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-CANDY- Love Will Tear Us Apart 7章

(2018/03/07)

 タイに留学した初めの日々、多少の不安や悩みを抱えながらも僕はまだ前向きに暮らしていた。楽天的な日々が終わったのは仲のいい交換留学生の友人が日本に帰ってしまった後だった。

一人になってもしばらくはうまくやれていた。タイ人の友達も少なからずいたし、生活に困らない程度のタイ語は話せた。でも、そのせいで僕は、自分が一人で何でもできるように勘違いしてしまったらしいんだ。眠ることができない日々が続いてやっと、僕は自分が弱い人間なのだと気づいた。

 タイ人の友人はいずれも、僕がこれまでに持ったどの日本の友人とも性質が違っていた。タイ人の友人たちから何かを得ることはできても、僕は彼らに得たものを共有することができなかった。彼らの側へ行くことはどうしてもできず、常に僕たちはお互いを異質の興味深い他人と見ることしかできなかった。人は、それはそれで面白いじゃないと思うかもしれないけど、僕は気づかないうちに疲れていたんだ。知らないものに出会っても感動のはけ口を見つけられず、そのまま放っておくと脳は徐々に熱を持ち始めるんだ。眠って次の日になってもその熱は残る。やがて眠れなくなってしまう。僕は気づけば、興奮とも放心とも取れる記憶に残らない時間に巻き込まれていた。

 これまで、人は精神を病むと耐えきれずに自殺するものだとばかり思っていたんだけど、僕の場合はそうではなかった。僕はわけのわからない時間の繰り返し、何もない感情に飲み込まれた時、自分が生きているように思えなくなってしまったんだ。生きたままに死んでいたんだ。思い描いていた死をありのままに味わっていた。頭の中で僕は死を味わっているようだったけれど、実際の身体は死の世界を歩いているわけでは当然なく、ただ一人暮らしの部屋でクリーム色に塗られたコンクリート壁を見つめ続けていた。死への恐怖は消えた。

 何か用事があって壁を眺め続けるのをやめたとしても、大した救済もなかった。ふと高いところに立ったとき、鋭いナイフで鉛筆を削るとき、地下鉄のプラットホームに立つとき、そこから垣間見える死に手を伸ばしてしそうな自分を見つけた。ふと気づかぬうちに手を伸ばしている。死に親近感を覚え、また一線を越える際に起こる最後の刺激に希望を感じた。無感覚の連続にふと現れる、死の恐怖や痛みに好奇心を覚えることにも次第に驚かなくなった。

 何とか自分が正常でないことに気づけたことは幸いだった。僕はそう気づいた日に、大学の事務所へ行き、休学をする手続きをした。日本に帰り、故郷の田舎町で療養するか、旅でもしようと考えた。まだ二十二歳なのだ。苦しみ続けず、甘えて許されるのではないかと思ったんだ。

愛媛の実家で一ヶ月ほど休み、それから京都の友人の家に居候してアルバイトをすることに決めた。京都の友人の家に入ると彼は留守だった、机の上にノートを広げて僕は再び日記をつけることにした。僕は漠然と、だが確かに、これから救われるような気がしたから。

 電車で居合わせた高校生の女の子、彼女は時折僕の方を見る以外はほとんどうつむいて本を読んでいた。僕は彼女のその佇まいに何か特別な、とても素晴らしくて仕方ないものを見ていた。彼女はその何か啓示的な、紺の制服にグリーンのリボンを締めていた。ぶれない意思のある立ち姿に僕はもう見惚れてしまっていた。その色白の顔に僕は何かを求めていた。何か、きっと変化だ、僕の人生を変えてくれる何かを求めていた。でも、そこあるのは控えめな目鼻だけで、彼女はうつむきがちに本を読んでいる。背は普通よりちょっと高いけど高すぎはしない。高校のカバンを、梅雨の予感にほんのり赤みを帯びた細い足の間にほうり出している。そして時々、周りを見渡すような顔をして僕の様子を伺っている。

