ドラド・ハユィヒシ、レフノスク・キンセダガルへ。
添付しているのは溺れ溪について書かれた僅かな資料を元に、僕が海風の巣に通いながら道楽で書き溜めていたものだ。青雲の町には大きな図書館があり、そこには外から見た溺れ溪の記録も残されていた。今後、溺れ溪の伝承や文化を書き足し、「溺れ溪の地誌」として本にしようと考えている。君たちにだけは特別に草稿なるこの冊子を送ろうと思う。某君宛てにかかる送料の関係で節約したので、イルノ・コチラットとレクサガン・ニシナデラクには送っていない。彼らも読みたがるようならドラドが読ませてやると良い。近々お目にかかれるのが待ち遠しい。
ダャ・ロプシー
ヤキ・ナリブレトの記憶に捧ぐ。
―凡例
この町の面している海湾自体もまた溺れ溪と呼ばれているため、集落としての溺れ溪を溺れ溪町、海湾として溺れ溪を溺れ溪湾と便宜上書き分けるが、あくまで人々からはただ溺れ溪とだけ呼ばれている。
このように、この地域では市町村などの単位が明確に存在しない上、地形名などがその地名に明確に記されないことも非常に多い。そのような場合、通例に従って地名の後にそれらをつけ仮称することにする。また、地名の表記に関しては簡略されていない漢字を用いた名前を基本的に用いることとする。古い文献に残る地名の表記が、人々の呼び名と異なる場合もあるが、正式名称、および現在の住民からの呼称に関してはそれぞれの項目で詳しく述べることとする。
――概要
鹿鎚(シカヅチ)と呼ばれる峻険な山脈が、急激に西に傾きほほろび海に没し、大小の岬角と海湾を形成する海岸部の地域の北端に溺れ溪(オボレダニ)はある。この地形の西の海岸線に沿って並ぶ数多の海湾の中で溺れ溪湾は並外れて大きく、溺れ溪町の規模も海岸沿いに位置するどの集落のよりも大きいということが分かっている。市街地は湾に注ぐ二つの川、北の霧川(キリカワ)と南の翠巴川(スイハガワ)の形成する狭い沖積地に開けている。
町は三方を山に囲まれており、西部に雚見ヶ丘(カンミガオカ)、北部に媚嗚手山(ビヲズサン)、南部に御杜冶マ山(オズヤマ)がある。これらはいずれも標高二百メートル以下の丘陵であり、鹿鎚山系の西端である。町のほとんどの場所から鹿鎚の最高峰である黎錵タ峰、通称レニエタを拝むことができるが、霧川河口から見るとちょうど雚見ヶ丘が覆って見えなることが知られている。
――新市街、霧川埠頭周辺部
霧川埠頭から雚見ヶ丘を結んだ三架通り(ミカケトオリ)が町で最も大きい通りで、埠頭から雚見ヶ丘の頂上付近の住宅地まで繋がる路面電車も通っている。当然人通りも多く、この三架通りの霧川大橋から旧大橋までの区間は溺れ溪町で最も栄えている場所である。多種生活用品、雑貨、衣類を売る店まで一通り全てこの通りにあり、飲食店もこの通り沿いに集中している。
三架通りは霧川と平行に伸びているが、一本霧川の側に入ったところを旧影道(キュウエイドウ)と呼ばれる道が通っている。その道は霧川埠頭がまだ現在のように発展する以前に存在していた旧三架通りであると言われており、実際埠頭中心の街になる以前の名残が残っている。老舗の職人工房や店舗などがまだ点々と残っているのも旧影道の良さである。図書館や体育館などの社会施設は三架通りより南側にあり、社会施設周辺は比較的新しい商圏になりつつある。またこの三架通りの南、翠巴川の右岸までの地区は市民の大半が居を構える場所でもある。この三架通りを中心とする霧川と翠巴川に挟まれた地域を新市街と呼ぶことにする。
霧川には七本の橋がかかっていると書かれている文献が多いが、実際には五本というべきだろう。三架通りが霧川に沿っていたころそこに三本の橋が見えたためこの名がついたという口碑があることから、住民は河口からそれぞれの橋を海側から数え、一橋、二橋、三橋と呼ぶことが多い。正式名称は、霧川大橋、忽出橋(クツイデバシ)、旧霧川大橋である。
――旧市街
旧市街は霧川のさらに上流に架かる三角辻橋の右岸を中心にある。この橋が霧川に七本の橋がかかっているとされる所以である。外道、媚嗚筋(肱の道・脇の道)の三本が霧川の上で三角形に交わっている。三本の橋が一つの橋として機能していると見た際に、霧川沿いの橋が七本と数えられるのである。環状交差点を三角にし、中央島を三角形にくり抜いて、下には川面を覗けると考えると想像し易いだろう。三角辻橋は古くからある石造りの橋だが、非常に頑丈に作られているらしく現在も旧市街の象徴として、機能的な橋として存在しているのである。北側から来る二本の道、媚嗚筋(肱の道・脇の道)を川にぶつかる前に何故繋げなかったのか、三本の道を何故点でなく三角形に繋いだのかなど、その他にもこの橋に関する口碑は多く残っていたが、現在ではそれを知るものも少なく、未だ研究もされていない為不明確である点が多い。ただ、この橋は町に残る最も古い建造物であることは確かであるようで、五百年前から存在しているという説もある。三百年前の資料によれば、四百五十年前に竣工とある。
