大仙古墳は相変わらず静かで、現代文明からはっきりと分断されている。遠くで魚の跳ねる音がする。魚の姿が見えなくても、水面には波紋が広がっている。これは紛れもない現実なのだ。波の向こうには大きな墳墓がある。とてもただの墓にはみえない。千年以上過ぎて古墳は湖面から隆起した島のようだ。
アメコはクリル諸島にある成層火山を思い出した。その島には外輪山に囲まれたカルデラ湖がある。その湖の中央には富士山型の火山が浮かんでいる。いつか一郎が彼女にその山の写真を見せたことがあった。何かの間違いで大金持ちになったら、一番にそこへ行きたい。一緒に行こうよ、と一郎はそうアメコに写真を見せたのだ。その写真を見た瞬間に彼女は稲妻に打たれたよう、あの景色に惚れたはずだった。彼女もその島にいつか行きたいと願った。だが、彼女は今日までその感動を思い出す瞬間はなかった。
大仙古墳の荘厳さには、どこかオンネコタン島の写真に通ずるものがあったのだろう、鮮烈な印象は唐突に彼女の中に蘇った。記憶、行ったことのない島の写真を見た時の強烈な記憶はどこへ消えていたのだろうか。彼女の脳の底にはそんな記憶が他にも眠っているのかもしれない。一郎はクリル諸島に行きたいと二人で話したことを最後まで覚えていただろうか、アメコはそんなことを思いながら歩いていた。
大人になったアメコは曇った暗い部分から目を背けずにいることができた。彼女は暗く曇った空から目を背けず、なおかつ晴れ間に夢中になり、そして河童に出会う日を愉快に思えるのだ。河童と話して面白くなっている自分にも面白くなって、彼女は笑った。河童に一緒に行こうと誘われ二つ返事でスキップで支度しに戻っているのだ。どこへ行くかも尋ねずに。
彼女は不安を隠そうとむりにそうしているわけではない。真っ当な感情でないとすれば正気を失っていたというのが最も近いだろう。マラソンや麻薬で体内にカンナビノイドが作用する、それに伴う陶酔感や恍惚感に似たものだった。曇った冷たい空の下、二十三歳の女はスキップをしながら大仙古墳で笑っている。
彼女は答えに片手をかけたも同然なのだ、笑おうがスキップしようが彼女の心の向くままが良いかもしれない。リュックサックを背負ってラルの元へ戻ると、彼も釣り具を片付け終えたところだった。
「ナマズどうするの?」
「飼うのさ」
河童のラルがどこで魚を飼うのか知らないが、彼女はこれからそこへ行くのだろう。ラルはビクを背負って歩き始めた。彼は周濠に沿って歩き、おもむろに林へ入った。そこには一本の巨大な樹があった。彼女は植物に詳しくはないが、外にあれば樹齢何百年と立札があってもおかしくないということだけは分かった。もし、一郎がいれば木の名前も教えてくれたかもしれない。ラルはその木の根元にある洞に手を入れて、所謂入り口を開くためのカラクリを触っている。
「ロシアにも河童はいるの?」
「さあ、どうだろうね。僕らは海を渡れないんだ。いるかもしれないね。北海道には昔居たって聞くよ。今もいるだろうけど、最近は誰も来ないね」
彼がそういう傍から、木の根元の土が割れ、蟻地獄のように口を開いた。そこには巨木の根に支えられた大きな洞窟があった。
「そんな恐ろしい顔をしなくても、落ちても平気だし根っこに掴まれるようになってる」
ラルがそう言うのを、アメコは最後まで聞くことができなかった。奥が竪穴になっており、彼女は足を滑らせてそのまま落っこちてしまったのだ。根っこに掴まる暇もなければ、落ちても平気だと自分に言い聞かせる暇もなかった。彼女は二階の高さから、柔らかい砂に背中から落ちた。根に掴まって降りてきたラルは、クルル、ルルと笑っている。
「これってひどいよ」とアメコはお尻を払いながら立ち上がった。洞穴は真っ暗だった。河童の目には何か見えるのだろうか。
暗闇の中、ラルの歩く足音が聞こえる。ひったひったという独特な音は、壁際まで動いて止まった。彼女に壁は見えなかったが、音の反響で突き当たりにラルがいることがわかる。そして同時に、この洞穴がとてつもなく大きなものだろうとアメコは推測した。 軽く壁を撫でるラルが見えたのは、その壁が突然光を放ち始めたから出会った。ラルに撫でられるて、壁が青白く光っているらしい。光っているのは植物、どうやら苔の仲間のようだが、ラルに与えられた刺激をきっかけに自ら光を発しているように見える。その植物は壁にびっしりと生えているらしく、隣へ隣へとゆっくりと発光が広がっていく。砂地の地面は銀色で、ぼんやり苔の発色を反射させている。もっとも、ラルはこの景色を見るのも慣れているらしく、苔の遅い発光に待ちくたびれ、地面の砂を一握り投げた。バラバラと周囲に飛び散った砂の接触で、壁一面の苔がぼんやりと光り始めた。そして、発光せずに真っ暗な穴がぽっかりと正面に口を開いているのを見て、アメコはこの洞穴から伸びる一本の地下道の存在を知った。ラルは彼女にゆっくりと見物する暇を与えずひったひったと横穴に入っていく。その地下道は車道一車線ほどの幅で、高さは歩道橋と同じくらいである。天井が高いこのトンネルは下り坂になっている。道は徐々に照らされていき、発光の速さも早まっていき、遂に横道は彼女の視覚の手に負えないほど遠くまで伸びていった。天井からは古墳の周濠から水が染み込んでいるらしく、時折雫が彼女の腕や肩に落ちる。砂地の地面も程よく湿っており、彼女は波打ち際の砂浜に似た心地よさを感じつつ裸足で歩いた。地面に落ちる雫は音もなく砂に吸い取られていく。
「十分も歩いたら停車場につく。そこからは列車でいく」とラルは言った。アメコは返事もせず、ただ神秘的な地下道に見惚れながら黙々と歩いていた。
道の突き当たりに生い茂った蔦のような青い植物をアメコは知っていた。それは三石の廃煉瓦工場の地下にあった道の突き当たりと全く同じものだ。慣れた様子でラルがその水草のような青い植物を突くと、それはゆっくりとうねりながら、開き、その向こうにぼんやりと赤色をした地下の世界が姿を見せた。
そこには河童たちの利用する停車場があった。尤も、堺の地下にはほとんど河童は住んでいないらしく、その列車路線は日本のローカル路線のようだった。人はもちろん、河童も一人もいないホームにラルとアメコは立っていた。そこにはアメコの読めない文字で書かれた古い木の看板がある。駅名だろう。線路の上の天井は目視できる高さになかった。ただ中空に雪洞のような灯りが浮かんでいる。それは桃のような、ピンクともヤマブキともつかない暖かみのある色で線路とホームを照らしている。
遠くの暗闇から他の河童が見ているのではないかとアメコは少し不安を感じた。しばらくすると列車が地上のものと同じようにガタンゴトンと音を立ててやってきた。中には停車場の上と同じような桃のような色の照明が灯っているが、乗車して初めて彼女はそれがかずらの仲間の植物の実から発されている光なのだと知った。どうやら車内にも人っ子一人いないようだ。運転手や車掌の姿もない。二人が座席につくと、列車はすぐに走り始めた。停車場を出ると灯りはなくなり、少しの間は彼女も窓から外の景色を眺めていた。遠い夜空に浮かぶ星雲のような暗闇に見惚れ、彼女はすぐに眠ってしまった。