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2563年の四月、ソンクランでお祭り騒ぎのチャイヤプーム中心街に、僕とホタルは二人で出かけた。二人でお揃いのカラフルなシャツ、青地に大きな花柄の入った賑やかなシャツを、冷たい水で濡らして歩いた。子供や若者が皆嬉しそうに水をかけあっていた。
通り過ぎるピックアップはどれも荷台に大量の若者と、水の入ったクーラーボックスと、ビール瓶の段ボールを載せていた。しかし、僕たち二人は水をかけ返さず、かけられるまま、ずぶ濡れになるまま、ただ気持ちよくなって歩いていた。
濡れた髪を掻き上げ、天を仰ぎ、猛暑季の太陽を浴びて、したたる水はソンクランの冷水か、自らの汗かと考えながら歩くんだ。タイ王国を代表する二つのお祭り、ソンクランとロイクラトンは太陽と月だとホタルは言った。ソンクランは一番暑い時期のお昼に騒ぐ、動の催しで、ロイクラトンは年に一度満月の夜に厳かに流す、静の催しだと言った。僕は感心して頷くと、彼女は大げさだと笑った。
僕はノートに彼女の言葉を書き留めながら、大げさじゃないよと首を振って、一緒に笑った。昼間から大騒ぎをする一週間は良い。水鉄砲を皆にお見舞いする悪ガキたちの、得意げな笑顔を見る、僕は平和な気持ちになる。
町のスーパーマーケットでも、コンビニでも、至る所に水鉄砲やら、携帯電話を入れるナイロンのケースや、ゴーグルやらが売られている。彼女はゴーグルを買った。あまり防水の効能のなさそうな、サングラス型の紅いプラスチックのゴーグルだった。
「どうしてこれ買うの?あまり水を防げなさそうだけれど」
彼女は僕にも同じものを一つ買い物かごに入れた。
「可愛いんだから、いいでしょ?」
しかし、ホタルは水鉄砲の方には一度も向かず、そこにそれがないように通り過ぎた。ソンクランらしく花柄の派手なシャツと半ズボンで出てきて、可愛らしいゴーグルまで買って、彼女はソンクランそのものが嫌いなようには見えない。しかし、水鉄砲を手に取るくらいはあってもいいと思ったが、僕は結局どうして水鉄砲に触れなかったのかを聞くことはなかった。
正直、僕は他の若者たちに混ざって水をかけあいたくなくもないとは思っていた。しかしまあ提案するほどのことには思えなかった。店でコップを買って、その他、部屋の不足した必需品、調味料などを買い足して、僕たちは店を出た。
市場のクイッティアオ麺の屋台へ行き、ソンクランで皆が騒いでいる通りから少し離れた、比較的静かになっているタラートの机でのんびり食べる。僕は黄色のバミー麺を、彼女は透明のセンレック麺をいつも頼む。心なしか彼女の頼むセンレックの方が健康そうに見える。
「そろそろ村まで戻ろっか」
僕らは立ち上がり、どこかへ停めたモーターサイクルの紫色を探して歩き始めた。一瞬ホタルは果物のジュースを売っている屋台の前で足を止めたが、考え直したか、すぐに歩いて過ぎた。僕はきょろきょろと人の少ない市場を眺めて、マーキーの向こうに見える木々を眺め、公園か寺院か学校かのどれかだろうなと思ったりなどしていた。
「あなたって俳句好き?」
「さあ、うん。まあ。好きなのかな。また読んでみないとわからないな」
「日本人じゃないけれど私、すごくあれが好きよ。日本語が分かれば、どれほどよかったか?俳句を母国語で理解できたのか、と思うと日本人が羨ましい、それくらい素敵」
「お気に入りは?」
「私が知ってるのは英訳。日本語で心に聞かせてあげて」
a ray of the light penetrating clouds
silver grasses never sway
僕はすかさずそれをノートにメモしようとする。突然、辻から現れた少年たちに水をかけられる。僕が驚くのを見て、彼らは大喜びだ。僕は笑って追いかけるフリをする。すると彼らは、水鉄砲を持っていない僕を返り討ちにする。ノートを濡らしてしまった。
