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ハイパーバラード ハイパーバラード

 秋の深くなった土曜の昼間、ヒタキは高月の部屋で話し込んでいた。午後から彼女は中学校へ行くと言った。バレー部の練習をみないといけないらしく、もうジャージを着ていた。住み始めてから二カ月が過ぎ、大学時代に貯めこんでいた貯金が無くなり始めたのでやっとヒタキは仕事を始めた。やっと見つかった仕事は自転車で三十分のところにある漁港での早朝仕事だった。四時から重い荷物を運んで、昼前に図書館へ寄ってから帰ってくる日々が続いていた。初めのうちはカノエの喫茶店で働くことで話が進んでいたが、店主の婦人が一人で結構と言ったのでその話は無くなっていた。

 働いていないうちは毎日のようにヒタキはカノエと居た。ほとんど煙草を吸うか苺畑を観察しに行くかであったが、それだけでも一人で本を読んでいるよりは楽しかった。相変わらずカノエは病院へ通っていたし、夜中に気が狂って徘徊することもあったが、ヒタキといる間はそういった面倒全てに彼女は蓋をしていた。だいたい大丈夫かと聞かれても笑っているので、ヒタキはこれはどうしようもないと諦めていた。カノエもヒタキも同じ様なことで悩んでいたが、そこが決定的に違っていた。ヒタキはすぐに誰にでも弱音を吐いて、悪いときにはだらだらと酷い夢のなかにいるように苦しんだが、カノエの場合は完全に悩みらしいものをないがしろにしていた。蓋をするか遠くへ追いやるかで、彼女の鬱病は無意識に身体を動かすことで息をしていた。

 昼から二人は海に行き、釣りをした。キスを十匹も二十匹も釣ってバケツ一杯にして寮へ戻る途中に、ヒタキは試しに彼女へ忠告した。病気を腹の中に抱えて息をさせないでいると次第に身体が分裂して最後にはカノエというものはなくなってしまうぞ、と言うと、カノエは笑った。どうでもよくなるのならそれが良いと言った。帰ると二人でキスを全てフライにして皆で食べた。

 ぼんやり本を掲げたまま彼は起き続けていた。朝の四時から漁港へ行くのが続いたせいで日付の変わる時間に一日が始まることに慣れていた。尤も寮に住んでいる人間は皆何かしらを考えてその時間帯も、何かを直視するでもなく目を開いたままにしているのが多かった。やはりカノエは一時間おきに煙草を吸いに外のベンチに出てきていたし、向かいのソニの部屋の扉も時々開いては閉じていた。少なくとも彼らは生きていた、ただ何も考えず呼吸のみを行っている空間は心地よく、無理をせずとも慣性で流れ続けられるようにヒタキは感じていた。外の林の梢に時折強い風がぶつかり、死に遅れている蝉がチチチと音を立てながら落ちていくのが聞こえていた。本を伏せヒタキは起き上がるとベッドの端に腰掛けたが、それでも何をすべきなのかは判然とせず、壁の木目と作り付けの棚とを交互に睨みながら次第にそれが視界の中でぼやけて意識が手の上から零れていくのを覚えていた。カノエが外へふたふら歩いていくのが彼にはわかったが、わざわざ話に行く気にはなかなかなれず、ただ過ぎ去った時間を長く俯瞰していた。眠気は朝の遅い時間になるまでは来ないだろう、彼は諦めきっていた。用を足しに廊下から出ていくと、普段食事に使っている外のテーブルにソニが突っ伏して眠っていた。淡い紫の花が生けられた空き瓶とハサミが傍らに置かれていた。

