彼は名をレ・キンという。町で一番大きな通りが坂になるちょうど手前にあるアパルトマンの二階に住んでいた。丘側の端から二つ目の窓が彼の部屋だった。坂を上る労力あるいは路面電車に乗る金よりも高い場所からの眺望を選ぶ人は丘の上に居を構えたが、レ・キンはそうでなかった。彼には毎日歩いて坂を上るだけの体力もなければ、電車に払うだけの金の余裕もなかった。決して貧しいというわけではない。電車に払うのなら代わりに一つ枇杷を食べる方が面白いというだけの話だ。尤も、金や体力があり余っていたとしても、彼は丘の上には住まなかったかもしれない。通りが坂に変わりのぼっていきながら細くなる様を眺めることが彼の喜びの一つだった。ベランダから雚見ヶ丘(カンミガオカ)の上へ続く坂を見ては、次の週末は涼みにでも行こうかしらと考えた。ただ、彼が自ら思い立ってその坂を登ることはなかった。
雚見ヶ丘は町の東にある。西には海が見えた。大通りを二十分も歩けば霧川埠頭に着く。彼のアパルトマンから朝日は見えないが、夕日はよく見えた。夕日は彼がこのアパルトマンを選んだ理由の一つだったが、週末の他にそれを見る機会は少ない。彼は平日の午後のほとんどを海のそばで過ごしていた。
埠頭から霧川大橋を渡り、海岸線を北へ三十分歩いたところに彼が通う場所がある。それは霧打ちと呼ばれる細長い岬の途中にあった。作業場、アトリエ、工房といったものに近かったが、そのように目的に沿って名前が付けられることはなく、ただ海風の巣(ウミカゼノス)と呼ばれていた。海風の吹いてくる方角へ進めば辿り着くからである。海風の巣は霧打ち岬の山と海の境にあった。海風の巣より向こうでは山が波打ち際から直にせり上がっていた。
その日もレ・キンは昼前に海風の巣に入って仕事をしていた。ここのところぼうっとしてしまう傾向があるようで、男が扉を開けて入ってきた時にもレ・キンは煮詰まり始める予感に気を散らせていた。
「おい、暇な奴いるならパン屋へこれ持ってってくれないか?」
彼は振り向かないまま手を挙げ軽く振り、声をかけたワイ・トゥレという男に合図した。彼はレ・キンの机まで来て、紙の包みを置いた。
「ワイ・ト、最近はよく顔を出すね。今日は配達かね」
「今晩の夕食に間に合うように頼まれてる、別に急がなくて良いよ。この間渡した仕事のこともあるしな」
「あれもほとんど考えはしたけど、どうだかね」
この地域で人の名は、前の名前と後の名前に別れている。そして、その始めの一、二文字ずつを合わせた愛称で彼らは互いを呼び合う。
「だいたい十分ぐらいで出れる、三角辻橋のパン屋?」
「そうあのパン屋だ」
ワイ・トゥレは五十くらいの体躯の良い男で、この町からそれほど遠くない沖合にある那々紙(ナナガミ)という島で硝子を作っている。よく日焼けした赤い肌、たくましい腕は漁師を思い起こさせる。彼が硝子作りよりも釣りに時間を費やしているのも事実である。だが皆は、彼自身が硝子職人を名乗る限り彼を硝子職人のワイ・トゥレと呼んだ。彼の住む那々紙島ではこの町に比べ、愛称を前後の名前から一文字ずつだけ取ってつけることが多かったが、何故彼はワ・トでは無くワイ・トなのか、それはワイ・トゥレの生まれた時近所にワエ・トーケデという老人が住んでおり、彼が既にワ・トと呼ばれていたからだという。彼にとってこの由縁は非常に愛着深いものであるらしく、ワイ・トゥレは新しい場所へ行き初めて会った人にワ・ト呼ばれる度に、必ず自分の愛称がワ・トではなくワイ・トであることとその理由を説明をする。彼はその度に自分が十三歳だった頃に死んでしまったワエ・トーデケを思い出す。屈強な見た目とは裏腹に些細な思い出を大切にする人柄を目の当たりにすると、知り合う人は皆ワイ・トゥレに親しみを覚え、慕った。
「まあ、一回明後日にでも見せてくれよ」
「わかった。あの仕事、どうにもはまらないんだ。ところでこの包みは何が入ってるの?」
