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玻璃玉送り 1

 三十度を過ぎているにも関わらず夏が来ないような、セミの鳴き声、扇風機の振動、遠く遠くの風鈴、私はとらわれている、夏は全て遠いところにある。私の外にそれはあり、私はまだ夏の中にいない。朝から晩まで、何かから押しつけられているような感覚に囚われていた、この多摩川の辺りに越して来て、もう既に半年が経っていたが、私はその半分以上を部屋に閉じこもって暮らしていただろう。前にあの川を見たのはいつだっただろうか、私は長いこと歩いていないのだ。桜の花がまだ咲ききっていなかった、そんな景色がふと浮かんだのだった。
 来る日も来る日も、私は一歩も動けず、ただ床に転がっていた。暑くなると少し横にずれて、腕に冷たい感触があるのを喜び、クッションフロアの偽物のフローリング模様を異常に近くから眺めていた。ため息をついて見上げると、白い天井に寂しい電球がぶら下がっている。私はついそういうものに集中して、夏の音や暑さを忘れてしまう。私はこの何もない思考だけが沈殿する日々に、何か硬い質感のようなものを感じていた。私はこの感覚を何と表現すべきかを知らない。ただそう云う漠然とした時間と空間の中で私は、外の世界を忘れようとしていた。
 私は旅を愛していた。しかし、太陽は私の世界を離れ、知らない、どこか遠く離れた別の星を照らしていた。
 何も、この病みきった社会がいけないのではない。むしろ、このような淀んだ社会は私に幸いするとさえ感じる。社会が静止に近づいていくことは、私とは関係のないところで起こっている災難なのだ。悪いのは私を押さえつけ、捕らえようとする、憂鬱な塊であった。春がだらだらと続いているような、苦しく狂いそうな瞑想だけの時間が私をいたたまれなくするのだ。
 注意が一点に向かないようで、その日私は珍しく日中に目を覚ましたにも関わらず、部屋に寝転がったまま死んだようにしていた。動くといえば、CDを十分ごとに替えにいったり、数ページも読まない本を本棚から引っ張り出してくることくらいのものだった。三月から捲られていないカレンダーを見て、この世にあるのがこの部屋だけであるかと私は夢想した。私は便所で用を足し、冷蔵庫で冷やした水道の水を飲みながら、私の周囲に散らばる様々な欠落を改めて見渡していた。
 私を五ヶ月ぶりに歩かせたのは、一通の便箋だった。一通り散らかった部屋を眺め終わった私は玄関の覗き穴から差し込む細い光線を視界に入れ静止していた。夕方の太陽が鉄の扉の向こうからこの部屋へ迷い込んで、泳ぐ埃を照らしあげているのだ。惚れ込んだように見つめていたが、ふと光線は遮られ、続いて音がした。それは錆びた郵便受けが動いた音であった。また玄関の覗き穴のレンズを通して西日が差し込み始め、きちんと底を閉じられていない郵便受けから一枚の紙が滑り落ちた。その紙はしばらくの間床に蹲っていた。仕方がないので拾い上げてやると、A4のコピー用紙に装飾少なく文字が並んでいた。私は暗い玄関で、埃の光線に照らしながらその紙に目を通した。

『玻璃玉送りの案内』
 盛夏の候、皆様におかれましては益々ご清祥のこととお喜び致します。さて、本年も盆の玻璃玉送りの時期が近づいて参りました。本年は異例の社会状況を鑑みて玻璃玉送りは中止も視野に入れ検討を重ねておりましたが、伝統を守る為にも例年通り執り行う運びになりました。
混雑を避ける為に、参加時間・場所を設定させて頂きます。また、当事者つまりは多摩川流域住民の他には開催をお知らせして居りません。くれぐれも口外せぬことをお願いいたします。
日時:2020年 8月 15日 二十三時~二十三時三十分
