に映った。

「待たせてごめんね」アメコの瞳の鏡は波うち、彼の姿は揺らいで見えなくなってしまった。押し寄せる汐の波は瞳から溢れ、頬を流れていく。一郎は繋いでいた手を離し、そっと彼女の涙を拭う、アメコは両手で彼を抱きしめた。神経は再び解け、彼女の視界は夜空に戻った。だが、それは美しい夜空だった。愛する人を強く抱きしめながら、彼女はその黒く美しい夜空に惚れた。

 その夜を舞い散る紫の火花は、ひとりの時よりも力強く瞬いていた。一つ一つの光の粒は、ローマンキャンドルの様に彼女の暗い夜空を燃やした。それは腕の中で燃える彼の温もりの炎で、それは彼女の心を燃やす喜びの炎で、その消えない生命の輝きは、いつまでも彼女の胸を燃やし続けた。アメコはただ、好きな人のことだけを思い、心を燃やし、燃やし、燃やし続けた。