 ヒタキは便所を出るとそのまま寮を出て、外の農地の間を歩いた。暑さにのぼせてばかりいる椿の生垣も、夜が深いので弛緩して楽にしていた。彼が煙草に火を点け行き先も考えず歩き回っていると、先の方で白い髪の女が用水に足を浸けている影が目に入った。ヒタキはすぐにあれがカノエであるということが分かったが、それでも夜中に薄暗がりのなか白い髪の女がぼんやりしているのを見るのは気味が悪かった。彼女の徘徊癖はひどく、時には遠くまで行ってしまうことが多かった。いつもカノエははっきりどこへ行っていかに歩いて戻ったかをいつも覚えていた、しかし最中には何も考えていないらしかった。カノエは他に考えることが多すぎるのだと言い訳をするように言うことが多かった。実際タカツキなどはカノエのそれを欠陥に思っていた。夜に出歩くぐらい普通だと彼女は言うが、それは明らかに分裂した状態での異常な歩きだった。そうなるような気持ちはヒタキにも分かったが、それでも支配しきれない意識を抱えるものとして、彼女が既に手後れなところにあると思うと同情などは出来なかった。死んでしまうと後になって思いだして、あれはどう歩いてどう死んだなどと言い訳をしても仕方がないのだった。静かに座り込み音のみになっている細い水面を見つめるカノエを視界に入れヒタキは通りすぎかけた。どうせ話しかけられても考え事を後回しにするようになるのだから彼女自身すっきりした気にならないだろうと彼は気を遣ったのだった。どうしたってあそこで狂う分には誰にも迷惑を掛けないだろうし、死にようだってなさそうに見える。彼女が自分に気づいているだろうかとヒタキは近づきながら考えた。道はまっすぐ子供の苺畑に沿って長く、すれ違わないで向こうに行くのはできなかった、彼女が考えるのを阻害され立ち上がってしまうだろうかと不安になりながらもしばらくは彼女の背中を後ろから見つめていた。ぬるい風、九月になってようやく涼しくなっていたそれに彼女の細く白い髪はぬるぬる動いており、そこからつながった細い首や痩せ細った躰は、人と言うよりも溝の壁に立てかけられた木の板や、引っ掛かって水滴に濡れる捨てられた野菜に近かった。考えすぎて自分が考えているかどうかさえ分からないようになった人が木や草により近いようなら、また寧ろそのような状態が元祖の生き物なのだろうし、放っておいても平気だろうと決めた。しばらく行くと二倍の幅の、夜でも時折車の通る道にあたるので、彼はそこを行って丘を上がろうとした。しばらくは彼女のことを忘れ、ただ涼しい空気に当たって無心で歩いていたが、あるところでやはり不安になり振り返った。カノエは変わらず月明りに白い髪を浮き上がらせていた。が、彼女の頭の向きは変っていた、カノエは無表情でヒタキのいる方を睨んでいた。ただゾッとしてヒタキはその顔を遠くから見つめようとしたが、暗いせいではっきりせず、動かないのもあって、ヒタキを見てはいるものの彼女が今も自分がそれを見ていることにきづいているわけではないのだと判った。コンクリートには跳ねられたカエルが薄っぺらく潰されて死んでいた、ハエがたかるほどの肉も持たない小さな奴が生きた跡だった。

 東海の低い丘陵地に生える木々はどれも大いに葉を下げており、その奥では野良猫が思い思いに目を緑に光らせ、黙ってヒタキが歩くのを睨んでいた。やはり蝉は時折飛んでは落ちた、間違えて泣き出す法師蝉があった。道の脇にはカノエの足をつけていたのと同じような流れの早い細い水路が走っており、急こう配のコンクリートの底面を削っていた。太平洋が近いのでここを流れたのが真水であるのは数日しかないのだろう、ヒタキがそう考えついた時にはもう何か物悲しい思いがしており、明けようとする東の空に向き直り元来た道を下り始めていた。眼下の街道を大きな音たてて走りゆく少年たちの単車が、いろいろな小さい環境の音に削られながらも丘の上にまで聞こえていた。淡い日の出前の水平線はまだ月明りほど明るくはなく、裸の土を晒している苺畑の角や、その向こうの病院の灰色の壁は、西から東へ光を減らしながら浮かんでいた。

