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玻璃玉送り 3

 私も坊主もそのうち昼寝になっていたらしく、目を覚ますと台所の小窓から濃いピンクの空が見えていた。私は坊主を置いて家を後にした。ライターと蝋燭をポケットに入れ、玻璃玉の紙袋を抱えて部屋を出ると、夕焼けにカラスが二羽飛んでいる。変質した府中の街は静けさに沈んでいる。中央高速のライトがうねりながら暗くなって行く街に浮かび始めている。住宅の屋根の上に黒く石像の影が並んでいる。カラスはどこへ帰るのだろうか。街路にでた行灯には赤い和紙が張られており、炎が小さく揺れ、少しずつ昼の自然光を取り込んで行く。
 街道を是政橋の方へ歩いていた。川へ向かう道にはちらほら人の姿があり、その夏らしい浴衣や甚平に私は長らく忘れていた夏祭りの香りを感じていた。彼らもまた玻璃玉送りに行くのだろう。紺の浴衣に赤い帯を締めた小中学生くらいの男児が二人仲良く歩いている。ヨーヨー風船を突きながら歩いているのだ。片手に持っている紙袋はきと玻璃玉を入れているそれだろう。
「玻璃玉送りに行くのですか?」と私が徐に話しかけると小さいほうが頷いた。
「お姉さんも?このヨーヨー良いでしょう」
「素敵ですね。そういえば、お昼フライドポテトを食べている人を見かけました。出店もたくさん出ているのですかね」
「うん。出店はね、今日のお昼頃から河川敷のところでいっぱい出ているんだ」小さいほうがそう言うと、大きい方も負けじと私に説明した。
「夕方まで出店で買ったもので遊んでいたんです。でも、夕食はちゃんとお家で食べるように言われていたから、一度家に帰ったんです」
「あら、それは偉いですね。私も出店で何か買って見たいので、そこまで案内してもらえますか」
 そう言うと、兄弟は嬉そうに私の前に立ち、たくさん振り返りながら案内し始めた。彼らもやはり毎年玻璃玉送りを楽しみに夏休みを過ごしているらしい。彼ら曰く、この多摩地区で夏の終わりといえば玻璃玉送りがあるのだと言う。
「感染症が流行っているけれど、やはり今年も出店が出ているんですね」
「はい。そうなんです。今年は、でもやっぱりいっつもよりは出店が少ないんです。それでも、くじ引きもヨーヨーも、うどんの屋台もちゃんと来てます」
小さいのにしっかり話すなと私は変に感心し、また知らぬ人と会って話をすることを心地よく感じるのだ。
「フライドポテトも見かけましたか」
「あぁ、あれ僕はあんまり好きじゃないな。やっぱり、はいからうどんのほうが美味しいよ」
「誰もうどんのことなんか聞いていないや。お姉さん、うどんは郵便局の方に売っていますよ」
「まあ、うどんが好きなんですね。あなた方は橋のこちらで玻璃玉を流すようになっているのですか」
 そう言うと弟の方が首を傾げる。兄の方が慌てて玻璃玉送りの招待状の紙を探し始めた。
「そうだ。今年は場所が決められているんでしたね。そうです、フライドポテトは橋の下でいつも売っていたはずなんです。今年も出ていれば同じ場所で売っていると思います。あっ、そうですね。僕らは関戸橋の方で流すようになっています」
「随分遠いですね。いつもはもっと近いでしょう?」
「そうだね。僕らいっつもは野球場の裏手あたりで流してるね」
「ああ。うん。そうですね」
「ねえ、お兄さん、お小遣いいくら」
「まだ千、ええっと八百円あるよ」
「うどんは買えそうだよね?」
「うん。うどんくらいは買えるって。でもご飯食べたばっかりじゃないか」
「じゃあ、半分こにしよう」
 兄弟は楽しそうに出店の話ばかりをしていた。やはりいつの時代も、子供にとってお祭りは出店が主役なのだろう。そうこうしているうちに是政橋の斜張橋梁が近づいて来た。
「私は橋の向こうで流すようになっているのでここでお別れです。お気をつけて行ってらっしゃい」
「ビール工場の脇ですか?あそこは山の火がよく見えて良いですよ。じゃあさよなら」
 浴衣の兄弟は点滅している歩行者信号を走って郵便局の方へ消えて行った。
橋の上には既にちらほらと人影が見えていた。うちわや扇子なんかを振りながら、彼らは川を眺めている。私は土手の遊歩道から橋の下へ降りて行った。すると、河川敷の脇にいくつか出店がでている。いなり寿司、うどん、かき氷、たこ焼き、フライドポテトなどが売っている。脇の土手に座って、川を眺めながら夕食を食べている。