 僕も本を読んでいた。それで、顔こそはページを睨んでいるけれど、横目に彼女の姿が見える。シルエットだけで存在感がある。彼女は僕の斜向かいにある列車の扉の脇にもたれかかっている。席はいくつでも空いている田舎の路線なのに、まあ通学の数駅でわざわざ座るのは大人っぽくないわ、とでも言いたげで、年のわりに大人ぶっている様子の、まだ自覚のないお釈迦様なんだ。でも、そう見えたって見も知らぬ僕に願いを叶えてあげましょう、と歩いてくるはずもなく、そんなことをするようなものなら、彼女は本物の御釈迦様ということになってしまい兼ねないから。でも、あろうことか、本当に、彼女は僕に歩み寄った。僕は一瞬信じられず、顔をあげ、彼女の顔を見つめたんだ。すると目があった。彼女はとても慈愛に溢れた顔をしてらしゃったよ、本当に。

 それはちょうど、側を見たら翡翠色の蓮の上に、蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居りますわ、と言った調子の顔なんだ。そういう風に僕を見下ろしていた。彼女は、その銀色の糸をそっと手に取って、玉のような白蓮の間から、遥か下、僕のいる地獄の底へ、その糸をまっすぐに下ろすように、静かに僕の隣に座った。

 僕らはほんの二駅分しか乗り合わせてなかったことになるんだけれど、それが出会いだった。

「あなた面白い見た目してるわね」彼女が最初に発したのはこの、あまりにも拍子抜けする一言だったんだ。どう見てもまだ十代なんだ。

「そうかな」

「あなた私が好きでしょう?私、あなたに、何と無く惹かれるの。また会う機会があるといいんだけど。私ね、サリンジャー読んでる人は疑わないことにしてるのよ」

 彼女は急いで用件を述べている電話番のようで、あたふたしているもんだから僕は笑ってしまった。間も無く電車が相生に着くとアナウンスを聞いて、彼女は急いで制服の胸ポケットからペンを出した。ボールペンをカチカチ言わせながら、何か書くものはないかと慌てているようだから、僕は黙って、読んでいたナインストーリーズの裏表紙をめくって差し出した。

「君は何の本読んでるの?」

「楡の木の欲望」

 彼女はケータイ電話の番号を書いて立ち上がった。顔を真っ赤にして、カバンを持つと、僕に本を返した。僕の持っているナインストーリーズの裏には、今も彼女の番号があるよ。数字は電車の停車の振動で歪んでいる。立ち上がった彼女の顔はすごく明るく見えた、それでにっこり頷いた。

「仲良くしような」と僕はペンを持っている彼女左手を握った。彼女はひどく手汗をかいており、恥ずかしそうに一瞬だけ握り引っ込めた。彼女は小さく「うん」とだけ言った。

 ニッと笑って彼女は電車を降りていった。歩道橋上がって改札へ行く彼女の後ろ姿を眺めてたけど、彼女は一回もこっちを振り向かなかった。電車が進み始めてからも僕は彼女のことが頭を離れないから、本なんかは膝の上に伏せて景色を眺めてた。

 例によって、こうやってカジュアルに運命的な親友に出会うことはあるんだ。すれ違いざまに知り合えるなんてことはなかなかないことだけれど、こういう不思議なことは数年に一度あって、そういうことが起こったら最後、それはかけがえのない親友になる。僕の場合は、まだその出会いが恋愛だったことはないけれどね。みんな親友になった。きっと、運命の恋人も、出会い方はこんな感じなんだろうと思う。

 僕はその前の運命の出会いのこともすっかり鮮明に覚えてる。タイでイサーンを旅行しているときに起こった。移動とかはこういう出会いが生まれやすいんじゃないかな。あの時僕は健康だったけれど、今はぼろぼろのぐしゃぐし。いろんなことが起こったなって思う。僕自身を構成しているあれこれも数年のうちにごっそり入れ替わっていた。僕は少し歳をとったんだんだと思う。