 まだ薄明とも言わないような暗い景色にはまだ白い女の髪の形があった、ヒタキは彼女の首が俯いたままじっと景色となっているのを感じると同時に、景色全体が不変ではないのだとふつふつ自覚し思わず立ち止まった。彼はそばにあった駐車場付きの納屋の土地へ入り込んで蹲った。誰のものともしれないその空き地のような空間には買って敷かれた砂利があり、辛うじて丘より上にある月とまだ海より下にいる太陽のそれぞれの加減で瞬いて、パターンを作り彼を無差別に黒と同じ灰色で塗った。ヒタキはその砂利の面が脳より深いところへ立体の像で迫り、濃い色ごとに別れていくのを感じた、黄、緑、赤紫、光線のような残像はトラウマで、遠くで座り込んで半分水の中に溶けてしまっている、或いは溶け続けているようなあの白い髪の毛の女が結ばれて浮かんでいくのだった。

 ヒタキが思いだしていたのは高いところから物が落ちる音、その不気味に心地よい音であった。はっきし見たことはなかったが、高い煙突の上に立って物を落としながら耳を澄ませているあれはきっと緩く笑っている、どこかへ救いを求めている人は落下する様や、落ちたものが立てる音を限りなく回答に近いものとして認めていたのだ。気が済めば煙突から下りてきて優しく壊れたものを布で拭いて一か所に積み上げていくのだろう。誰も口にしない煙突の根際にうずたかく積もったガラクタの壊れた山はある人の信仰だった――そしてその残像はヒタキの脳裏で三色に別れ恐ろしくなっていくのだ。額に張り付いた前髪と瞼から垂れる汗、冷たく気味の悪い汗、それらがヒタキの目に入り、手で髪を押し上げても俯いているからにはまたすぐに垂れるので嘔吐の予感が湧き上がった。嘔吐の感覚が迫っていたのに立ち上がることができなかった、砂利を食うようにしているうちは吐き気は引かないだろうに、ヒタキは早く息をしながらうなだれている。細かく巻いている髪が首筋を冷やすせいで余計に怖かった。

 遠くで物が割れたり弾けたりする音が断続的に鳴り、ヒタキは瞳を閉じた。少しずつ初夏の夜を詰めていた薄い音の堆積を押し流してゆきながらその音は温かくなり、ヒタキは身体から温かい汗の流した。もう一つ息を吸い、彼は立ち上がった。老人が前におり、ドラム缶に物を放り込んでいた、炎が立っているのに老人は眉間に皺を寄せていた。眉間の皺の原因は煙が空に吸い込まれるまで白く美しく輝いているという事実だった。その老人はものを燃やし、燃えたものは風に掃かれながらも空へ上がっていく。それ自体が空を燃やしているようだった、老人はヒタキを見なかった。虫のように砂利に潰れた細い青年には干渉せず、ただものを燃やしている。ヒタキは状況の中で自分を観照し、終に歩くことを思い出した。燃えてはいなかったが、すぐだろうという気配の感じられる東の空へおりていく。カノエの白い頭は依然水路の脇にあり、それを見ながらヒタキは肩に手をかけてこちら側へ戻してやらないといけないなという気に迫られていた。しかし、すぐに海の方から乳が溶けて空の境界は色づき始めた、そのせいでカノエは顔を上げた、確かな距離を挟んでヒタキは彼女がその日の初めの光に気づいているのだと感慨深くなった。光と影の早い移り変わりの中で白い髪とオリーブのワンピースの輪郭はやがてまとまってゆき、点滅する一つの印のように脳の内の残像ではなく、外に在り始めていた。ヒタキが近づいた時には、カノエはもう立ち上がってこちらへ歩き始めていた。真っ赤に塗った口紅と切れ長の目が大きく横に広がっており、ヒタキは彼女が笑っているのだと気が付いた。ワンピースの長い裾は端で濡れて重くなっていたが風が軽くして持ち上げ、足取りも同じでカノエは跳ねるように坂を上がってきて、ヒタキに言った。高速道路の光の列が消えるのを見に丘の向こうへ行こうと。

