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ともに浮かべば肺、満ち! 7章

 金曜の夕方、学校のバーマイグア食堂でゲッドと落ち合った時、彼女は青がはっきりする織り方の赤紫チョッブジャケットを着て俺を待っていた。アルミの長テーブルの一角で西日に照らされた頬は素敵になっていた。開けっ放しの窓の外で焼き鳥の匂いと犬の影がうろついていて外で屋台の爺婆、大声で世間話してるのがどこにでも聞こえた。俺はその日の授業を終えてコーラカフェインで興奮していた、意識は明るいし身体もすっとしていたが、何故ときどきよれっとこけそうになっていた――何の本を読んでるの、と隣に座ると、前に座って、俺を見ずにゲッドは叫んだ――残念ながらその日の彼女の髪は括られてぴったりしていた。俺は座りなおして昼間のアンシャンジュースを啜った。青いだけ、ロクでもない、と彼女は言った。青いのがいいんじゃないか、青いからココナッツが嫌いな俺でも飲める。レモンを入れると紫!と叫んでゲッドは本を閉じて鞄に入れ、ぎょろっとしたこげ茶の目で笑った。彼女の青い肌は笑うと夕陽の反射で金色に光った。俺は瞬きして、あ、と言った。腕に巻いた時計のベルトも青だ。なんで時計がついていないの。可愛いのはベルトだけ、これ銀の青。腹を空かせていたから屋台のバーミーを買って戻ったら彼女はそのままだった。何も食べず、頬杖で俺をじっとみていた。食うのを見るなよ、気が狂うぞ――何が?人が食うのを見ていると夜中に目が冴えるようになるって言うだろう。信じてるの?――信じてるよ、俺は女の子が飯食うの見るの好きで、四六時中見て居たらそれで不眠病になった、今だって困りっぱなしだ。彼女はため息ついてケータイ電話を見始めた。ゲッドは俺の食い終わるのをみて黙って立ち上がり、俺は食器を運んで彼女を追いかけた――赤紫のチョッブジャケットの下に着た真っ白のベルボトムジーンズが左右に動いていた――尻のぽっけに入っているケータイは狭そうに身を捩っていてしんどそうにもみえた。彼女は駐車場の白いイスズのピックアップに乗り込んで俺にも乗るように言った。どこにいくの。嫌なの?いや、どこへ行くかが気になった。

 川の向こうへ行くの!――長旅か?用事ないんでしょ、心配事でもあるの?――別にない、ねえ君は誰なんだ。じゃあ行こう?俺は助手席に乗り込んだ――足元にあるクーラーボックスはどけてもらえず俺の足は不自由な隙間で曲がっていた。白のピックアップは大学を出て、ンガムヲンワン通りより北へ向かう。大学の辺は既にバンコクの中央から離れてビルもまばら――大学はあのエレファントビルより北でところどころにまともなコンドーが立っている他はほんとのボロイ街並みが残っていた。建築ラッシュの波がそこここに来ているせいで更地や通れない大通りが多い。西へ行けば行くほどその傾向は強くなり、だんだん見える建物で大きなんは寺院ばかりになった。三十分ばかり西へ進み――渋滞に詰まり日はみるみる暮れて行った。西にあるのは水のママ――横たわりまとも、優しく微笑む聖母の横顔を見られる、何をしに行くの?――ゲッドはつまらなさそうにハンドルに体重のせて呆けていた。どうしようもないような顔をしていた。でかけるの、嫌なの?――嫌なことはないさ、ただどうして行くかが気になっただけだ。――嫌なんなら早く言って、わかんないと不安だわ、それに引き返せないくらい行ってから言われても知らない。わかんないから僕も不安だ、どこへ行くの?川の向こうだって。用事は?しばらく黙ってゲッドは、分かんない、嫌なら言ってね。OKのハンドサインをして俺は椅子を少し倒した。