 夜になって、僕は公衆電話から早速彼女に電話をかけてみた。彼女のことが気になって仕方がなかったんだ。電話にはすぐ出てくれたんだけど、喋りはしなかった。だから仕方なくこっちから自己紹介をした。無理もないね、彼女は誰からかかったか分からないんだ。

「もしもし、お昼に電車であったロン毛の人だよ。覚えてる?」

「うん。もちろん。それ公衆電話でしょ?どうして? 私あの緑の箱、入ったこともない。携帯電話は」

「持ってるは持ってるけど、ワイファイがないと使えないんだよね。今時、電話番号なんかなくても困らないじゃん」

 彼女はクールを装った風に「まあ、そうか」と短く返した。

「だから、電話番号を紙に書いてよこしてきた時多少驚いた。ねえ、自己紹介をしよう」

「砂藤アメコ。周りでそう呼んでる人はいないけど、私はアメちゃんって呼ばれたいな」

「アメちゃん、初めまして。僕は川崎。川崎一郎。なんて呼んでもいいよ」

「イチロウ君、何だか、アプリじゃなくって番号で電話するって素敵じゃない?」

「確かに、そうだよね。公衆電話から女の子に電話をかけるのは九十年代みたいだ」

「九十年代ねえ。私が知らない時代」

「親世代の青春時代じゃない?今アメちゃんって何歳なの」

「十八歳。まだ、高校三年生なんだよ。羨ましいでしょ」

「春に生まれたんだ、素敵」

「そう春生まれ。十七の割には大人びてない?」

「高校生にしてはそうかも」

「何してる人? 大学生?」

「大学生だけど、今色々あって大学には行ってない」

「今どこにいるの?」彼女は必死で話しているようだった。何を話していいかわからないという様子だ。

「京都」

「そっか、なんで大学行ってないの?」

「最近毎日つらくってさ」

「だから、私、イチロウ君を見つけたんだよ。きっとそうよ。私あなたを救う為に生まれてきたんだから」

 僕は何が、だから、なのか全く見当もつかないでいたから、十円玉の落ちるとが聞こえて安心した。僕は電話機の上に重ねた十円玉を一つ入れた。緑の公衆電話器からカチャンと音が鳴って、ボックスの壁に音は吸い込まれていった。

「今ので一分になるのか」彼女はしばらく黙っていた。僕が話すのを待っているんじゃないってことがなんとなくわかったから、僕は黙って彼女が話し始めるのを待っていた。

「ねえ、イチロウ君、私、今近所の公園で電話してて。ごろんとして空を見上げて。私の目には空しか見えないの。月の下には雲が動いてる。でもね、私にはそうは見えてないみたい」

僕は電話ボックスの暗いガラスから空を覗いてみた。すっかりまん丸の月、雲ひとつない澄んだ闇の中で光っていた。でこぼこ模様の輪郭まではっきり見えていた。

「アメちゃんには何に見えてる?」

「水の上を流れているみたいなの」

「うん」

「動いているのは月なの。月は丸い船。私たちは深い水の底から波を見上げてて、雲が波、地球は底。どうしても、私たちは泳いでって月の船にタッチすることはできない。月は水面を滑って行って、素敵。ずっとこうやって外の世界を眺めて、憧れて、誰も月になんて行けはしないのに」

「空を飛ぶように泳ぎ回れると楽しいだろうね」

「危ないのかしら」

「どうなんだろう」

「うん。あ、私そろそろおうちに帰ろうかと思う。宿題だって残ってるし。金曜の夜また電話して欲しい。じゃあね」

僕は「またね」と言って受話器をかけて電話ボックスから出た。月が僕を強く引っ張っている、僕は水底で溺れかけているのだろうか、少し恐ろしい気持ちになった。