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クレスト 序章

二年間の空白、拉蘇島、彫刻とタコ

 白い左腕で彼は銀色の海を撫でるように削る。さざ波の一つ一つに波頭があり、なだらかながら白い飛沫を立てることもある。まだ色のつけられていない銀の海の隣に広がるのは、美しい藍色に仄めく月夜の海である。深さの違う暗い藍色で染められたその金属の彫刻は、あたかも透き通っているかのようにさえ見えた、砕ける波は淡い紫色に光っている。彼の左腕にある傷跡にもそれに似た金属の印が埋められていた。刺青のようにも見えるそのジルコニウム彫刻には特定の夜の海が幾何学模様で彫られていた。その印は少しの傾きの違いで異なる藍色に輝きを変える。それらはこの島では見られない風景だった。
 彼にとっては慣れ親しんだものだが、何年もそれを見ていなかった。来月からまとまった休暇をもらった彼は久しぶりに生まれ育った町に帰る。この島に移って以来ずっと帰らずに仕事に没頭していたことを意識したら、彼は二年間の自分をうまく思い出せないような気になり、その瞬間は自分がまだここで生きていることをくっきり感じていた。たった二年なのに途方も無い月日が流れたように感じられるのだ。いざ今の自分のことを考えると時間が抜けたように思えた。何故かぼやけて感じられるのだ。
 彼の彫る海は故郷の海だった。彼の最も大切な思い出はその海にあった。思い出の海面はいつしか平面から立体に変わり、日に日に複雑さを増していった。今その彫刻は、まるで複数の海、彼の記憶にある全ての日の全ての時間の海の波を含んでいた。彼の届かない思い出の、水面の波と飛沫だけの宇宙である。複雑な海の彫刻は、彼の左腕にある傷跡の形をしたジルコニウムに彫られている或る夜の海の続きなのだろう。
 波の出来に満足した彼は彫刻刀を置いて立ち上がった。身体を伸ばして、目を瞑って深呼吸をした。その浅黒い横顔は暗い部屋に浮き上がるでもなく影になるでもなく、微妙な具合で仄めいていた。目を開け、知らぬ間に朝が来ていたことに気がつく。青緑に塗られた木の窓枠の向こうからは、明け方の薄い日光が部屋へ蕩け込んでいた。窓の外では木々は気持ち良さげに揺れており、波や風の音も流れ入っているようだった。夜明けの波や風はその音自体に静けさを内包していた。見えないが、海は森のすぐ先にある。この島の海は彼の故郷のものとは別な色合いをしていたが、それでも海の存在が彼を落ち着かせる。彼が彫刻を始めたのは二年前、ここに来た日から、しかしその時はもう左腕は既に成熟しており、利き手である右腕よりも滑らかに細かく動いた。彼の右手には依然、昔の後遺症があり、それは全く動かないよりはましでも、思い通りに動く左手に比べると幾分窮屈だった。
 彼が住み、大半の作業を行うこの家はそう広くないが、割に狭さを感じさせない。小さな部屋の壁と扉は、濃さの違う青に塗られており、それは一つの思い出の色でもあった。濃い青の扉のすぐ横に小さな木のベッドがあり赤い布団が掛けられている。左手の小指から硝子の指環を外すと、彼はそれをベッドの傍にある大きな書き物机に置いた。水を飲むと彼は布団に入って枕元の棚から手探りで封筒を取った。彼は便箋を取り出すと封筒を脇机代わりに使われている椅子の上に置き、手紙を読み始めた。こなれて草臥れた便箋は何度も読み直されていた。枕元の棚には他にも何枚もの手紙が束で立てられている。そのうちいくつかはきちんと並べられずにはみ出していたり、並んだ手紙の上に封筒にも入れられないまま載せられていた。しばらく手紙を読んでいたが、彼は立ち上がり便所へ行った。そして書き物机の向こうにある大きな硝子の水槽に餌を落とした。どこか落ち着かないような顔つきで彼は水槽の中を覗いていた。
 水槽の中には一匹のタコが居た。ゴオグという名の藍色のタコである。ゴオグはこの島に来た頃まだ曇った小瓶に住んでいたゴオグは、もう紫の一升瓶でないと眠れないほど大きくなっていた。彼が餌を落とすとゴオグはすぐに食べに出た。彼はゴオグが餌を食べるのを見て安心し、ベッドに戻りまた手紙の続きを読み始めた。
 青い部屋でタコを飼っている男は彫刻家ではない。彼はこの島に町を作っている。かつてはそうではなかったが、今は建築家と呼んで良いのかもしれない。彼は彫刻をする時、タコを眺める時、首元から下がる鍵や左手の硝子の指環に触れる時、いつも生まれ育った遠い土地のことを思い出す。そして、その故郷の町を忘れないよう毎朝眠る前に友人から送られた手紙を読み返すのだ。彼の故郷の町は山あいの谷が海に沈んだ場所にあった。