 夜が明けてから眠ったのもあって、ヒタキが目を覚ますともう昼も遅い時間になっていた。日曜だがカノエは喫茶店に働きに行っているはずだった。天気が良いので表の庭へ出るとソニが座り込んで呆けていた。彼女は膝を抱え、顔いっぱいに太陽を受けていた。彼女は目を瞑って完全に静止していた。ヒタキは近づいてその顔をまじまじと見つめた、長い髪が数本ばらっと頬に掛かっていた。肌には疲れがあったが、光に当たると透けているように白かった。普段帽子を被ってばかりいるせいでヒタキは彼女の頭をまじまじと見たことなかった。太陽の光をすんと吸い込んだ黒い髪に包まれた彼女の頭蓋骨はいやに安定して見えた。カノエではこうも綺麗な頭ではないなとヒタキは思わず比べ、髪にしても正反対だった。くせ毛で雲のようになった白髪のおかっぱ頭で節操がないカノエと、黒い直毛を長く伸ばしたソニ、しかし二人はどこか似ているようにヒタキには思えた。気付かない間にヒタキはソニに思いのほか寄っていた。ヒタキの影が彼女のまぶたの上に落ち、ソニはゆっくり目を開けた。そして、何?と尋ねた。何をしているかと思って、とヒタキが言うと、彼女はひなたぼっこよと億劫そうに答えた。彼女は今から競馬を見に行くと言った。競馬場は遠いのでどこで見るのかと聞くと、カノエの喫茶店でみるのだという。大きなテレビで流しているのだという。馬券は隣に販売所があるのでそこで買う、テレビの前には大勢集まっていて一生懸命見るのよ、それにサンドイッチとコーヒーもかなり美味いし、と彼女は淡々と言った。感情が薄いなと心の内では思ったがヒタキは顔に出さないようにした。喫茶店を気に入っており、とても楽しみにしているような言葉面にも関わらず、つまらなさそうに言うので面白かった。ソニは聞かれない限り自分のことをべらべらと話す人では無かった。当たり障りのない方を何かと選び続けて内側で幸せに包まれている傾向にあった。ヒタキはそんな彼女を見て自分もこうなるべきなのだろうなと感心した。確かに口を開くとぶっきらぼうにもなるし、ずれたことを言うこともあったが、それでも外を気にしていないだけにけろっとしていた。カノエはしばしば彼女の気遣いのない捨てるような喋りに苦言を呈していたが、ヒタキはどちらにせよ同じ様なことになっているのだから、それなら少なくとも内では満ちている方がマシであるように見えた。

 そろそろ行くと言って彼女はリュックサック――子供の背負うような水色の物――を背負い立ち上がった。帽子を深く被って裏へ行き、自転車を押しながら出てきてヒタキに「来ないの?」と言った。行ってもいいかもしれない気がしたのでヒタキは急いで部屋から財布を取って来て自転車に乗った。天気は相変わらず良いままでで、見える限りでは雲はなさそうであった。ヒタキは自転車に跨ったが、ソニは乗りそうな気配がなく苺畑の間を押しながら歩いていた。急ぎはしないのかと聞くと、彼女は構わないのだと言った。三時頃からやるのが丁度いいし、慌てても失敗するだけと思う、と彼女は言った。ヒタキも何故か金が増えるような気がして仕方がなく、そうなると心が逸るので歩いていって鎮めるのも正しそうだと納得した。金は増えるのかと聞くと取り紙ばかりだという。どういうことかと聞いたら、買い目の中でもそれだけ当たっても損になる馬券のことを言うらしい。来る馬はわかっているのだと彼女は言った。ヒタキはふとこの人が仕事をしている気配ないことに思い当たった。坂になるとソニは自転車に跨り、曲がりくねった丘の道を一息にかけ下りた。風が下から吹き上がり彼女は片手で帽子を抑えた。足はペダルにかけられては居なかった。

