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-CANDY- The Murder Mystery 4章

 朝早く、アメコは岡山県備前市に辿り着いた。三石駅のそばにあるコンビニの駐車場で車の窓を開け、彼女は朝を眺めた。ここは二人の物語が始まった場所だった。

 ここにくれば全てが明らかになる、そんな簡単な話ではないだろう。彼が直接答えを渡すつもりがないことは明らかだった。三石に一郎がいるわけもないだろう。彼女の推測によれば、一郎は死ぬ前に手紙を誰かに渡し、今日届くよう投函し彼女に探らせようと仕向けた。封筒の切手は本来の額よりも多かった。増税を想像し多めに貼ったに違いない。確かに税率も、切手の一桁目の端数も、あの時と同じではない。きっとあと五年もすれば消費税が100%になるだろうとアメコは踏んでいた。

 明らかにすべきことは二つ考えられる。一つは、一郎がアメコを何故三石に来させたのか。ただ思い出に浸らせたい訳ではないはずである。二つめは、誰が手紙をポストへ入れたかである。ゆっくり考えよう、まず煙草を吸いながら、ノートを開く。アメコは一郎の日記を読み進めながら、おかしなことに気が付いた。ノートのページが乱雑にちぎられている箇所があるのだ。

 日記は一貫して青インクのボールペンで書かれている。書き直しは二重線、あるいは塗りつぶしだった。ちぎられた箇所は、書き終えた後で作為的に取り除かれたように見える。はじめの抜け落ちは二人が工場に侵入し地下道を歩き始めた場面だ。そしてもう一つはその一週間後の週末二日分だ。

 あの日、一郎は彼女の後ろを歩いていた。そして、二人は古い扉を煙突の床に見つけ、奇妙な地下道に入った。一つ目の抜け落ちは、その地下道に入って、そこから出るまでである。その地下道の奥へ行く途中、側面に一つ不思議な扉があったことを彼女は覚えていた。

 扉は単に古いだけではなく、見たことのないような形をした扉だった。はめ殺しで、取っ手がないことを一郎は不思議に思ったようで、しばらく見つめていただろうか。扉は他にも地下道の側面にいくつか存在した。しかしそれらはいずれも鉄の扉で、錆びついた取っ手があり、錆びついた鎖がかけられていた。どれも言い合わせたように同じ形をして、同じ錆び方をしていた。しかし、一つの扉だけ鉄のものより数段頑丈そうな石製だった。光が当たるはずもない地下道で、石扉の表面には苔がびっしり生えていた。その後二人は突き当たりまで歩くと、煙突の下まで引き返し、しばらく広間で時間を過ごし、その日中に京都へ帰った。

 二つ目の抜け落ちは、次の週末の二日分である。確か彼は広島の友人に会いに行くと言っていたはずだった。前後の日記を読めば、アメコにはその頃の日々がすらすらと思い出すことができた。破り捨てているからには広島に行かず彼は、三石に戻ったに違いない。消印の意味はそれだろう。空白を自分で歩いて埋めよという意味と彼女は考えた。

 日記を破ったのは失踪の直前か。日記を書いたそばから破るつもりだったのなら、初めから別の冊子に書くはずだ。この世界を去るに際して、一郎は前もって準備をしたのだ、三年後に自分と同じ年になったアメコが、彼の痕跡、失踪の意図を探ることができるように。手紙は決して読まないであろう日記を読むよう意識させるきっかけとなり、日記を開いたアメコは空白を埋める必要性を示唆する。仮にアメコが失踪の直後に約束を破り日記を読んでも、彼女には差出人というピースが欠けていることには気づけない。簡単だがよくできたパズルである。

 アメコは例の煉瓦工場に向かった。他の工場は皆平坦な場所にあったが、この聖堂的煙突のみ、丘陵の中腹に建てられている。当時彼女が壊した入り口の針金は巻き直されていなかった。誰も来なかったか、それとも針金など何度巻いたところで意味がないと知ったか。アメコは扉を押し、柵の中に入りながら、初めてここに入った瞬間を思い出した。あの日、二人は真剣な面構えで敷地に入っていった。二人はこの向こうに何か心を震わせるようなものがないだろうかと期待していたのだ。