ずぶ濡れで戻ると、彼女は笑って、僕の左肩に両手を載せ、耳にキスをした。
「ダイヤモンドのように綺麗な耳ね」と彼女は言う。
さっき買い物をしたナイロン袋から彼女は僕にガラスのコップと油性のマジックを出して僕に渡した。僕は彼女にノートを渡すと、彼女は買ったばかりのタオルでそれを拭いて、ナイロン袋の口を縛った。
「このコップとマジックは?」
「ノートの代わり。ねえ、書いてよ。日本語でさっきの俳句を書いてよ」
僕は自分が記憶を失う以前に好きだったであろうその俳句を、すらすらとガラスのコップに書いた。
すぐに彼女はそのコップを取り、お日様に透かして眺め、うっとりした。そして、空いた方の手で僕の手を掴んで言った。
「読んで。日本語で聞かせて、私の心に」
彼女は隣でまっすぐに僕の顔を見つめている。僕は前を向いたまま、彼女が引く手に身を委ね、目を瞑った。そして、その俳句を読み上げた。
「ひとすぢのひかり雲をつらぬき芒そよがず」
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帰り道、ガソリンスタンドのアマゾンコーヒーに寄ってコーヒーを買う。そして、この間蝶を見に行った山の近所、あの国立公園の森に行った。ツチグリをくれた農家がここで取って来たと言っていたのだ。
モーターサイクルを置いて、地元の住民が使うような細い道から国立公園内へ無断で立ち入った。実際、森林内での農業が地元の住民にはある程度許されており、その森林資源の採集、持続可能な範囲での焼き畑も含めて行われていた。もちろん、森を一番大切にしているのが現地の住民であることを、学者はある程度知っている。だから制限付きではあるもののそのようなことが許されているらしい。ツチグリがどんなところで採れるのか、僕が気になったから彼女はここに僕を連れてきてくれたのだ。道中で、噛み烟草の木が生えた畑もあった。
歩きながら、彼女は鼻歌でこの間と同じ歌を歌っていた。とても美しいと僕は思った。親しみがあるのはその曲を僕が昔から知っていたからなのか、それとも、知らなくても馴染むような曲であるからなのか。
山に囲まれ、彼女はところどころ、知っている植物を見かけると、その植物の使い方を僕に教えてくれる。彼女はカレンなのだ。
「あなたって、前会ったときコーヒー飲まなかったよ、確か」
「何飲んでたっけ?」
「さあ、紅茶を飲んでいるのと、ペプシコーラを飲んでいるのは、見た。覚えてるわ。けど、チャイェンは飲まなかったね。お茶は好きでも、お砂糖はダメだったのよ」
「そうだね。コーヒーも、お砂糖が入ってると飲めない」
「どうして飲めるようになったの。練習した?」
「どうなんだろう。ね、ソンクランが来たけど、雨季はまだ先だよね?」
「全然先だけど、どうして?」
「雨が降り始めると外を歩き回るのもできなくなるかと思って。乾季が終わる前に、旅に出ようかなと思ったんだ」
「そうかも。そろそろ、あなたは歩きにいかないといけないよね。知ることはもっとたくさんあるもの。私とだけいてもダメだわ」
彼女はさっきまで、ツチグリを探し地面にうつむいて話していたが、ふっと、見上げた。僕もその方を見ると、樹冠の向こうにいつの間にやら曇った空があり、彼女の顔を見ると同じような時に、その表情は言葉になっていた。
「淋しいわ」
風を吹貸せるように、彼女はゆっくりと、深く長く息を使い、呟いた。そして諦めるように深く息を吸い込んだ。
「でも、そのうち戻ってきてくれるでしょ?私、あなたが旅に出かけなければならないって知っていたもの。平気よ」
そう言って、静かにコーヒーを飲んだ。喉を通る音がやけに大きく聞こえた。
「そんなに、淋しい?」
「うん」
「そうか」
山の上の方へ見晴らしを求めあがるでもなく、夕日を待つでもなく、僕は休耕地に倒れた木の幹に座って、寄り添っていた。そして、コーヒーをすっかり飲んでしまうと、また明るい顔をして山道を降り、モーターサイクルで村へ戻った。
翌日、僕は旅に出た。