「コップさ。パン屋のお母さんがテーブルにお盆を置こうとしたら、そこにテーブルがなかったんだってな、二ヶ月前の話。それでせっかく家族でお揃いで使ってたコップが全部パーになったらしい。娘の誕生日がもうすぐだからどうせならって、新しいのを注文しないで今日まで二ヶ月粘ったんだと」
難しい顔をしてノートを睨んでいるレ・キンの背中でワイ・トゥレは笑いそうになりながら話した。
「誕生日か。もう十九でしょう。まだ家族でお祝いをしているのか」
「めっきり進んでないみたいじゃないか、そろそろお昼にしたらどうだ」
「いいけど、人に配達を頼むなんて、これから何かあるの?」レ・キンはそう言いながらも、依然としてペンを忙しく動かしていた。
「一時から島の裏のサンダル工場の奴らが船を出すって言うからさ、せっかくだから一緒に行こうと思ってね。まあ、パン屋んところへ行っても、どうせレ・ニは今いないからおめでとうを言える訳じゃないし、それなら知らない魚を釣りに行きたいだろう?」
ずっと夏ばかりのこの場所でサンダル工場は年中忙しかった。そんなサンダル工場の仲間が休みをとったのだから、ワイ・トゥレもコップを運んでいる場合ではないのだ。
「そうなのね」
レ・キンはちょうど今書いたばかりの一節に横線を引くと、ノートを閉じた。「配達は任せて。埠頭まで一緒に行こうか」レ・キンは机の上の紙をまとめて背負い鞄に入れ、扇風機を止めた。そして五時までには戻るから帰る時も窓は閉めないで、と仲間に言い海風の巣を出た。
海風の巣というだけあってここらは町で一番良い海風を飲める場所だった。海風がおいしいとはつまり魚もよく釣れるということだ。ワイ・トゥレの硝子工房と海風の巣には直接の繋がりはなかったのだが、何年か前に彼が裏の防波堤が良い釣り場であると気づき、その時に偶然交流が生まれたのだった。ワイ・トゥレは用のない日でも、陸へ来たらわざわざ竿を担いで歩いて海風の巣まで来た。釣りに飽きたら、「ちょっと休憩がてら」と言い茶を飲みに海風の巣に入ってきては、日暮れまで話し込んで釣り具を一式忘れて帰るのだ。
ワイ・トゥレは海際スレスレを、魚を探しながら霧打ちの道を埠頭へ歩いた。海風の巣の裏手には人の背より高い堤防があったのだが、霧打ちの海岸沿いは町に近づくまで護岸すらされておらず、道を歩きながらでも足元の磯を眺めることができた。
「ワイ・トゥレはこの町が何と呼ばれているか知っている? 僕らはいつもただ町としか呼ばないでしょう」
他所から来る人が町の特徴を見て土地に名をつける。生まれ育ったものは知ろうとしない限り地名を知らないままであることが多かった。若ければ若いほど土地の名を知っているものは少なくなる。殊にこの町は外との交流も少なく、町を訪れるのはほほろびの多島海からの商人ばかりだった。島から来た商人たちにとってもここが唯一の町らしい町だった為、名前を知っていてもわざわざそれを使う必要がなかった。
「溺れ溪だよ」
「オボレダニ? どうしてそんな苦しそうな名前が」
ワイ・トゥレがさらっと告げた名にレ・キンは不安の色を見せた。
「ここの海は大きな川みたいだろう。すぐに深くなるのは大昔に渓谷が海に沈んだからだって言われてるのさ」
「溺れる前ここは山の谷だったの?」
「大昔のことさ」
谷が溺れた場所と聞くと悪くないようにレ・キンは思った。北から吹いてくる海風は町に近づくにつれて薄まっていく。レ・キンは大昔、この海が渓谷だった時代の世界を考え、何故この山は海に沈んでしまったのだろうかと考えながら歩いた。
「底には何が沈んでるんだろう」
「山の栄養だよ。だからこの湾では良い魚が取れる」
霧川埠頭は一日中賑やかだったが、市場に新鮮な品が並ぶ朝から、ご飯どきの昼にかけては一層活気付いて騒がしいほどだった。ワイ・トゥレは配達のお礼だと言い自分の工房から仕入れている硝子屋へレ・キンを連れていった。好きなものを選んで良いと言われ、レ・キンは店の中を行ったり来たりして、何か目を引くような素敵なものがないかと探した。棚の奥に埃をかぶった硝子の指環を見つけ、手にとった。軽く埃を拭うとその紫の指環はきらりと反射した。彼はその指環に決めワイ・トゥレに見せた。