場所:是政橋南 サントリープロダクツ 多摩川工場 横

招待文の下には一枚の写真が白黒に印刷されている。どうも多摩川の水面を玻璃玉というものが流れているのを写しているらしかった。それはガラス玉の様である。内側に蝋燭が灯され、光は水面に垂れて俄かに水を照らしている。私はその景色に一種の憧れのようなものを感じていた。私は少年時分、こう反射しながら輝くやつが好きだったのである。何故か理由は分からないが、私は無性にガラスが好きであったのだ。そして、この儀礼に興味を抱いたのだ。しかし、チラシには玻璃玉を手に入れるべき場所も、祭りの概要も記されてはおらず、私は途方に暮れた。春の始まったばかりの頃、私はここに越したばかりの日に役所へ行って何冊も分厚い本をもらったはずだった。それを戸棚から引っ張り出し、片っ端から玻璃玉送りに関して書いている部分がないものかと探したが一向にそれらしいものは見当たらない。あるのは洪水時の避難所、浸水域の地図や、ゴミの曜日を書いたカレンダー、そういったものばかりだった。私はこの街をほとんど歩かないうちに、部屋に閉じこもっていたのだなと落胆した。思えば、部屋の一角はほとんどビニール袋の山、他方は郵便物や食品の入っていた段ボールが積み重なっている。
何故、この玻璃玉送りの招待状が私を突き動かしたのかは分からなかった。ただ私はその時やっと、日の目を再び見ることを決めたのだった。私はカーテンを開け、窓を開けた。冷房を止めて部屋に夏が入り込むのを、暫し床に座り込んで待った。急に蝉の鳴く声が直接響き始め、遠くの家の風鈴がこちらまで来た。じわじわと汗が肌にしみ始め、私は深く熱気を喉に通した。風呂場で時間をかけて体を洗い、白く気持ちのいい下着をつけ、夏物の洋服に着替えた。ダンボールの奥にあったサンダルを片手に玄関へ行き、私は恐る恐る扉を開けた。途端、強い西日が正面から私の目を撃った、思わず瞑ると薄い瞼がオレンジ色に、私は夏の中に放り出され、汗ばんだ肌がシャツに張り付くのを感じながら歩き始めた。
まず、身体を慣らすように私は部屋とゴミ捨て場を往復し、部屋中のゴミを片付けた。そうすると徐々に呼吸が夏になり始め、直視すると夏の東京郊外の街並みが、異国の旅のように私に手招きをした。私は緊張していた。
もう一年近く、私は旅から離れて生きていた。それは憂鬱に沈んでしまう前に、私が唯一持っていた楽しみであった。つまらない東京の隅の景色から、何故か私は旅に似た何かを予感していた。それは旅の中でも、自分の知らない世界を歩く快感の部分であった。日常からかけ離れた道を歩く、余所余所しい気持ちがどこかから私を見つめているのだ。私はあてもなく歩き始めた。多摩川沿いのこの地域は、よくいわれるような大都会としての東京とは対照的で、どこにでもある地方都市にもしかない、活気の薄い場所だった。歩けど歩けど、つまらない景色が前から後ろへ入れ替わるにすぎない。どこにでもあるような住宅街の隙間を縫うように私は歩いた。庭先に放棄されひび割れたジョウロや、ロープでも葉を支えられないくらい巨大なキダチアロエ、そんなものが目に入るだけである。やがて人通りの一切ない商店街に差し掛かる。商店街といっても、営業している店は一つもないような有様である。きっと数十年前に建てられたであろうその建物は、皆双子のように同じ建築で、片流れの鼠色の屋根の下に、一階店舗部、二階居住区が連なっている。違うのはその壁に塗られたペンキの色と、既に閉店した店舗をどう放置しているか、という程度である。そこにも何か見るべきものがあるわけではなく、私は見るでもなく建物を通り過ぎていく。灰色の建物は、ショーウィンドウを無数の植木鉢や、プランター、水槽で覆ってしまっている。