 私は氷水のクーラーボックスから一本の瓶ラムネを取り、野球帽を目深に被った店主に値段を尋ねた。
「玻璃玉は買えたのか?」
 聞き覚えのある声で、顔を覗き込むとそれはあの八百屋の比留間老人であった。後ろにはあの深みどり色の玻璃玉が吊るされている。
「ええ。お陰様で」
「どれ、一つ見せてくれんか」
 私はカバンから例の桜色の玻璃玉を取り出して、彼に手渡した。
「なかなか綺麗なのを買ったな。流すのがさぞ楽しみだろう」
「ええ。二万もしたんです。玻璃玉ってなかなか値が張るんですね」
「二万もしたのか」
「ええ。高すぎるんますか」
「お前、高野の爺さんに騙されたんだ。高くっても二千円、三千円で買えるに決まっとるわ」
「来年からは騙されないようにしますね」と言いながら私はポケットから百十円出して、主人に渡した。
「屋台のジュースは普通の倍だろう。二百円とそこに買いておるだろう」
「ぼったくりではないですか」
「それがお祭りよ」
 私は仕方なく彼に二百円渡し、玻璃玉のお礼を言うと、次はフライドポテトのところへ並んだ。辺りには揚げ物の香りが漂っていた。明るい出店の電灯に目を取られているうちに、見る見る日は沈んでいき、気づけば辺りは藍を垂らしたように青くなっていた。
「玻璃玉は買えましたか」と声をかけられて振り返ると、後ろに昼間河川敷に座っていた三姉妹がいる。
「ええ、買えました」
 市民薄明の中でも彼女らは昼と同じくつばの広い麦わら帽子をかぶっていた。
「お昼も食べていましたね。お好きなのですか」
「ええ。揚げ物はやはり美味しいでしょう?」と黒いのが上品に口元を隠して笑った。
「確かに美味しいです。あなた方が食べていたのを見ていると無性に食べたくなりました」
 私は金を払いフライドポテトを受け取り、列の横から姉妹がフライドポテトを買っているのを眺めていた。彼女らは、各々ひとつずつフライドポテトを買い、金を払い私のところへ歩いてきた。
「もうすぐ流すのですか?」
「ううん、遅い時間、十時だったっけね」と赤い帽子をかぶっているのが言った。
「私も十時からです。橋の向こうになりますが」
「私たちはビール工場の隣よ」
「同じです。実は初めてなんです。教えてもらえますか?」
「構わないですけれど、火をつけて流すだけで大したことはないのよ」と黒いのが言った。彼女が美味しそうにフライドポテトを食べながら話す姿は、不思議と可愛らしかった。
 白い帽子をかぶったヨウコだけは一言も話さないでトコトコと後ろから付いてくる。私たちは斜面を上がって橋梁の上に上がった。時間は七時を少し過ぎた頃で、川面を見下ろすともう小さな灯りが一つ二つと上流から下っていた。
 夕方の自然光もすっかり消え、遠く秩父山地の影も滲まず、聖蹟桜ヶ丘の夜景だけが光る景色の中を、ぽつりぽつりとガラスの浮き玉が水面を滑ってくるのである。奇妙にも自然な景色であった。中にろうそくの明かりを抱えて、水面を僅かに照らしながら下りてくるのだ。その当然そうに流れてくる様が、不思議を私の胸を打つのである。
「あなた方は毎年こんな美しい景色を眺めているのですか?」
「ええ。当たり前のように眺めておりますよ」
「私は生まれてこの方、このように美しいものを見たことがありません」
「確かに、里でこんなに美しいものは珍しいかもしれませんね」
 そう言って黒い帽子を被った彼女は、高くとんがった鼻をふっふを鳴らして笑った。
「山や海では珍しくないですか?」
「ええ。里から離れれば離れるほどお祭りは光りますわ」
 私が欄干にもたれている横に黒い帽子、もう片方に白い帽子、黒い帽子の向こうに赤い帽子の女が並んで、フライドポテトを食べていた。大きな麦わら帽を被った三姉妹にせよ、次々に川面を下っていく蝋燭の入ったガラス玉も、現実離れした景色であるのだが、昼間に街を歩いて感じたような不気味で恐ろしい印象は全く感じられず、むしろこちらの方が正しい景色であるように見えるのである。話しているうちに、流れてくる玻璃玉の数は次第に増えていて、我々が玻璃玉を流す時間になった頃には、川面は煌びやか、また鮮やかになっていた。あの橋に近づく前に出会った中学生の兄弟の玻璃玉もどこかに流れていったのだろうか。