「これ貰って良いかね? 今度食器をいくつかタダで仕入れるからさ」
「長いこと誰も買わないからどうせ返そうと思ってたんだ。良いよ」
ワイ・トゥレが頼むと店主は笑いながら承諾し、黒い布で指環を丁寧に拭いてレ・キンにくれた。彼は大事に背負い鞄の内にあるポケットにしまった。
「飯も食ってくかい?」店を出てワイ・トゥレは尋ねたが、レ・キンは断った。空いている時間に行って食べ終わってからもそこで仕事の続きをしようと思っているから配達が済んでからにするのだと言い、船着場までワイ・トゥレを見送った。
彼は海風の巣でアイデアを描くことで金を得ていた。例えばどこかの宴会の出し物や飾りつけを考え、小説のあらすじを考え、絵のモチーフを選んだりもした。誰かの贈り物選びを手伝うこともあった。マンネリズムに陥った芸術家や、プレゼントに悩む人からアイデアを買われることは多くあったが、芸術家にレ・キンの原案で何かを作りたいと頼まれることは比較的稀だったらしい。誰かが急いで来た時にすぐ選んでやれるよう、頼む人がいない時もアイデアを書き溜めて整理していた。特に今のように特別忙しい依頼に追われている時などには、そういったアイデアの備蓄が役に立った。レ・キンには物を作る技術が一切なかったが、思いつきの才能は悪くなかった。
レ・キンは埠頭から川へ向かう道でレモンを五つ買ってパン屋へと向かった。その日もテラスは昼食を食べに来た人で賑わっていた。彼もパン屋の名物であるマスタードの効いたサンドイッチを気に入っていたが、今日はカウンターでコップを渡すだけで何も買うつもりはない。仕事をするのにパン屋はうるさすぎる上、あまり長居することはできなかった。
「これ、頼んでたコップだよ。娘さん今日誕生日だってね、ワイ・トに聞いたよ」
「どうもありがとう。パン一個持ってっていいよ。気に入ったのを選んで」
「ううん、いいんです。これ、レモンだけど、美味しそうだから途中で買ってきたんだ。娘さんに僕からもおめでとうを言っといて」
「あの子はまだ電気屋だよ。頑張ってるみたいだ。帰ったらレ・キンがレモンを五つ持ってきたと伝えとくよ。ありがとう、また来てくれ」レ・キンは軽く頭を下げて店を出た。レ・ニの通う電気屋という場所は、主に電灯、ランプ、ライトなど、とにかく光るものが売られている工房兼店舗だった。むしろライトショップなどと呼ぶ方が自然なのかもしれなかったが、町の人々はいつもそれをただ電気屋と呼んでいた。レ・キンはパン屋を後にすると、橋まで歩いた。
三角辻橋は霧川にかかる橋で、その名の通り三本の道が川の上で繋がって三角の形をしている。レ・キンは三角辻橋へ来ることはそう多くなかった。珍しく訪れたからには、店が混んでいる時間帯にこの界隈を散策するのが良いだろうとレ・キンは考えた。彼は三角辻橋から西へ伸びる脇の道を歩いて昔の町並みを見物した。塀越しに庭仕事の老婦人が世間話をしているのを横目に通りすぎ、今では集会所として使われている大昔の病院の前を歩いた。商店街がある通りに比べるとそこには活気がなく、しんとしている様は石造りの古い建物らが立派であることに対して不釣合に見えた。三十分ほど歩き回って疲れてまた橋の近くまで戻ると、一時を過ぎており昼休憩に出ていた人も半分ほどに減っていた。残りの半分は昼休憩を多めに取って遅くまで働くのだろう。彼は目についた二階建てのチャイハネに入った。