いうまでもなくこの周辺は海上交通の発達する以前、凡そ二百年前まで町で最も栄えていた場所で、古くからある石造りの建物が多く残っている。三百年前、海上交通の発展によりこの地に船が寄せるようになり、町の中心部は埠頭へと移っていった。それが、この辺りが時間に置いていかれ、旧市街として古い生活を残している理由だ。三角辻橋のすぐ西、霧川の下流側白道(シロミチ)沿いには三百年前まで使われていた小さな船着場がある。昔は海からここまで小舟が遡上し海産物を運んでいたという。三角辻橋から下流の河岸は綺麗な石垣でなぞられておりその景観は町でも一際人気のある散歩道である。三角辻橋に北東方向から差し掛かる媚嗚筋、肱の道には枇光地(ヒコウジ)商店街があり溺れ溪町北西部の住民の消費生活の中心を担っている。この商店街は旧市街の古く立派な建造物と新しい商店街風景の融合した場所であり、旧市街を漂う時代感は薄い。主に山の幸、霧川の幸などが夕方まで店頭に並ぶ。枇光地商店街の周辺から肘の道の早川橋までの地域は、枇光地部落と呼ばれている。
枇光地商店街を過ぎてより奥へ進むと、肱の道は徐々に坂になり媚嗚手山の早川部落に突き当たる。早川とは媚嗚手山の肱の付け根から流れ出る小川であるが、乾季、すなわち十一月から二月の間、水量は減りほとんど枯れてしまう。この周辺の市民の生活はかつて媚嗚手山と深く関わり合っていたという。彼らは殊にサイチョウを尊びその鳥の豊富さが山の豊穣に深く関わっていることを知っている。
――溺れ溪湾に注ぐ二つの川
霧川、翠巴川は共に、鹿鎚山系を水源として流れる渦珠川(ウズタマガワ)の下流部の名称である。渦珠川は雚見ヶ丘にぶつかり二つに分かれ名前を変える。霧川は町の北を、翠巴川は町の南を流れそれぞれが河口の左岸に港を持つ。渦珠川の本流は霧川であり、峻険な鹿鎚山系を縫うように流れる上流部渦珠川から一月から二月の早朝にもたらされる霧が川名の由来となっている。厚い雲のように海へ流れ出る霧は毎年の名物にもなっており、霧川あらしと呼ばれ春の風物詩になっている。霧川霧川埠頭には大型船の碇泊が可能であり、現在も多島海地域からの物流が盛んである。市場には、魚介、サンダルや硝子製品は勿論、島々からの農産物、沈香、竹細工から外来の煙草まであらゆるものが売られている。それに対し翠巴川埠頭は非常に小さな港である。今なお漁港としての役割を担っており周辺は典型的漁村となっている。市民生活の中心部からある程度離れていたが、朝市に魚介を買いに来るものが少なくないため午前中は大いに賑わっていた。旧市街、新市街共に霧川の流域に存在していることから町が霧川を中心に発展してきたことがわかる。
――溺れ溪の周辺地形
溺れ溪湾は霧川の河口を湾頭としており、北は霧打ち半島(キリウチ)、南は御杜巴ナ岬(オズハナ)という二つ岬角に挟まれている。
湾の沖合には数えきれないほどの島が浮かんでいるとされており、実際町に残る古い文献はいくつもあるが、いずれでも島に言及するとなると、全ての島の数など到底把握できそうもないという旨の弱音が散見される。湾内に島はなく沖合七キロの場所にある二平方キロの大きさの那々紙島(ナナガミジマ)が島々の地域への玄関口の役割を果たしている。
この地域では人口境界を儲ける文化がないため正確な境は明示されていない。町を囲む三つの山が実質的に市民生活圏の境の働きをしていると考えられるが文化的繋がりで見た場合、この町の仮の境界を三つの山に定めることはできない。雚見ヶ丘の西麓に存在する果樹園や、その周辺の小さな集落もまた文化的に溺れ溪と繋がりが深いため、西限は渦珠川が霧川、翠巴川に分流する点であると考えるべきだろう。また南端に関して、御杜冶マ山を越えた南にある小規模な漁村、御杜ヶ浦(オズガウラ)を溺れ溪に含めるべきだと考える。
また、南の御杜冶マ山に比べ険しく、直接鹿鎚の峰々へと続いている媚嗚手山には、いくつかの言い伝えがある。ビヲは美しい女性の啜り泣く音に漢字を当てたものであると考えられており、媚嗚手山という山名は、女性の腕が山になったという伝承から名付けられたといわれている。媚嗚手山はその形から肱丘、脇谷の地名があり、屈曲する媚嗚筋にそれぞれ肱の道、脇の道と名付けられ、旧市街の生活を育んできた。媚嗚手山の尾根は西の海に切り込んでいくように伸び、霧打ち半島となる。先述の通り、媚嗚手山が腕に見立てられることからも霧打ち半島にもかいな半島と別称がある。尤も、かいな半島と呼ぶ人間はめっきり数を減らしたようで日常生活で耳にする機会はほとんどない。もちろん、突端の霧打ち岬は手のひら、および指にあたり、五色岩と呼ばれている。