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サンシャワーシンドローム 18

日没の

 二日にいっぺんはリンカーの部屋にいくようになっていた。彼は自分の部屋にいる時間、ほとんど裸で暮らしていた。カモシカのように美しく滑らかな身体に汗を浮かべ筋肉を鍛える彼の横で僕は本を読んだ。コンドミニアムの高層階の窓からは地面とは比べられない涼しい風が通った。身体を見るとこの端麗な男は何とも俗というものから一本外れているようだった。そして窓の下には対照として広い大学のキャンパスが広がっており、屋台や研究所の光がぽつぽつ光っていた。そこに人の生活があるのが、こう高く離れると一層身近に感じられるのだった。リンカーは長く滑らかな黒髪を掻き揚げて冷水で顔を洗い、僕の隣に座って水を飲んだ。水を飲むと正面の壁――コンクリートの打ちっぱなしにテニスボールを投げつけながら話した。他人には過度な期待をした方がいい、と。突き放されてみろ、お前は初めて人間を知るだろう。もう十分に他人には拒絶されているよ――いいや、違うお前は逃げている。こんな馬鹿げたところにいると自分が消えてしまうぞ。

 彼は全ての方面から自身を否定しているようだった。芸術から俗世界の臭さを抜いて仕舞えば、それはものに他ならない、芸術には人の匂いが魂として宿らなければならない、洗い流してしまうと二度と帰らない、俺みたいに、自分以外のもののみを語るだけのものになってしまうと悲しいだろう。俺は最高の絵描きにはなり得ないと思う。何か俺の手で美しく完成されたものが生まれるとするだろう、しかしそれは俺の中での完璧にすぎない、その上、俺の完璧とはこの世界の偏りのない完璧、すなわち見下ろせばこの地面を覆っているもののに過ぎないのだ。限定された状態で自我にコントロールされて作られたものが人の芸術だ、そこにエゴがなければそれはこの美しい星の一欠片に過ぎない。手を伸ばせば誰にだって触れられるようなものを作っても仕方がないのだ。彼はため息をついた。

 火星に行って絵を売ればどうだ?

 それもそうかもしれない。ここに実在するものを超えて行くことが芸術を作ることなのではないのか?――イチロウ、君は理解していない――ここで生まれる芸術は引き算だ、全ての美しいものは完全である地球から何かを引いたものに過ぎない。

 あれを見ろ――彼の指差す大きな窓の先には北の地平線があり、ドンムアンから発った旅客機が浮き上がり、光を点滅させながら――そうだ、美しいだろう?あれが人の作ったものだ。全体に囚われ、諦めてしまった人間にはあれを生むことはできないのだ、何故だと思う?――飛行機など作らずとも、ここには美しい雲や鳥たちが在るからです。そうだ。しかし飛べない我々が人臭い欲を膨らませれば鉄塊も空を飛ぶ。限定された欲求こそが魔法を産むんだ。人臭くなければ、何もかもこの地面の断片に過ぎない。

 リンかーはイーゼルに掛けられた膜をとり払った。美しい女の絵、写実的、笑えない彼女の唇――俺は笑わなかった彼女のことしか知らない。また、人臭さのないせいで、彼女が笑う姿を想像することができない、笑顔を描くと途端に彼女ではなくなる、「人」の笑いに変質し、彼女自身が消失する。君に人臭さがあれば彼女は笑っただろうな、想像などせずとも。リンカーの肌からは匂いがせず、汗からも塩の味がしなかった。