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烟、烟、烟、あー、烟の他には何もない、とホタルが言った。
彼女はわざとらしく顔をしかめて、その顔を僕が覗きこむと吹き出すように笑った。僕たちはおでこがぶつかるくらい窓に顔を近づけて、バスから外の景色を眺めていた。そこには焼き畑の森があり、大きな烟が空を目指して上がっていた。
「邪悪だと思う?」と僕は言った。
彼女はいいえと言った。
「でも、烟って何がどう転んでもどこか寂しいわ。消えていくのか、って」
「確かに、寂しさそのもののよう。でも不思議と暗い気持ちにはならないよね。烟は万人に平等な寂しさだ。なんだか、消えて無くなったことは悲しいし、なくならない方が安心できる、それでもどこか悔いの感じない、不思議な寂しさだ」
「私もそういう風に消えたいな。ねえ、どうして人は寂しいか知ってる?」
「わからないな」
「きっと、だから今のあなたは前より幸せなの。ずっと前のあなたはね、ただそこに在る、それ以外に言いようのない何もかもに対して理由ばっかり考えてたの。理由なんてないのよ。寂しいから寂しい、人だから人、それだけ。どうして私たちはみんな寂しいとかつらいとか思わないといけないんだ?とかそんなこと考えててもどこっちゃいけないんだから。良かったわね。あなたは幸せになるわ。これは予感。必要のない予感、しかし必ず現実になる予感」
「どうして寂しいの」
「ばかなことを聞くのね。私だけよ、そんな話してくれるの。あのね、人は死ぬのを怖がるからそう思うの。死への恐怖は変化への恐怖。何だって永遠に続きはしないのに、人はそれを求めるわ。変化は必ず起こるもの。仕方ないのよ。だから耐えたりなんかしないでいいのよ。昔のあなたは、しがみつくことなんてないのに、掴もうとしたの。そしたらどうなるか、あなたは溺れるの。死ぬわよ?そう、死んだのよ」
「僕は本当に死んだの?」
「そうよ。あなたはもはや流される必要もなくなっちゃった。私も同じ」
「どういうこと?」
「おかえり、この世へ」
「どういうこと?」
「考えちゃダメ、蘇った人、覚めた人、おはよう、あなたはまた太陽の下に帰ったの、それだけだよ。おかえり。あなたはまた肺で、呼吸し、その足で歩くの。水の流れではひれを持つ、えらで息をして、空気を心配しない」
「何?」
「それがあらゆるあなた、新しいあなたなの。あなたは本当のものを感じるの、本当に、本当の意味で、世界のあらゆるものを知るの」
バスは未舗装のでこぼこ道を行く。メコンを逸れ、パクオウ川に沿って北上する。この景色を寂寥と呼ぶのなら、このまるで五十メートル下からの飛沫が匂うほどに荒い川の流れ、僕たちに覆いかぶさるように聳えている剥き出しのライム岩の山、脇道に飛び出して車を見つめるカモシカ、これらの全ての世界が変わりゆく宿命の一瞬の写真に過ぎないのなら、これこそが至上の美しさだった。
僕たちは美しい時間を、取り返しのつかないほど美しい時間を生きているのだ。そして駆け抜けた日々を振り返り、僕たちは微笑むだろう。巻きなおせない時間の中に、僕たちは何かを失っただろうか?全ての時間は僕たちの中にあり、その時間すらも手に負えない重力を抱えて回転し、変化し続け、僕と君とあなたと私をめぐり合わせ、世界に押し付け、未来に突き出しているに違いない。
「君は水を超えた存在よ。水さえも超越して、流れに逆らえるとすれば、そうすれば魚は源を目指すわ。あなたは頂きに還るわ」