しかし、植木鉢やプランターに植物はなく、水槽にはクロレラだらけの水があるのみである。また、その左にあるくすんだ緑色のは、内側からカーテンをかけており、その隣のベージュのものは、内側にコンテナやダンボールを積んで外から見えないようにしている。どこにでもある廃商店街なのだが、私はその景色に何故か違和感を覚えた。お盆であるせいもあるかもしれないが、やけに人通りが少なかった。確かに住宅街に網のように張られた小道の中では一際広い道であったが、車通りもなく、人が住んでいるような気配もなかなか感じられないのである。
思えば、この商店街はいささか奇妙な道の分岐にあった。まるで、何かを隠そうとするように、その道を賑わせようとしているようにすら思えるのだ。この商店街はY字路の左側に当たるのだが、整ったY字ではなく、言うなれば飾りの多い筆記体のyの字のような形をした分岐なのである。筆記体のyで言えば真っ直ぐ続いていく主要路は右側であるが、左手で急に曲がりながら現れた商店街通りが三倍もの太さで始まっていく。大崎通りと、名前のついた道が続いていくにも関わらず、真っ直ぐ続く方は分岐を境に一旦車が通れないほど細くなる。おそらく道を知らないものは左側の、すなわち商店街のある方を正しい道であると信じるだろう。現に商店街通りには新大崎通りと名前が付いている。
私は元来た道を帰ろうとしたが、ふと細くなった大崎通りの先に何があるのだろうか、という好奇心が頭に膨らんだ。三つ辻まで戻ると、来るときには気がつかなかった大きな看板が正面にある。それはところどころに錆が浮いている白塗りのブリキ看板で、赤いペンキで何か書かれている。古い看板のようではっきり見えず近づいてみると、そこには一対の狐が向き合う姿が赤いペンキで書かれている。どこかの仏具屋か何かの広告かと思ったが、店名が書かれているわけでもなければ、住所も電話番号もない。ただ、狐の向き合っている頭の上に一つ、鳥居が描かれているだけである。狐にしても鳥居にしても一種類の筆なり刷毛なりで描かれたらしく、写実的な印象はない。狐はちょうど絵馬にでも描かれるような筆致である。また鳥居は四本の直線のみで形成された略式の記号である。その看板は私、及び通る人に何かを案内しているというようなものではなく、どちらかというと印、シンボル、漠然と何かを示しているような印象であった。私は二匹の赤い狐をじっと見つめたあと、看板を後にして、細くなった大崎通りを歩き始めた。
自転車ならなんとかすれ違えるどうかというくらいの狭い道で、片方には手入れのされていない豪邸の庭が続いている。やがて庭が竹林に変わり、おそらくその一家の墓が柵に囲まれている脇を通る。その後は雑草の疎らに生えた砂利の空き地が広がる。向こうに中央高速道路が見える。私は歩きながら旅に近づいていると感じていたが、その理由の一つはこう詳細まで目の注意が向かうからなのかもしれない。しかしこれは、旅ではない。普通の街をただあてもなく歩いているだけである。やがて私は、この状況に一つの心当たりを覚えた。半年以上私が迷い彷徨っていた、太陽のない世界、すなわち部屋の中の世界で渦巻いていた数々のくだらない思考の数々が私の脳を変質させてしまっているのだ。その為に私は日常を見て、どこか旅に近いものを感じるのだろう。私は混じり合っているのだ。思考と外の世界と、私の体で、絡まり奇妙に感じているに違いない。