チャイハネの二階の窓からは南西に三角辻橋が見えた。レ・キンは窓際の席で昼食を取りながら仕事を進めた。ワイ・トゥレがその依頼を彼に持ってきたのは二ヶ月ほども前で、彼は既に粗方完成させていた。しかし、まだしっくりこないようで、新しいものを加えたり、要らないように思える部分を削ったり、手を加えては、元に戻した。そう繰り返しているうちに、元々目指していた方角がどこであったかも分からないように思い始めノートを閉じるのだ。ここ一週間ほどずっと迷走するような日々が続いており彼はなかなか落ち着かなかった。考えることに疲れてぼんやりしているとあっという間に時間は経ち、時計は五時を指していた。慌てて店から海風の巣に電話をかけると、ヤキ・ナリブレトが出た。
「誰? はぁ、レ・キン? どうしたの? 私今来たばっかりよ。みんないないのに窓開いてるから変なのって思ってたところ」
「いや、僕が五時には帰るから窓閉めないで良いって言ったんだけど、もうちょっと遅くなりそうで、それで電話したの。ヤキ・ナ起きたばっかりみたいな声だ」
「それで? 帰って来るの、来ないの?」
「帰るけど夜だろうな。七時とかかと思う。夕食買って帰ろうか?」
「じゃあ、グラタン買って来て。あの茄子のやつがいいわ」
「わかった。それじゃ」
電話を切ってからレ・キンはまた席に戻ったものの、仕事は一向に進まず、彼は何も考えずに窓から橋を行き交う人々を眺めていた。そろそろ諦めて切り上げようかと思っていると、見知った顔が三角辻橋を向こうから歩いて来るのが見えた。それは今日が誕生日だというパン屋の娘のレ・ニで、彼はちょうどいいと思い会計を済ませて店を出た。
橋を渡ってきたレ・ニに声をかけると、彼女は一瞬驚いたような顔をして、すぐに人懐っこい笑顔を見せた。彼女の父親のパン屋へレ・キンも学生自分には足繁く通っていた上、最近レ・ニが海風の巣とも関わり深い電気屋工房のイルノ・コチラットの弟子になったばかりであったこともあり、直接的な交流こそまだなかったものの彼女の顔はよく知っていた。レ・ニが見習いとして通っている電気屋は、レ・キンのアパルトマンのある通りから一つ霧川側にある旧影道という細い路地にあった。町の中心部から一歩外れた細い通りで、静かな道沿いには老舗の職人工房が多くあた。電気屋の長であるイルノ・コチラットはかなりの練れ者であった。まだ四十を過ぎて少しであるにも関わらず自分の工房を町に出せるほどその腕は町の人々にも知られており、また彼女は海風の巣の創設した者の一人でもあった。娘が熱心に頼めば、父親がパン屋を手伝わないこともすんなりと承諾し安心して通わせるだけの頼もしさ、人望も彼女は持っていた。
「あっ、海風の巣のレ・キン」彼女は先月イルノ・コチラットに連れられ海風の巣に来ていたためか、レ・ニはすぐレ・キンに気がついたようだった。
「君んとこのパン屋に配達があってね、その後ここで作業してたんだ。久しぶりだね」
「そういうことか。あなたをこんなところで見るなんて珍しいと思ったら」
彼らは橋の欄干に彼は寄りかかり東側に壁のように聳える山脈を見つめながら話した。鹿鎚という大きな山脈が町の東に大小の峰々を連ねている。鋭く雲の上に突き出た最高峰のレニエタは西に傾く太陽に照らされていた。山に囲まれていて尚、この町に陰気な窮屈さがないのは山々の険しさが潔いほどだからなのだろうとレ・キンはいつも感じていた。
「家族で夕食なんでしょ? 結構遅いけど、大丈夫?」
「もう、そんなことも知ってるの。お父さんが言ってた? 平気、平気」
二人は少しの間橋の傍で話していたが、立ち止まっているのも何だということで少し歩くことになった。学校を出たばかりのレ・ニはまだ見習いだが、もう一人前の職人と同じ時間まで働いている。見習いでも上達が早い彼女は最近一日により多くの工程を進めるようになったらしい。二人は橋を渡り、西へ折れ、白道という川沿いの道を下流へ向かってゆっくり歩き始めた。
「ワイ・トが言ってたよ」
「今日の配達彼なの? てことはコップね」
言わない方が良かったとレ・キンが言うと、「それだけで想像つくくらいだもの、いいの、いいの」とレ・ニは目を細くして笑った。