 街を包んでいる森は若干の常夏らしく揺れていた、道の遠くは熱に揺らいでおり目に入る窓は全て開け放たれていた。駅の傍に自転車を停めてそこからソニは歩いた。ハンカチで汗を拭いながら彼女はヒタキを振り向くことなく歩いた。日曜は閑散としていた、急ぐ人は一人もおらず赤信号を待つ車も無かった。森の影では家族連れや老人が休み、川では子供が足を浸けて遊んでいた。ソニは花屋の前に並べられた鉢植えを覗いてポットを手に取って葉を見つめたりなどし、それからヒタキにこれはどうだ、と訊いた。何がですか?とヒタキは尋ねた。ソニは黙って花の方をヒタキの目に近づけた。青い花弁は外へ行くにつれ白くなり、縁は鋸状になっていた。六輪も咲いていたのでヒタキは良く咲いてますねと言った。うん、と頷きそれを左手に抱え、他の花を見始めた。青い花が多かった。これ買いなやとソニ鋸状の花びらの花のポットをヒタキに渡し、自分は外の自動販売機へ歩いていった。ヒタキは仕方なくその花を買った。ヤグルマギクと札が土に刺さっていた。

 不慣れに鉢植えを抱えて店を出ていくと、ソニは水を飲みながら待っていた。それでまずは場外馬券売り場へ入った。ヒタキは初めてだったのでとにかく彼女の真似をしてマークシートと鉛筆を取ってベンチに座った。彼女は眉間に皺を寄せながら、真剣に新聞を睨んでいた。そこには馬の名前が十か十五か並んでおり、横には色々な情報が羅列されていた。彼女は馬の横に丸や三角などの印をつけ、それからヒタキに見せて。どうやって選んだんですか?と訊くと彼女は愛着と勘だと言った。愛着なんかないですよ。お父さんはいる?と彼女は尋ねた。ヒタキは頷いた。名前は?ソニは鉛筆で新聞にヒタキの父親の名前を書き、頭文字のアルファベットを添えた。それで騎手の名前を見て、ほら名前が一緒でしょう、と二人ほど線を引いた。ピンと来る事があればそうしなさい、どうせ買わなきゃ後悔するだけ。と彼女は言った。それでヒタキは名前、ここのところの戦績、それから父の名前を直感で選び、一番好きなものに二重丸を付けた。それからソニに見せると、彼女は二重丸はダメよと言う。何故かと訊けばこんな馬、絡みっこないという。そして二重丸を二重線で消すと隣に星を書いた。それから彼女はヒタキにいくらほど賭けるのか、などと順々に尋ねてマークシートを塗った。十分後喫茶店で二人は数千円分の馬券を握りしめてテレビを睨んでいた。「あんたまでこうなったら終わりよ」とカノエがカウンターに肘をついてヒタキに言った。いいだろう、楽しそうなんだからとヒタキは言い返した。ソニはムッとしてカノエを睨んだが何も言わなかった。カノエはコーヒーを二人の前に置いた。

