(2019/06/15)
列車に乗り込んだとき、空はほとんど暮れていた。地平の向こうにわずかに焦げた臙脂色の光が湿っているだけだった。アメちゃんは僕に寄りかかってぐっすり眠っていた。今日、アメちゃんは何度も僕のことを好きだと言った。単純な心はとても満たされた。
「ねえ、去年会った時にあったような煮詰まった感じ、なくなった。すごくよくなったと思う。イチロウ君といると、自分まで思い切りのいい人になれるようなの」と僕の目を見つめた。初めて会った時、僕は彼女に見つめられるのが苦手だった。見透かすような瞳に見つめられると都合が悪かった。僕の心の中にはつまらないものしかなかったからだ。でも、今は違う、僕はつまらなくはないだろう。まだ、不安が全くないとは言えないが、前よりはずっとマシだ。彼女は前よりずっと深く僕のことを愛してくれると思う。
でも、彼女が透視できない心のもっと深い場所に、僕の暗いイメージは隠されていた。何も過去に悪いことをしてそれを隠しているわけではなかった。僕はただ、記憶に向き合うのが下手だった。一度それに触れると僕の表面はぐらぐらと揺れ始めるように思える。彼女といると僕は忘れていられる気がする。アメちゃんが目を覚まし僕に話しかける。
「帰る時に、煙突工場で聞いた雨の音、あれは凄く、素敵だったよね。しっとりしてて、なんだか、深い水の底にいるような」
僕たちは地下道から工場に戻ってからも三時間ばかり広間でぼーっとしていた。雨は屋根の上で柔らかい音を立てていた。確かにそれは不思議で、僕には太古の言葉に耳を傾けているように思えた。それは古い生物の死、聖なる記憶を含有した化石の音のようだった。窓に目を向けると分厚い雲が空を覆っていた。それは明るくて寂しい思い出を隠してくれる。
何故か分からないけれど、僕はほとんどの時に太陽の光を嫌った。いつも僕を憂鬱にさせる気がする。光は不確かな記憶を照らし、僕は必要以上に焦点を合わせようとしてしまう。完全に思い出せない記憶は郷愁というよりは、地獄の妄想だった。時々は耐えられるけれど、しょっちゅうそれに押し倒される。勘弁してくれと言っても、それは付きまとって背後からささやく。幽霊を正面から直視することはできない。うっすらと窓に映る僕の顔は気味が悪い。顔色が悪いのは夜景を背にしているからではないだろう。かき混ぜられ、めちゃくちゃになった心を隠しているからだ。実際幸せに感じているのに、どこかで暗い影を気にしている。好きな人と一緒にいるんだから、もっと幸せそうに見えるべきだ。
「次はどこに行くの?今日すごく楽しかった。またああいうことしたい。誰もいない場所に行って私たちだけで素敵な時間を過ごそう?」
彼女が話しかけると僕は影を睨まないで済む。どうして過去に気分を害されなくてはならないんだ、と強気になることができる。僕は、大阪でどこか侵入できる場所を探そう、と言った。確かに、絶対に人のいない場所で時間を過ごすのは素敵だ。
電車の窓には大阪の夜景が切り取られている。どうしてだろう。大阪の夜景は黒が強い。確かに他の都会と同じように、ビルの灯りやネオンが賑やかなのに、それが夜を照らしきらない。他の街では雲をオレンジに濁らせたり、空をぼんやり青っぽく見せたりするのに、大阪の夜は何故かいつも墨のように黒い。電気はただ冷たい光を地上だけで光らせている。純粋な空だ。汚い社会を反映しない美しい黒い夜景だ。
京都まではまだある。電車は止まらないし、僕らも話し続ける。