「昔はもっと賑やかだったんですよ」と黒い麦わらが言った。その隣で白い麦わらのヨウコは黙って、容器の底に残ったフライドポテトを流し込んでいた。底を叩く乾いた音だけが聞こえた。確かに静かだった。百名ほどが橋から玻璃玉の流れていく様を見つめていたが、その景色は哀愁に満ちているのである。水面の無数の明かりの強さが理由か、いつしか聖蹟桜ヶ丘の夜景も、府中崖線上のビル群の明かりも消えたように、辺りは真っ暗である。ただガラスと水面の反射の集合だけで景色は構成されているのである。
「とても美しいものですね」
 幾度となく私は彼女らに美しい美しいと呟き、また彼女らはその度に優しく私に頷き返すのである。世界は人工の光のない、深い闇の中に広がっていた。我々はその景色にうっとり酔いしれていた。人が川岸に降りていき、ぽっと炎が着き、玻璃玉は川へ送られていく。じっと眺めるでもなく、流し終わるとさっと土手へ上がっていく、また次が降りていく、そうしているうちにも上流から次々と玉は流れ下り、水面は覆われ移動していく。
 赤い麦わらが出し抜けに「そろそろ時間じゃないの」と言った。白いのが腕時計を覗いて頷いた。
「行きましょうか」
 黒い麦わらはぼそりと言うと歩き始めた。我々は玻璃玉のゆっくり流れる川を横目に橋を渡り、土手をしばらく歩いてビール工場の脇から川辺に降りた。四、五人が玻璃玉を流し、土手の上へ引き上げていった。
「意外と少ないものですね」
「上流から流れてくるものが美しいのよ」
「かなり上までいるんですか」
「それは奥多摩の方は当然のこと、秋川から谷地川の支流にまでいますよ。それがみんな集まって流れていくの。今日みたいに少し水量の多い日は川崎の方までたくさん浮いたまま流れて行くでしょうね」
「火をつけますか」
 そう言うと、彼女らは私の持っているライターで自分らの玻璃玉にロウソクを入れてやり方を見せてくれた。一言も喋らない白い麦わらが、意外にも親切に私に教えてくれた。彼女は私の玻璃玉には触れず、私の腕を持ったり、指を指したりしながら教えた。彼女の白く小さい手は異常に冷たかった。
 玻璃玉に火がつくと、私は姉妹の後をついて斜面を下り、水面のそばへ寄った。すぐそばを誰かの玻璃玉が流れていく。ガラスの模様が黒い水面に、幻灯のように映されて、回りながら流れていくのである。上から眺めている分にはそれぞれの玻璃玉についている色や模様を仔細に見ることはできなかったが、川岸から覗くとそれぞれが異なり、美しいことがわかる。水彩のように薄く色が入っただけのものもあれば、洋風の模様があるもの、単色のはっきりとしたもの、透明のものや、絵の具で上から売ったようなもの、様々である。それぞれが物語のように私の瞳に景色を映して流れ去っていくのだ。それは誰かの物語か、自分の物語か、時間の様子が流れているようで、こんな美しいものが煩悩なら人は川に流さないだろうと思えるのだ。
 私は初めて自分の桜色の玻璃玉を、中にロウソク灯った状態で眺めたのであるが、それはちらちらと美しく、夜桜が風のない中で静かに散っているように見える。ただ、その花びらは不思議な虹色に傾きごとに反射する。黒い麦わらが持っているのは夏の太陽の反射する青い水面のようで、赤いのが持っているのは空に透かした青々とした森のようだった。白い麦わらが持っているのは、銀色の吹雪が待っているような柄がつけられていた。
 私がうっとりしながら玻璃玉を眺めているうちに、彼女らは水面に降りて行き、もうさっさと玻璃玉を流してしまった。私は玻璃玉を流してしまうのが名残惜しかった。私はこの時間が終わってしまうのが惜しくて仕方がなかった。
「早よ流してしまい」と白い麦わらのヨウコが言った。
「寂しくないのですか」
「来年もあるわ」と言ってさっさと上がっていってしまった。私は川面に降りても、しばらくは玻璃玉を流してしまうことができないで、持ったまま、それを眺めていた。
「帰ってしまいますよ」と上から黒い麦わらの声が聞こえ、私は仕方なく、水面に玻璃玉を浮かべ、手を離した。あっと言う間に玻璃玉は岸を離れ、しばらくそこでくるくる回ったあと、ゆっくり川下へ流れていった。桜の花びらが強い風に散っていく、私の過去だろうか、恐ろしく寂しい心持ちであった。名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、土手へ上がった。
 三姉妹は扇子で首元を扇ぎながら、背後多摩丘陵を見上げていた。
「見て御覧なさい。美しいでしょう」