 真っ暗で行く先もわからず、川を超えたのは恐ろしかった――泥色の水を隠す夜と、人の抗い――酒場やレストラン、ホテルの灯だけが燃えちらつく波――聳える塔から橋吊りワイヤーが無限に垂れ、一層輝く橙色のランプに放射線を思わすマハチェサダボディンドラヌソーン橋、越えると三十分もしないうちに大きな街道沿いも田園の様相を呈す――しばらく無言の暇があり、お互いそわそわと見慣れない世界、遠く未知の境界へ続いていくまさにその場所で、何かを予感した。シャンシャンシャンシャンとちっちゃなシンバルのような音がするので田んぼの方と思って見回して窓を開けたが音はどこから鳴っているか謎だった、わあ気味が悪い!――俺は叫んだ――風がびゅーびゅー煩いから窓、閉めて、気分悪いなら止まるから。あの音はどこから聞こえるの、シャンシャンシャンシャンシャンシャン、煩くないけど気になって仕方がないだろう!怒鳴ってからゆっくり窓を閉めたら音は一気に大きくなった――東の空からは満月が我々を追いかけていた、それは笑いまわっていた。月が滑ってくる音だ!とゲッドは叫んだ。車は走っていた――満月になればなるほど煩くなって今晩はずっと鳴る!そんな音は聞いたことがない。チャオプラヤを超えると聞こえるんでしょう、知らないの?聞いたこともない、どうにかして静かにしてくれ。風情があるのよ!――彼女はまた怒鳴った。黙った。十二時まで我慢して。我慢したら助かるのか?悪さしないのよ、素敵な音よ、慣れなさい。振り返ったら月はまだ大笑いしており、恐ろしくて仕方がないが、ゲッドは面白くなって笑いまくっていた。そんなのムリだ!――煙草吸ったら。車でもいいの?――ゲッドは飲みさしのペットボトルを俺によこした。窓は開けるな――俺は慌てて火をつけた。

 やはり十二時になるまでシャンシャン鳴っていたが、日が変わってゲッドがセブンイレブンに寄った。俺はカップスープと水買って、トイレから戻ったらゲッドが赤のファンタを思いっきり振っている――蓋開けて噴き出したのは白いイスズにかかる――月光の下でグリーンに光るようになったボディーに掛かって鉄と酸みたいにシュー、そして緑の反射、赤ファンタ、銀の月――せめぎ合ってグリッチした、まるで花火だ。バチバチ泡が切れて、たらーっと窓の上からしたたった。――どこへ行くんだ。嫌なの?そんなことは言っていないだろう。なら黙って一緒においでよ。寝なかった、ずっと車は西向いて爆走するのを俺はじっと見ていた――他の車はほとんどない、郊外の街道は西へ西へ続いていく――チャオプラヤデルタの田んぼ、時々通っていくトラック、ペタペタに擦られた鏡面のようなアスファルトに光が溢れていた。月の笑い声は静かになっていた――しかし以前真後ろから追いかける。ゲッドは俺に尋ねた。あなたは将来何になりたいの?俺は物語になりたい。作るんじゃなくって?そう、なるんだ。彼女は笑った――誰の人生だって物語じゃない?俺はうなずいた、その通りだ。そうだろう、でも、俺には語り方がわからない、あああ!あなたは特別な人?――ゲッドは俺のクロンティプ煙草を吸いながら言った、車の中は煙だらけで小さな光が入るたびに輝いた。幸せな人生だ!俺は大きな声で言った――どうして孤独じゃいけないの。知らない、辛いだろう?寂しいだろう?――彼女の青い肌は今闇のなか、黙って真っ直ぐ照る夜道を睨んで――あぁ、俺らは進んでゆく――わたしって特別?さあね、見る人に依るんじゃないか、僕は好きだな。抱きたい?別に。あぁそう、で?――干渉しないんだ、汚いだろう。