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ある日、早朝に干上がった貯水池を眺め考えていた。人が一生のうちに知ることはこの世界の何割なのだろうかと。この池ではティラピアも飼えないだろう。米が買えない、塩が買えない、という時代はここの村では終わったのだろうが、半分は海を知らない人だった。バラマンディを食ったこともないのだろう。ティラピアとかナマズしか食べずに死んでいくのか?何も海の魚の方が美味しいと思っているんじゃないけれども、知らないで死んでしまうのも面白くないような気がする。この泥水が三十センチ残っているかどうかの池で彼らは十分な酸素を得られているのか?そんなことはない。
この間もお婆さんが言っていた。ダムでもあれば楽なんだけれどね、と。都会の連中は、ダムという言葉を聞けば環境を破壊すると言って怒るらしいが、ならば田舎で水が足りないと困っていることもある人がいるとは知っているのだろうか?
知らないでいるということが生きるということなのかな?人が一生のうちに知ることは世界の海の一つの小さな砂浜くらいで、実際に経験することなんて両手に掬える砂粒の数程度しかないんじゃないかな。一掴みの砂を知って、小さな砂浜で海を眺めて死んでいくのか?それはちっぽけなことだけれど、寂しいか、悲しいか、僕にはわかりかねる。
昨晩、僕はホタルに窓にかけてある貝殻の風鈴についてふと尋ねた。彼女は海を見たのだという。四年前に初めて僕と会った時、彼女は海を見たことがなかったらしい。しかし、その後、あのウドンタニのホテルをやめて、南部のアンダマン海に浮かぶ島へ引っ越し、そこにあるホテルで働き始めたそうだ。二十七歳の彼女はそこで初めて海を見つめ、そして貝殻の風鈴を買って帰ったという。
どうしてイサーンに戻って来たのかと尋ねると、海を見て、自分が何も知らないこと、この世界の広さ、手に負えないことを知ったからだとホタルは言った。
皆がいずれ、知れないという事実にぶつかるのだ。しかし彼女は少なくとも海を知った。
「海は広かったわ。クジラやらもあそこでなら生きられるよ、そりゃあ。でも私には無理ね。どうしていいかさっぱり知れない。水平線に赤い太陽が落ちていくのを見ると途方にくれるの。ここいらと違って烟や霧がないの。はっきり、くっきりと、沈んでいってしまうの。あの太陽、ぼんやりせず、くっきり輪郭なんかも見えて、私は二年間、毎日あそこで、溜め息だか、うっとり漏らした息だか、よくわからない深いのをだらだら漏らして、いくつも夕日を見送って、いくつもきらきらした波を迎えたの。もう満足して、私は水平線にさよならを言った」
「怖かったのよ」
何をも掴もうとせず、全てを手放し、水も流れて行くままにしてしまって、堰を切って、自らも少ない水と一緒に自由に流れていこうとすれば、僕は何かを知ろうとするのではなく、全てがそこにあると認める、またはそこに何もないことを認める、自分自身も、この世界も、繋がった一つの形のない、つかめない、蒸発すると見ることすらできない、しかし確実にある、水のようなものだと認めることができたら、僕が記憶を残せないこと、何もかも忘れてしまうことに意味を見いだせるかもしれない。いや、意味なんてない、ただ、何もかもがここに、そこに、あると思うだけ。
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「マークはあるかい?」と聞くとジジイは立って葉っぱとマークの実を持って戻って来た。君もすっかりマークを気に入ったなと、嬉しそうだ。もう自分でできるだろう、と言い、実を砕かないで例のペンチのようなハサミを渡して来た。
僕はマーク椰子の実を砕きながらジジイに言った。
「爺さんがガキの頃は何が違ったんだい?」
彼は五秒間物思いに沈み、やがて浮き上がって来た言葉を連ねた。
「今も昔も悪いことなんて何もないよ。同じようなものが同じようなものに変わっただけだ。ただ、思い出は美しい」彼は烟草を巻き終えると、烟を吐きながら、ふらふらと散歩へ行ってしまった。僕はひとり、マークを噛みながら、真剣に、長生きしたいと考えた。