細くなった大崎通りはやがて少しずつ幅を広げていき、両側に二、三階建のオフィスが現れた。まだ車が入れるような広さではないが、建物の向こうに表通りがあるのだろうか。しかし社の表札はこの二メートルばかりの道に面してつけられているし、ガラス扉には「誠に勝手ながら夏季休業とさせて頂きます。八月十四日~八月十五日」と張り紙がされている。ただでさえ細い通りであるが、通りにはみ出して発泡スチロールの簡易プランターがある。植えられているのはニンニクと豆苗、大方食べ残しか何かだろう。道幅を犠牲にしてまで育てたいと思う人間の気が知れない、もしこの会社が新聞を取っているのなら新聞の配達員は気の毒だろう。それにしても、どうしてこうも奥まったところにオフィスがあるのだろうか、どこから人が通勤してくるのか見当もつかない。会社の建物は全部で三つ、その向こうでやっと通りは車が行き来できるような広さになっていく。そこからはよくあるような住宅街が再び始まる。
ふとオフィスビルの影から、古い商店が出てくる。これは想定外で、見るからに潰れかけの外観で、夜にならないと店の中に何があるかも判然としないような薄暗い、昔ながらの店である。近づいて売り物をみると、それはちょうど村の雑貨店として平均的な品揃えで、要は野菜少々、缶詰インスタント麺、駄菓子、清涼飲料水といったところである。こんな店が他所の国に行けば少し都市部を出たらいたるところにあるものだが、今の日本ではほとんど全部コンビニに取って代わられているから、住宅街やオフィスのような曲がりなりにも現代日本という街並みの中にひょっこり出てくると相当の違和感があるのである。田舎でも珍しいようなその店に、私はいそいそと歩きこんだ。入り口には勾配のついた台があり、夏野菜が数えられる程だけ並んでいる。トマト二つ、ナス一つ、きゅうり七本、とうもろこし三本、その台の下にはダンボールが置かれておりインスタントラーメンの袋がある。入ると、電池や駄菓子が同じ棚に入っている。後ろにはウィスキーやら酒の類が並んだ棚がもう一つあるぐらいで、ごちゃごちゃした外見の割に中はがらんとしている。棚が二つある以外はコンクリートの床がむき出しになっている。見るからに潰れそうな外見だけあって、よっぽど人気がないのだろう。何か買ってやろうと思い、奥の冷蔵庫を覗き込んだ。下段はビールの茶瓶、それから種類の揃っていないペットボトルの清涼飲料、缶入りのビールと清涼飲料。上段に瓶入りのものがあるのを見て私は懐かしさを感じた。オレンジジュース、ラムネ、コーラ、冷蔵庫が低く唸る音を聞きながら、私はガラス戸を引いた。硬く磁石で付いている扉は勢いよく開き、冷気が顔にかかった。ガラス越しにふと紙パック入りの卵がウィスキーの棚の最上段に何段も乗せられているのが目に入った。ぶら下がった裸電球はまだ白熱灯で、周囲をコバエが回っている。私はラムネの瓶を一つ手に取って、奥でテレビを見ている主人の方へ歩いた。
幼少の頃、通学路にあった駄菓子屋の陰気な雰囲気を私は思い起こしていた。古めかしいレジスターの後ろに髪のない老人が座っており、天井につけられたテレビを眺めている。老人の背中には棚があり、棚板には厚紙に入れ込まれたスーパーボールのくじや、ステッカー、その他五つずつビニールに入れられホチキスで止められたビー玉などが画鋲で止められている。
「いくらになりますか」と私は老人に尋ねた。おそらく耳が遠いのだろう、老人は私の顔を驚いたように見上げ、身を乗り出した。その拍子に後ろの棚に入っているものが目に入り、私はしばらく言葉を忘れた。そこには直径十五センチほどのガラス玉があったからである。薄青色のガラスに、苔色の絵の具で飾られていた。漁村で見られるようなガラスの浮き玉に近いが、一部が円形にくり抜かれており、中に蝋燭を入れられるように出来ていた。
「すみません、この辺りならどこで玻璃玉を買うと良いでしょうか?」