――なんだ、でも精神はのめり込むのね、こうやってるとね、煙みたいに一緒になるのよ、人ってみんなみんなそうやってするのね、だって、私たちもほら、こうやってどろどろ溶けて一緒に互いを浮揚しあうわけね、ほら、セックスより良いのよきっと、こういうのは、きっと、いいでしょう?気持ち悪くていいでしょ?気持ち、いいでしょ?――あぁ、そうかもしれないな。ほら見て、ああ光ってる、田んぼ素敵!――彼女はうっとりよそ見をしていた。田んぼにはたくさんの小さな炎がぼやぼや飛び回っていた――戻る場所を探す亡霊かあ、あれたちははぁーと悲しい息つきながらふらふら。怖い?――怖かないわ、素敵よ、この場所が好きなのねあの人たちは、素敵よ、誰もいなくなってもこの場所が好きなんだ、今じゃただの田んぼなのにね、半分水没してるとこに愛着よ?こういうのっていいわ。ゲッドはきゃあきゃあ惚れて、ひゃぁぁと声のような息のような感嘆、彼女は最高だ――わたしはね、特別じゃないけど、楽しいのよ、だってこうやって車でどこまでも行く、自由な人だから。ゲッドは建築家じゃない、彼女はペインターだ、また同時にポエット――画材を荷台に大量に積んでいつだって素敵な場所を探している――白いイスズのピックアップは、ドービニーの船、ボタン号だ、瞬間を探し回って彷徨っている。お酒、着いたらまた飲もう?とゲッドは言う。着いたら朝じゃないの。じゃあ、着いてちょっと寝たら、ああ、あなた寝ていいんだけど、ずっとこうしてるとしんどいじゃない?私って昨日会うまでぐっすりだったから平気。それなら早く言ってくれよ、俺は眠くて仕方がなかった――遠慮せずに寝た。眠ろうと目を瞑っている俺の頭にゲッドが黒い布を被せた。鏡になったアスファルトをボタン号が滑っていく音だけだった、ゲッドはたまに鼻歌をする、そしてやがて満月がまた笑って俺らの頭の上を越していった――夢に落ちていく、浮稲の長い茎の夢、その他バクや象、よちよち這うちっちゃい金の竜、いろんなタイの奴らの夢、そんなのを見た――エアコンが寒いのは夢の中でも同じで、さっきみたいなタイの奴らがいっぱいなのに気づいたら日本に変容していく景色にいた、冷たくて面白くないグレーの日本、逃げ出した場所だから痛めつけられるような偏執病の人になってしまう、面白くない、そんなこと夢のなかで見たくない、楽しい仲間が日本にもいるはずなのにあいつらは俺を助けに来なかった。

 目覚めは悪かった――悪路も悪路だったし、やけに煙たかった。いやいや目を開けた、どこぞの煙のせいで目ヤニだらけになったのを擦って座席を立てた。ゲッドは相変わらずハンドルに体重をかけて放心したように爆走させていた――煙は辺り一面を覆い隠す様で、燦燦している雰囲気は失われていないのに曇りみたいだ。スラッシュ&バーン――熱帯雨林の奥の耕作地が移り変わっていく季節だ。けむりは濛々と上がり空を覆うのも当然だ。ゲッドは俺が起きたのに気づいたらしく独り言の様な調子でのんびり話した。彼女が話すのはいつも故郷の海だ――良いビーチがあるのよ、二時間くらい行ったところにね。なかなか行かないんだから友達なんかで車乗り合わせて行くわけね。良く晴れた日よ。海に行ったら晴れてるのに曇ってるのよ、腹がたっちゃうでしょうなんでだと思う?――彼女はやっと俺に話した。俺は首を傾げた。白いピックアップのボンネットには昨晩の赤ファンタが飛び散っている。なあ、俺らは毎晩狂って過ごさないと気が済まないのか?――当たり前でしょう。まるで何か轢き殺したんじゃないかってくらい赤い、鮮やかに越したことはないけど――そこに煙の煤と赤土が舞って張りつく、ここは森だろう?もう俺らは山ん中にいるんだろう?