 ヒタキは窓から手を伸ばし、物干し紐に下着をかけていた。シャツがめくれ薄く白い肌に細い窓のサッシが食い込んでおり、ほのかに彼の腕は震えていた。洗濯を干す音が聞こえたのか隣の窓が開き、タカツキがしかめ面をひょこりと出してヒタキを見つめた。うるさくって眠れないと彼女は言った。ヒタキは謝ったが、タカツキ自身は言葉ほど気にしていたわけではないようで、むしろ謝られたことに対して恥ずかしそうにした。低い仕切りを跨いで外に出てきて彼女は柵に腰掛け、夜に似合う長く黒い脚をふらふら揺らしながらヒタキが洗濯を干すのを眺め始めた。どうせ眠れないから煩いのよ。彼女はヒタキに煙草を取って外へ出てくるよう言った。よくあることだった。彼女は中学校で教えに行く時に着るジャージの他では、黒いショートパンツに黒いTシャツ以外の服を一つも持っていなかった。なかなか合わないらしく、一度男の服を試しては見たが、大きければいいのではないという。体がすんとして合わない、と干してあるヒタキの白いTシャツを触りながら言った。ヒタキは干し終えると枕元のテーブルから煙草を取って窓を越えた。男と比べればヒタキは小柄な方で、タカツキと並んでいると子供のように見えた。アフリカ系のタカツキの深く黒い肌は夜に似合ったが、反対に月のない夜に部屋から漏れた明かりを受けてヒタキは間違って置いていかれたよう浮いていた。寮の北側、つまり裏の庭は狭くあまり手入れもされておらず、カノエとヒタキが煙草を吸うための石机、その周りに四つの石の椅子、あとはもう林になっていた。庭とベランダを仕切る柵にもたれてタカツキは空を見上げた。見上げると一段と彼女の背丈は大きく見える。雲一つ見えない暗い夜で、タカツキの吐き出した息も空へ限りなく上がった。彼女の言っていたことをヒタキは思いだした、カノエは死にかけている。ヒタキも今ではそのことを理解していた。彼らはその死にそうになっている白髪の女、ほとんど少女について話した。心配していたのではなかった、ただ気の毒に思っていたのだ。カノエは精神的にぶれ続けている状態が四六時中続いており、その荒波に息苦しくしている状態に何年もあるにも関わらず慣れず開き直らず、むせ返り全身を強張らせていた。上下の同時に起こり続けている生活について彼女が語ることはなかったが、輪郭さえ半透明に点滅しているのだから誰の目にも明らかであった。しかしタカツキは言った、彼女の今の状態を否定することの方がかえって残酷にみえるのだ、と。ヒタキには多かれ少なかれ彼女の言うことを理解することができた。彼はぶれ続けて不安定な状態を捨ててまともぶっている部類で、だますことに成功しているか、開き直っていると言うべきか、実情は変わらないのだった。今となってはヒタキも友人の死に関しても開き直っていた。カノエに関しては騙し損なっている、それはヒタキには問題に見えていた。彼女は自分の心が落ちている時にも人の前では強がり大人ぶり、気丈であろうとした。誰かの前で彼女は自分が弱っていることを認めず、その瞬間常に自分自身を否定し続けていた。痛々しいのだった。心から青黒い血が流れ落ち続けているのをじっと見つめているのと同じだった。皆で集まってテーブルを囲み、夕食を食べているときなどカノエは率先し料理をよそい、気を遣い洗い物までした。が、突然泣き出して驚かせる。それも自分が悲しくなったせいではなかった、青砥の飼っていた小さなヤモリが死んだ時、ソニの病気が悪くなった時、ヒタキが両親との確執を話した時、彼女が涙を流したのはいずれも誰かの悲しみに必要以上に肩入れし耐え切れなくなった時だった。そんな彼女を見るとヒタキはただ吐きそうなくらい哀しくなりどうして良いかわからなくなるのだ。タカツキも同じように感じていた。しかし彼女をそっとしておくのも良いことでないのは自明で、我々は彼女のバランスを取ろうと試みる様子を出来る限りゼロ距離で見守る他なかった。少なくとも彼らはカノエを愛していた、助けてやる術を持っていないとしても、確かに彼女を愛していたのだ。

「僕はまた友人を失うのですか?」

「それなら引き止めるだけの幸せを彼女に見せてあげることができるのかしら、嘘は最低よ。騙されてまで生きる価値はないわ、彼女は今だって苦しいんだから」

 高月はどこか諦めているように見えた。ヒタキは幾度となく友人を引き止められないことを悔いたはずだった、しかし今のカノエに対してやり直す手段を提示することができないのだった。少なくともヒタキは彼女に生きていてほしいと思っていた、いくら苦しくてもいつか幸せになれると言うつもりはなかった。確かにそれはまるっきりの嘘なのだ。それでもヒタキは彼女に死なないで欲しかった。高月も同じには違いなかった。しかし方法を見つけられるようには思えなかった。ヒタキは自分をも騙して生きている、そう思うと悲しみが湧き起こった。どうして本当に苦しいことを忘れて生きていかなければならないのか、友人が死んだ悲しみを乗り越えることは、悲しみを忘れることだった。友人の悲しみを忘れることは、彼の悲しみに蓋をして生きていくことだった。それが正しい生き方にはヒタキには思えなかった。しかし生きて行こうとすると、その喪失に向き合い続けることはできない。

