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最後、僕とホタルは丘の上にいた。そこから美しい夕日を眺めていた。彼女はポケットから烟草を出し火をつけ、言った。
「さよならを言うときが来たね」
「どうして?」
「あなたがここにいた季節は私とのものだったわ。でも本当の時間じゃなかったの。この長い季節はあなたに必要な、現実でない日々だったの。あなたが見つめている女は幽霊なの」
「私とあなたが初めて会った日。あなたは19歳で私は23歳だった」
「どうして君は僕をこの丘へ連れて来たの」
「だってあなたが夕日を見たいと言ったんだもの」
彼女の言葉は何か物語の美しい一節のようだった。僕はその彼女の言葉が好きだった。今僕は後悔を感じなかったた。僕は何も覚えていないが、失われた記憶はもう僕のすぐそばに来ている。そう言うと彼女は「そう、それが良いのよ」と言った。
「私は永遠に忘れなかった。あなたと一緒に居た時間を忘れた時なんてなかった」
「ごめんね」
「いいのよ、私はあなたのおかげで海を見ることができたわ、あなたが人は皆海に向かって行くと教えてくれたから」
「今も思うよ。人は水なんだろ?」
「私たちの生は川の上にあるってあなたは言ってたわ。私たちの命は水を漂ってるって。どうしてあなたはそんな美しい智慧に思いあたったの?私すっごく納得したわ。私の命は水にあるって思うと、何もわからないものなんてなかった」
僕は彼女のもたれているチークの木を見上げた。枝の隙間には青紫色の空が覗いている。
「でも、私は早く河口に辿りついてしまったらしくって。海の見えるところで働き始めて、毎日なんだか淋しかったわ。私が生きている意味、川の水になって海を目指してた意味って何だろうと考えて、頬杖ついて来る日も来る日も夕日を眺めていた。海は広くって、涙の味、川は冷たくて清い、水はどちらに居るのが好きなんだろう?イチロウ君、あなたはどうして生きていたの?」
きっと、記憶を失う前、僕は生きてなどいなかったのだ。川の水は小石を、砂を、海へと運ぶが、僕は何も運んでなかった。どうしても僕にはそれが生だとは考えづらかった。
「わからないよ。だって思うんだ。僕はもう死んでいる、川じゃないだろう?」
「氷河の通った後にあるのは何もない、土と岩だけしかない、新しい場所よ。そこに苔が蒸して、草が生え、林になり、森になるの。全く新しいあなただけの世界、あなたはもう何かに惑わされることない。あなたが世界を押しつぶして、美しく再生するの」
「僕がどうやって?」
僕は、鮮やかな風を見た。風は斜面に植えられた陸稲の穂を揺らし、目に見えなくともそこにあることを僕に教える。風はヘイジーな夕暮れを踊っているのだ。彼女は何も言わずしばらく遠くを見つめ、黙って烟草を吸っていた。
「早く、自分の水を取り返さないと」彼女が再び口を開いた時、風はもう止んでいた。彼女の吐く紫の烟はゆっくりと漂っている。
「一緒に来てくれる?」
ホタルは微笑んで言った。
「もういないの、終わったのよ。海に行く日が来たと分かった時に」
「いつ」
「あなたがこっちに戻る少し前よ」
「どういうことなのか分からないよ」
「もう海が怖くなくなった時、ううん、まだ怖いわ。海の怖さを認めた時、私はとても満足していた、気持ちが良くて、何も怖くないような気がして、生きてきたなかで最も美しいひとときだった」
「苦しくなかったの?」
「覚えていないの。私は夢を見ていたから。キラキラした砂浜で、シーグラスとか、貝殻とかを見て、拾って砂粒の一つ一つを太陽に透かしていたら、人が歩いてくる音、砂を踏む音が聞こえてね、それがあなただったの」
彼女の頬に強く朱い夕陽が差していた。美しく染まった彼女の横顔に僕は見惚れていた。風はいつしか静まり、彼女の吐いた紫の煙はゆっくり漂っていた。
「行かなきゃ」
「待って、どこへ?」
彼女の横顔は一点を見つめている。
「違うわ、あなたが行かないといけないの。私はどこにも行かない。私の魂はあなたの魂の影なんだもの。私はあなたがいるから見えるの。あなたにだけ私は見えるんだ。ねえ、私知ってる」
「何?」
「あなたのことを待ってる人がいるわ。世界に戻る時が来たの」
僕は彼女の見つめる一点を探した、そこには金色に輝くメコンと、沈みかけた太陽があった。彼女の烟が静かに僕を撫でていく。
「ねえ、あそこに近づけば、虹色の波が、この世の全ての色が水面にあると思わない?」と僕は彼女に尋ねた。振り向くと強い風が僕の方へ吹いた。もう烟は消えていた。僕はフランツ・マルクのことを思い出しながら川へ向き直り、再び歩き始めた。