 実際、アメコが気づかなかっただけで、一郎はここで何かきっかけに触れたに違いない。だからこそ日記をちぎって隠したのだ。彼は何を見たのだろうか、そればかりはアメコにも見当がつかなかった。素敵な煙突のある廃工場に、現実を放棄させるだけのきっかけがあるとはアメコには思えなかった。内側から裏口を開けて外に出たことを思い出して、開いたままかもしれないと期待し彼女は扉をひねる。案の定、裏口の鍵は開いたままだった。そして、中に入ると、埃の積もった床に二人分の足跡が残っている。三年前のままである。一郎の足跡だけもう一往復分多いのを見て、彼がやはり一週間後にここを訪れていたのだと確信した。

 中の広間へ行くと床に大きく曼荼羅が描かれている。彼女が三年前にふざけて描いたものだ。彼女はこれを夢中になって指で描いたのだ。なぜ曼荼羅を床に描こうと思いついたのか、それは彼女には思い出せなかった。ただアメコは、一郎と二人でしばらく描き上がった曼荼羅を眺めていたことを思い出した。それはあの時も、今日も変わらず神聖に見えた。あの日の彼女には、曼荼羅は一郎との刺激的な日々の始まりを暗示する模様に見えていた。しかし、今彼女はこれを一人で見つめている。

 一郎がいなくなってしまい、思いつきで床に曼荼羅を描いたあの砂藤アメコも死んでしまったようなものだった。ほとんど別の人間のフリをして生きていたのだから。彼女は連続性のない三年間をただ何かが起こるのを待っていた。その間に彼女は一切前に進めず、待っていた。

 歳をとったアメコにはやはり理解できるようになっていた。彼女には分かった、一郎が病的に記憶を愛したのは、今この曼荼羅を前にしてアメコが受けている感情を彼も受けていたからなのだ。その感情は不安感とも、恐怖とも、悲しみとも取れる、不思議な感情だった。

 懐かしさ、そう言ってしまえば良いものに聞こえるかもしれない。確かに、心地よさに感覚は似ていたが、どこかに暗い感情があった。二人で過ごした日々を思い出すと、確かに彼女は幸せな気持ちになる。だが、彼女が前を向けば、そこにあるのはひとりぼっちの自分だけなのだ。過去に浸って、そのまま、過去の続きを生きていけるのなら懐かしさも素敵かもしれない。だが、それは必ず終わる感情だ。いくら努力しても彼女は当時の出来事を全く同じように感じることはできない。一郎のいない世界に彼女は必ず引き戻されてしまう。

 曼荼羅を見つめ、彼女はますます恐ろしくなっていく。自分で描いたはずのそれは、まるで今の彼女が在る世界を隈なく表しているように、彼女には到底理解できないもののように見えた。時間と精神が人を息苦しくさせることを、三年前のアメコは知っていたのだろうか。幾重にも描かれた正確な円が正方形を中心に抱いている。円に抱かれた正方形も内側に重ねられている。その線の図形の集積の隙間には、おしとやかな波が、亡者の伸ばす手のように、枝のように広がりながら何かを探しているように見える。無限の小さな雫は、亡者の波に弄ばれ、宙ぶらりんに浮かんでいるが、曼荼羅は動かない。雫は重力に落ちることができない。どこにも仏陀の姿はなかった。哲学も法典もなかった。それはただ十九の自分がいたずらに描いた落書きに過ぎない。しかしその複雑な幾何学模様は、全てを知り美しく、そして恐ろしい。二十三の彼女を知っているかのように曼荼羅は話しかけ嗚咽した。耳を塞がず彼女は感情に殴られ吸い込んだ。

 過去に見惚れた彼女は、我に帰った時、自分が死んでいたように、今生まれたようにも感じるのだ。自分がこれから死ぬように、これから生まれるようにも感じた。それは永遠に息ができない場所から、急に放り出されたような、そんな感覚だった。

深く息を吸って彼女は曼荼羅から目を背けた。

 曼荼羅の脇には足跡が複数ある。やはり一郎も、一人でここを訪れた際、立ち止まって眺めたらしい。彼は何を思ったのだろうか。彼もまたこの曼荼羅から意味を見出そうとしたのだろうか。一郎の立ち止まった足跡を眺め、アメコは目頭が熱くなるのを感じた。人は何かに触れ、必ず感じるのだ。感性は、その人の脳の表層から最深層までを撫でる。いつも感情に気づくとは限らない。だが、人は何かを感じる。