私がそう出し抜けに尋ねると、、老人は訝しむような顔をして「余所者か」と言った。いかにも頑固そうな顔をしており、正直に私が余所者と言うと何も話さないだろうと容易に予想がついた。私は首を振った。
「この近くで生まれましたが、親の都合でやっと今年故郷に帰って来られたと言うところです」
「八百屋にではなく近所の親戚にでも聞けば良いだろう」
「ええ。しかし祖母が今年亡くなって、近くに身寄りはおりませんし、家もないので父は帰っていないのです」
「新盆もないがしろにするような子を持ったおじいさんや、ご先祖さまは気の毒だな」
「そう思い私は大学を卒業してこちらに越して来ました」
「最近は伝統も気にしない若者が多い。私は若いものを信用しとらんよ。お前のだらしない格好も不快だ」と老人は言い捨てた。確かに私は白い肌着に短パンを履いているだけで、だらしないと言われれば言い返す言葉がなかった。仕方がないのでポケットから玻璃玉送りの招待状を取り出し、老人に渡した。彼は傍から老眼鏡を取り、顔から紙を遠ざけながら読み始めた。老人はチラシを読み終えると、目を細め「百十円だ」と言った。私は半ば諦め、財布からラムネの料金の小銭を取り出した。見れば、老人は広告の束を取り出して裏紙を探している。大きな音を立てながら老人はレジスターに小銭を入れた。
「競艇場の場所をわかるか?」
「もちろん。確かこの大崎通りをまっすぐに行くと着くはずでしょう」
「競艇場から先は元のように大崎通りが伸びているが名前が同じだけで、こことは繋がっておらんよ。街道の南で道は途切れてしまっておるから、別の道から行きなさい」
そういって彼は大まかに、競艇場と多摩川を広告の裏に大まかに書くと、川沿いに一つバッテンを付けた。
「競艇場の前のコンビニがあるだろう。そこからまた大崎通りが始まっているのだが、通り沿いに南へ向かうと商店街があり、住宅街、まっすぐ行くと多摩川の土手に当たる。突き当たりを左折し、三つ目の角を過ぎたあたりで茶色の廂にコウヤ硝子と書いた建物があるはずだ。そこで玻璃玉を買えるだろう。高野と書いた表札の脇にインターホンを押すと爺さんが出てくるだろう。比留間の爺さんから聞いて来たと言えば売ってくれるだろう」
「比留間とは貴方の名前ですか?」
「そうだ。三時には店を閉めている。今日はもう遅いから明日いきなさい」
私は礼を言い、広告の裏にある地図を受け取って店を出た。私は瓶ラムネを片手に夕暮れの道を歩いた。次第に微かに残っていた太陽の残り香も消え失せ、辺りには幻想を焼き払った炭が堆く積もっていた。もはや私は昼に感じたような旅への誘いの感覚を失っていた。アパートに戻り、冷蔵庫にラムネの瓶を入れてしまうと私はカップ麺に湯を入れ、出来上がるのを待った。半年ぶりに昼間に出歩いたせいか、少し気分も上向きになったようで私はテレビのコンセントを指して、ニュース番組を眺めながら夕食を取った。相変わらず、相変わらず外の世界は感染病流行に、相次ぐリストラ、芸能人の自殺、下がり続ける景気、半年前と何も変わっていなかった。何人が死に、何人が生まれたろうか、私が一切関与していないところで世の中はうんざりするほど病んでしまったようだ。
私はポケットから広告に書かれた地図を取り出し、机の上に置いた。換気扇で煙草を吸った後、私はコンピュータを立ち上げ、玻璃玉送りについて調べることに決めた。『玻璃玉送り_多摩川」と打ち込んだ。しかし、画面には一つもそれらしいものが表示されない。次に「玻璃玉」と調べたら、真珠の古語であるという情報が出た。「多摩地区_ガラス文化」では、聖蹟桜ヶ丘のガラス工房に、川崎の窓修理をしている工務店の案内が表示される。他に大して盆の行事や伝統らしいものは見られず、私はその時、この玻璃玉送りという風習がそれ自体、今では有名ではなく、おそらく随分も昔に廃れてしまったものであると気がついた。