こんなの煙焼き畑以外にありえない――ビンゴ、彼女はふざけてクラクション鳴らしてのけぞった――逃げ切ったわ――何から?何から逃げ切ったんだと思う?、質問してるのは俺の方だぜ。何でもすぐ聞くのよした方がいいよ、馬鹿になっちゃう――一昔前のロックミュージックがカーステレオから流れていた。ちょっとベタ過ぎるようなロックミュージックだ、グラマラスでねっちりしてるようなのが大音量で流れてた。曇ってたのはさ、ボルネオで熱帯雨林が切り開かれてたからなのよ、信じられないでしょう?マレー半島の青空を覆うほどか、そうなのよ、ひどいんだから、海水浴の気分じゃなくなったわ――晴れててもヘイジーって最低じゃない?――ああ、そうだな、けど東南での生活って趣もあっていいだろ。そんなの私に言ってもダメよ。でも、ここいらの煙は悪くないわ、決してシャム平野をヘイズで覆うってことはないんだもの。当然だ、ああやって南部を覆うほどのは開墾だろう。そうよ、最低よ、うちらの国にはいなくなっちゃったサイがまだあそこにはいるっていうのに。でも環境保護なんて嘘ばっかだろう?――ねえ、私あなたが目の前にいるんだから言うわね。あなたってなんにもわかっちゃいない、なんでもかんでも他人事みたいだけど、森を切り拓いてるのはあなたの国ばっかりよ、マレー人はそんなこと望んじゃいないわきっと、あたしたちの大地は日本と中国の畑じゃないんだから。――まるで資本主義!――笑いごとじゃないわ。でも俺に何ができるってんだ――私の納得が行くまであなた自分の国に火をつけて回りなさいよ。そしたらわかるわ、ゾッとするのよ力づくで奪われるのって。ねえだって貧乏人にそうやってちょっとのお金渡して、一生もどらないもの取り上げてくのよ、酷い話――ここに来たのはホントのことを知りたかったからなんだ、それまでは日本の企業ばっかだってことも知らなかった。けどここまで来ないと実感できない事実に、来たことない連中が同情できると思うか?そんなことしたら街にまで火をつけられるぞ。――あなたの国って知らないの?踏みつけてるものがあるってこと。知ったような顔はしてるよ。――生きてるってそんなことだろう。俺は逃げ切ったんだよ、きっと。――私は?一緒に逃げりゃ良いじゃないか、人の欲を振り切ってさ、俺らは虎の王様にならなきゃいかんよ。あははは、それって最高よ、街の怨霊なんかもういらない(City Griefと彼女は言った)。行きましょう――もうすぐ向こうのはずなんだから。カーブすると焼き畑の煙が薄まっていき、峠――最初に太陽、それから森林、澄んだ空気を見下ろした――見晴らしに駐車すると五分に一台ぐらいは原付が抜かしていく、竹の竿とか、小学生の娘とかを後ろにのっけてこいつら楽しそう、あれ、ここはどこ――カンチャナブリとウタイタニの県境の方、ミャンマーってもう近くじゃない?――どう楽しい?いいと思うな。俺は車を下りて崖から身を乗り出した――亜熱帯の森、赤い土、フタバガキの板根?丘陵の緑は、離れるごとに淡く層を成して薄青、空に近い色に――どこまでも続いていく、誰も知らない場所に住んでいる人がいる。かの女は真っ黒の髪をほどいて、流れている――小さく開いた窓から入る乾いたそよ風に踊っている、頬っぺたは緩んで、風でシャツの胸元がばたばたと揺れている、君は元気そうだな。そう、わたし寝ないで平気だった、楽しくてよかった――おでこをぴょっと左手で撫でて笑った。爽快だ、川のこっち側に来てしまっただけではない、これぞ奥の方の悟りだ、煙を吸い込んで空がきりっと青く変った、直上の太陽が燃やす赤い道をぐるぐるしながら、高みにかかるとアマツバメの弧が空を切り分ける。