 その感情は、ともすれば永遠にその人に自覚されず沈み続けるかもしれないし、ひょっとすれば胸に刻み込まれ記憶され続けるかもしれない。一郎が自覚された感情を大事に捕まえようとするのも無理はない。それは確かに掛け替えのないものなのだ。彼女は感傷に浸りすぎず、瞳を研ぎ澄ませる。

 曼荼羅を後にしようとした時、アメコは三人目の足跡に気がつく。それは裸足の大人の足跡だった。

 アメコは思わずしゃがみこみ、何かの足跡を見つめた。それは、一郎とアメコによって作られた足跡よりも明らかに新しかった。まだ埃が積もっていない為、今年のものだろうか。しかしそれ以上、彼女は足跡がつけられた時期について考えなかった。

 その足跡が明らかに人のものではなかったからだ。その裸足の足には指が五つあった。異様なことに、親指は猿の足のよう踵付近から生えており、それぞれの指の間には猿に似て非なるもののよう、水かきがあった。間違いなく二足歩行の足であった。彼女に思い浮かべることのできる二足歩行の動物は、クマ、パンダ、ゴリラ、カンガルー、そしてミーアキャット、その程度だった。彼女は動物に詳しいわけではなかった。水かきさえなければ五つのうちどれとでも間違えただろう。

 しかし、その生き物は、水かきのある足で歩き、曼荼羅を眺め歩き去っているのだ。アメコはその足跡が向かう先を追った。工場の正面口に向かっていた。足跡の位置からして、扉を開けて入り、また外へ出たようだ。外から南京錠がかかっていたはずである。扉がどのように開かれたのか、それは扉の下部を見ればすぐに分かった。水かきのある手が扉の下を撫でた跡がある。それに従い、隙間に手を入れると、地面にカラクリがあり、パチンと音を立て、扉は彼女の知らない開き方をした。外の錠前で繋ぎとめられていた木枠も扉と繋がったまま共に開いたのだ。

 人ではない者が扉を開き曼荼羅を眺めるだけにやってきたとは考えられない。彼女は向き直り、工場の中へ足跡が行く先を辿った。それは曼荼羅を通り、さらに奥へ、煙突室の方へと続いていた。煙突室に着くと、すぐ地面にある扉を開けて下に降りたと見える。アメコも地面の扉を開き、懐中電灯をつけ、地下道へと降りた。地下道の土の地面にも足跡がかすかに残っている。

 一郎が立ち止まった石の扉の前へ足跡は続いていた。石の扉には取っ手がない。足跡の主はどうやら中へ入ったようである。正面口と同じ仕組みがあるのではないかと彼女は疑い、石の扉の周囲をくまなく探した。やはり、その仕組みが上部にあった。壁の隙間に手を差し込み、石のカラクリを押すと、扉はゆっくりと奥にずれ、その向こうにさらなる地下道、緩やかな斜面が姿を現した。地面を照らすと足跡が、柔らかく湿った砂の地面に鮮明に刻まれている。彼女はその小道を歩いて下った。

 二十分ほど歩いたところで地下の一本道は行き止まりになった。突き当たりの壁には、蔦のような植物がびっしりと覆っている。懐中電灯を向けると、空色に反射した。その蔦は水生植物のように透けている。地上ではついぞ見たこともない植物である。アメコは恐る恐るその植物に触れた。もずくの様で気味が悪い。粘液のようなものが指についた。懐中電灯で照らすと粘液はキラキラと青色に光った。

 アメコはその異様な植物をしばらく見つめていたが、それが不意に蠢いたように見え、恐怖を覚えた。動転し、恐怖を打ち消そうとした本能は、アメコを逃走ではなく闘争に突き出した。彼女は植物の茂みを引っ掻く様にむしった。彼女の恐怖は、打ち消されるどころか増大した。彼女のむしった箇所からその植物は光を発し始める。生まれて初めて蛍を見たときもまた恐怖しただろうか、とアメコは振り返った。心拍数が高くなるに従って人の心は身体を遠く離れ、俯瞰する様に考えるのかもしれない。光り始めた植物は、身を捩るようにうねった。彼女は蛇を初めて見たとき、どんな心持ちであったろうか、そこに確かな恐怖があったはずだと分かると、彼女は逃げ出した。