調べ方を変え、「多摩地区_盆_伝統」と条件を広げると、青梅から府中・稲城にかけて、流域で養蚕が盛んであること、本来の盆である七月十五日或いは八月十五日が繁忙期と重なることから、この地域に限って八月の一日を盆とするのであると書かれている。それはそれで面白い風習であるかもしれないが、玻璃玉送りの案内が八月十五日の盆に合わせて届いているのだから、私の知りたいものではないのだろう。
「多摩地区_伝承_文化」と調べるといくつか、地元の大学の公開している論文や、資料が欄に並ぶ、せっかくだからと私はそれを一通り読んで置くことにした。八王子のムジナとキツネ、青梅の天狗、河童淵、狐火、云々。民話のあらすじが羅列されている。

 狢と狐は仲が悪い。狢は綺麗好きで巣穴から離れた場所で用を足すが、頭のいい狐は留守中に狢の巣穴に糞尿をまいて、狢が住まなくなったらその巣穴に越してくる。町のものもよく化かされたが、仕返しをすると負けてしまうので狐には手を出さなかった。
 青梅の木こりが天狗に脅かされた。夜に別の者が行くと、やはり同じ天狗がいる。どうしたかと聞けば、彼のよく座っていた木が木こりに切られてしまったので、腹癒せをしたのだと言い捨てて、山の奥へ飛んでいった。
 関戸の辺りでよく魚の取れる淵があり、村人が足繁く通っていたが、ある日を境にぱったり取れなくなってしまった。一人が潜っていると河童がいる。どこから来たかと聞いてみれば、拝島から迷って来たという。二度とこの淵にこないことを約束させたが、誓約書の文字が河童の言葉で書かれているため読めない。困っていると、一人が読めるという。見ると村にいる知恵遅れの馬丁で、その者は文盲であったという。
 明治中頃まで、稲城では度々狐火が見られた。赤や青の炎が山の斜面に何十、何百と灯され揺れる。狐は地域で畑を守る神様として大切にされており、豊作の年は狐塚と呼ばれる祠に、油揚げや瀬戸物や木彫りを供えた。魔性のものは金属の類に触れられないと言うが、天狗、河童のみならず狐も例外でなく、金銀ではなく、非金属の供物が捧げられた。それが発展し今のキツネ土偶、後の招き猫の原型となった。

 どれもどこにでもあるような民話ばかりで、私は飽きてしまい冷蔵庫からラムネを取り、風に当たろうと外へ出た。ラムネの口を開けると冷たい炭酸が少し吹き出す、私は柵にもたれながら、辺りの民家やアパートを見渡した。灯りのついている家はほとんどなく、遠くでうねっている中央高速道のランプの並びが一番明るいものであった。その様子を見て、百年前の狐火はこう見えただろうかなどとしみじみ、伝承を思い返した。南にマンションが並んでいなければ、この建物からも、多摩川を通り越し、その向こうの多摩丘陵まで見渡すことができたのかもしれない。もし、明治期ならここからも稲城の丘陵にぼんやり光る狐火が見られただろうか。私はそんなことを考えて、ラムネとタバコを交互にやっていた。しばらく私は気が抜けたように、向こうにある中央高速の灯りの列を見つめており、やがてラムネの瓶を傾けるとビー玉がガラスにぶつかる乾いた音が響いた。ラムネはもう空になっていた、名残惜しさ、急に私は郷愁を覚えた。
 幼い頃ビー玉が好きであった。澄んだ水のような青いビー玉、中に絵の具がリボンのように閉じ込められているビー玉、シャボンのように虹色に加工されたビー玉、まだ小学校にも上がらないような子供の時分、わけもわからず祖父や祖母に強請り買ってもらっていた。やけに鮮明に思い出される、ふと懐かしくなり、廊下の水銀燈に透かすと、ビー玉は淵のように濃い緑をした暗い色に光った。