 見ると、山の斜面には無数の小さな炎が、玻璃玉送りに返事するように、ゆっくり揺れている。色とりどりの炎が、揺れたと思うと走り、跳ね、集まり、そして笑っているのである。
「それでは用があるので行きますわ」と黒いのが言った。もう赤い麦わらも白い麦わらも向こうへ歩いて行っている。
「あれは何ですか?」と私は尋ねた。私の隣でまだ丘の上の踊る炎を眺めていたヨウコが耳元で呟いた。
「オバケや」
 私は黙って彼女の表情を読もうとした。銀雪のように白いようこの頬は川面の炎で柔らかく紅潮していた。彼女は細く笑っていた。
「脅かしてはよくないでしょう」と黒いのが諌めた。
「そうは言っても、オバケでしょうが」とヨウコは笑った。
「ねえヨウコ、あれは何のオバケなんですか」
「私らや、あなたの昔が笑ってるんよ。あそこで尻尾を振って、笑ってるんよ。行ってしまったんではないのよ。あそこにおるのよ。私ら生きてるものの昔は、あそこでずっと見とるのよ」
 ヨウコはそう言って、私の腕をぎゅっと握った。静かに彼女の顔を見ると、笑いながら泣いている。黙って涙が頬を伝っている。
「昔のことはつらいのですか?」
「私らは今晩用事があるのでもう行きます」とヨウコは私の尻をポンと叩いて歩いて行った。
「どこへ行くのですか?」
「稲城の丘の方に親戚がいるのですよ。今晩はその家へ行って、食事と酒盛り、それにいとことお泊まり会なのですよ」と黒いのが笑った。
「楽しそうですね」
「ええ。また会えるかしらね」
「来年でしょう」
「そうですね。またどこかで会えば、話しかけてくださいね」
 黒い麦わらの彼女は歩いて行ってしまった。ちょこちょこと揺れながら遠ざかっていくヨウコの白い麦わら、後ろを歩く次女の赤い麦わら、小走りで妹たちに追いつこうと急ぐ黒い麦わら、私は彼女らの姿が遠く闇の中へ消えていくのを見つめていた。彼女らが消えてしまって、やがて稲城の里山に浮かんだ火だけが動いている。ヨウコ曰く、昔のオバケが笑っている炎である。
 私は橋へ上がり、欄干にもたれかかりながら、川を光が流れていくのを、私はひとりぽつねんと眺めていた。川には玻璃玉が、山には昔の火が、星のように光っていた。
 夢を見ているようだった。景色は現実の多摩川ではなく、色眼鏡を通して見た立体の歪んだ世界のように思えた。私は川を流れる明かりが、だんだん数えられるほどまで減ってしまうまで、川面を橋の上から見つめていた。一つ、二つ、その瞬間に、私の記憶と常識は現実に押し返された。
 自転車の音、車の行き交う音、原付が私の背後の車道で止まり、男が私に声をかけてきた。気が付いて見れば、それは私の家で昼寝をこいていたあの生臭坊主が、車道で原付を止めてぼけっと立っているのである。
「何を泣いているんだい?」
「いえ、玻璃玉が」
「なんだい、なんだい」
 坊主はそういって、車道の端に原付を停めたまま、柵をまたいでこちらへ入ってきた。
「あんなところに原付を停めたままで、平気ではないでしょう」
「大丈夫だよ。その玻璃玉とやらはまだ見えるのかい?」
「多分、ほらあの辺に」と私は指を差すが、その先には黒い夜の多摩川がにわかに市街地の光を反射させて、光っているばかりである。私は思わず見渡した。そこにあるのは、ただありふれた東京郊外の町なのだ。いつものように、川岸にはマンションが立ち並び、歩道にはランナーたちが行き交う。遠いのか近いのか分かり兼ねる聖蹟桜ヶ丘の夜景が正面にあり、振り返ると川崎登戸の街が遠くに、またその間には無数の工場の煙突があり、薄い煙をぼんやり照らし上げている。何もかも、すべて私が知っている、つまらない東京の景色にすぎない。ほんの短い時間のうちに、魔法のような印象は消えてしまった。当然山に火が笑っていることもない。
「何もないじゃあないか」と坊主はいった。
「いや、確かに川面にはろうそくの入ったガラス玉が流れていたし、あそこの丘には無数の炎が青や赤にちらちらと…」
 私は自分の記憶の中に先ほどまで見えていた幻の記憶は薄れ始め、私はやがて玻璃玉送りをしていたことすら朧げになっていこうとしているのに気づいた。あの麦わらをかぶった三姉妹や、フライドポテトやうどんの屋台なども、在ったことは全て理解しているが、鮮やかに思い返すことが徐々に出来なくなっていたのである。
「狐もみんな帰ってしまったんだろう」
「狐?」
 奥に見える鉄道の橋梁を、南武線の人工の光が音を立てて、流れていった。