「高月さんはもし、カノエが死んでしまったらどうするのですか」

「悲しんで前へ進むのよ、それは簡単なことではないわ。けれど、私たちはそういうことに向き合っていかなければならないの。仕方がないことなのよ。時には、大人になろうとすれば時にはね、自分の手に負えないことは諦めなければならない」

「僕はそんなのなら大人になりたくはないです」

「そんなこと言ってもあなたは死なないでしょう?大人になりたくないのなら死ぬしかないのよ。あなたがねいくらそんな風に言っても、同情して共感して叫んでいるような顔をしていたって、実際あなたはどうにかして生きているんだから。それ自体が裏切りよ。なら、開き直らないと、死んだお友達だって哀しいわ」

「本当にそうなんですか」

「本当よ」

「どうしても嫌です」

「あなたに何ができるというの」

「少なくとももう諦めたくはありません」

「じゃあ何ができるの、身勝手なことを言わないのよ」

 高月はいつしか怒っていた。彼女の声は震えており、ヒタキは泣き出していた。

「いいんです、僕は生きます。嘘でも本当でもなんでも構いません。それでも僕は足掻きます。何度も何度も同じことはできません。きっともう誰かを騙しなんてしません」

「嘘ね。」

 ある満月の晩であった。夜中であるにも関わらず、外から断続的に物が地面にぶつかって壊れる音が聞こえていた。カノエの白いおかっぱ頭がヒタキの脳裏には浮かんだ。彼女の苛立ったような眉、ハの字になって笑う眉、あらゆる瞳、笑う頬、怒った眉間の皺、風呂上りに髪を上げたせいで彼女を間抜けに見せる額、くっきりとしているものの薄い唇、ヒタキはストロボのように様々なカノエの表情が脳裏に浮かんでは変わっていくのを感じていた。音のなるたびに何かが壊れ、彼女の表情が変わった。起きてはいたが電気を消しており、何でもないように見える現実の視覚が黒く塗られているので恐ろしい心持ちだった。布団に入り、外から聞こえる乾いた音に耳を澄ませていた。眠ってしまいたかったが音は止まらなかった、また少しの間収まったと思っても、頭蓋骨の中を木霊して完全に抜け切ることはない。やがてその音の鳴り続けることに慣れてしまい、彼は完全に瞳を瞑った。聞こえ続けているにも関わらず消えた音の向こうにあった風に揺られる木の葉の音が彼を寝かしつけていた。二、三十分ほどして目を覚ますと音は止まっていた。窓を開けていたせいでヒタキの身体は少し冷えていた。自分が何かから目を背けていたような気になってヒタキはゾッとした。青い顔で立ち上がった。音は止んでいた。温かくないのが得意ではないヒタキにしては最低気温十五度は寒い方だった。彼は起き上がり窓を閉め、それから部屋を出て便所へ向かった。物の落ちる音を待ちながら彼は歩いた。

 煙突の上に立ち、茫然と物が落ちるのは昼か朝であった。半年ほどこの寮に住んだ間で、ヒタキの知る限り夜中に音が聞こえたことは一度もなかった。ヒタキは用を足しながら、外をバッタの仲間が鳴き回っているのを聞き、便所の上に開いた隙間から月明りが入っているのを漠然と見つめていた。彼女が何もないような顔をして便所に入って来て、元気な時のように与太話を始めるといいのに、と彼は想像していた。当然短い時間にトイレで鉢合わすことはなく、彼は水道でゆっくり手を洗っていた。扉の向こうには異常なほど明るい銀色の月が庭の芝を染めており、やけにくっきり一枚一枚の葉とそれが作る影が分かれていた。蛇口をきつく締め、水滴を落としていると、風を切り物が落ちた。それは地面にぶつかり音を立てた。普段落ちていくものに比べて大きく固くないものが落ちたようにヒタキは感じた。小さく角ばったものが地面に落ちて砕けるのが普段の落下のはずだった。

 ヒタキはゆっくり便所を出て煙突の方へ歩いた。煙突の上に人影はなく、中の階段からも音がしなかった。落ちたものが山になっている場所に回り込むと、そこには明るすぎる月が差していた。そしてカノエが落ちて、壊れていた。そこにカノエが死んでいるのを見てヒタキはため息を吐いた。

 自分を突き落としてしまったからには、自分で拾って丁寧に仕上げることも叶わないだろう。カノエは目を閉じており、これまで誰にも見せたことがない程に静かな表情をしていた。いつもイライラしていたのだな、困っていのだな、とヒタキは知っていたにも関わらず、今になって気づいたような気になった。身勝手な同情の存在に隠れて見えなかった事実がひとつひとつ浮かんでは振り払われた。ひとりごとを言いながらヒタキは彼女の前に胡坐をかいた。カノエの手足は緩んで力を抜いているようで異常なほどに幸せそうに見えた。彼は煙突を見上げた。二十七メートルの高い煉瓦の煙突の更に高いところに、巨大に光るほら穴のような満月があった。完全な夜に空を飛びたくなる気持ちをヒタキは理解した。自分の体中の筋肉が緩んでいくのをヒタキは覚えた。星も見えないほどの満月であった。仰向けて四肢を大きく開いて止まっている彼女の姿は今も飛んでいた瞬間を覚えているようで、白いワンピースの裾についた銀のフリルも羽か何かに見えた。ヒタキは落下したそれを拾い、共用の机に腰掛けて濡らしたてぬぐいで拭くことにした。壊したものを拭くのに使うカノエの朝焼け色のてぬぐいは、洗い場の上にわたされたロープにその日も吊られていた。蛇口から出る水は一年で最も冷たい日を過ぎて温かさを予感させた。

 ヒタキは壊れたものを丁寧に一通り拭いて、元の場所に戻した。何故か彼は感慨深くなり立ち尽くしていた。月の影が彼女を覆っているのを気の毒に思い、ヒタキは光線から一歩避けた。果たして彼女はゆっくりと瞳を開き、その水面には落ちこんだ月がゆらゆらと流されずに揺れた。立ち上がった彼女はいつものように高速道路を見に行こうと言い、背中に着いた芝のかけらを払った。ヒタキは安心し頷き、寮の庭を横切りふたりは畑の間を走るまっすぐの農道を歩き出した。当てはめるのであれば冬だった、現に畑には苺が葉を生い茂らせ、陰で月明りを避けるように苺の真赤な実が垂れていた。夜明けはまだ先で月明りだけが道を示していた、丘の上へ向かう道はまっすぐで寂しかったが、ヒタキとカノエは愉快にそれを踏んで前へ行っていた。時折カノエは肩を回し、その度にぽきぽきと関節が鳴った。カノエははっきり目を開いていた、彼女は正気だった。棄てたのか、とヒタキに聞かれ彼女は眉をしかめながら頷いた。丘の頂上へ行くと、細い散歩道を十分程度下り、高速が張り付いている斜面に出た。トラックや大型バイクが心地よい間隔で音を唱えながら過ぎ、高架の振動は近く聞こえた。ランプの列に照らされる途方もなく長い、障害のない道は視界の向こうに点になるまで走っていき、やがて見えなくなった。明日野球あんねんけど一緒に行かへん?とカノエは柵にもたれて訊いた。ヒタキは頷いた。遠くないだろう?彼女は頷いた。外野がぼろくてええねん、と彼女は煙草の煙を吐いた。

 私を野球場へ連れてって、観客席で叫ばせて、とカノエは歌いながら駅から球場までの長い道を歩いていた。めちゃくちゃビールを飲もう、と彼女は言った。

 球場の外の芝生で何本も煙草を灰にして夕暮れを眺めた、アナウンスが聞こえ出したのでヒタキとカノエは首からタオルを下げてゲートをくぐった。階段を上ると、壁の向こうから歓声が聞こえ始め、やがて歓声とも判らないほどの純粋な大きな音として彼等の前に――夕焼け空にも負けないナイター照明、スタンドを覆いつくす観客、野次、緑の芝、バットを振るタテジマの黒いヘルメットも照らされて鋭く反射していた。アナウンスに合わせて、ベンチからトリコロールのユニフォームを来た野手が飛び出しポジションへ向かう、胸を高鳴らせていた。