「あの硝子職人のおじさんね。うちの店の食器もほとんど彼のとこの工房がやったらしいのよ」
「あぁ、そうだ。レ・ニ、誕生日おめでとう。」
「あら、ありがとう。十九歳になったんだよ。もう大人に見える?」
わざらしく目尻を下げてこちらを柔らかく見つめるレ・ニに、思わず息を呑みレ・キンは狼狽えながら言葉を探す。
「どうだろう、君のことをたくさん知っているわけではないからね」
「まあ、そんなもんよね」
「でも十九になったレ・ニはとてもワクワクしてるなってのはわかるよ」
「こうやって川に沿って歩くのが好きなのよ。ずっと向こう岸にいるからこっち歩くの久しぶり。後二十分歩けば夕日が射すけれど、それまで歩く?」
彼は構わないと言ってレ・ニに連れられるままに川沿いを歩いた。海は見えないが、穏やかになりつつある川の流れからレ・キンは海の気配を感じていた。また、若い肩を揺らしながら軽快に歩くレ・ニの瑞々しい姿もレ・キンは自然と意識していたが、ただそれを直視することを憚っていた。プロペラ型の羽のついた種子がひとつ、風に乗って舞ってくると、レ・ニはそれを朱く染まり始めた空から摘み、羽を折って川へ投げた。それは媚嗚手山に生えるフタバガキの種子だっただろう。レ・ニの不可解な行いは、気恥ずかしい心持ちで目を合わせまいとするレ・キンを自然と向き直させた。
「レ・ニのせいで川底で芽吹いて、何十年後かに五十メートルくらいの巨木になってるかもしれない」
彼女は笑いながら首を振った。
「そうなると木はこの川を堰き止めるわ。十九歳の誕生日を思い出すいいきっかけになる」
「きっと町の名所になるよ。それにしても珍しいよね、こんなところまで飛んでくるなんて」
彼は少なからず彼女に惹かれたことに気がつき、丁寧な石垣の河岸の際で揺れる水草をぼんやりと眺め歩いていた。なんともない話が続き、もうじきに夕日が川面を染め始めるかという頃、海風の巣からの帰り道であろうドラド・ハユィヒシが自転車で通りかかった。
坊主頭の画家のシルエットは少し遠くから見てもわかりやすかった。海風の巣に集まる他の仲間たちは皆、レ・キンと違って何かしらを作る腕を持っていた。文筆家のダャ・ロプシー、彫刻家のヤキ・ナリブレト、画家のドラド・ハユィヒシの三人がいた。彼らは皆レ・キンと同じくらいの若者だった。海風の巣に入る時間、そこで過ごす時間はそれぞれ異なっていたものの、彼らはただ同じ場所を作業場とする者というだけでなく、友人としても互いを尊敬していた。
「やぁ、ドラ・ハ。帰りなの」
「そうそう。それにしても珍しい組み合わせだな。お二人さん何してるの」
「そうよ今日は珍しいことがたくさん起こるのよ。私の誕生日だから、レ・キンとばったり遭ったり、ドラ・ハが通りかかったり、さっきは媚嗚手山からフタバガキの種子が舞って来たし」
「誕生日なのか、おめでとう」
「ありがとう」
「ちょうど配達の帰りに三角辻橋の根際のチャイハネで仕事してたらレ・ニが通りかかったのが見えてね。せっかくだし話しながら歩いてたんだ」
「散歩中なの。ドラ・ハも一緒にどう? これから夕日を見るんだよ」
ドラド・ハユィヒシは西の空に薄い雲が透けているのをちらっと睨んだ。凛とした眉と鋭い目で夕日を思い描いたのだろう。
ハケでデタラメな方向へはらったような勢いのよい雲は、彼の気に召したようだ。
「うん、いいよ。付き合おう」
ドラド・ハユィヒシはここから少し媚嗚手山の方へ行ったところ、三角辻橋から行くと肱の道の奥にあたる部落に実家があり、今もそこから海風の巣に通っていた。きっといつも白道を帰っているのだろう。
「最近、よく考えてるんだけど、私、電気工房を出たら海風の巣に行こうかと思っているの。もちろん習うことをまず全部習って、その後って話だけど」レ・ニはこの間寄った時にすっかり海風の巣を気に入ったようだった。レ・キンもドラド・ハユィヒシもそのことには大いに賛成して、彼女にぜひ来ると良いと勧めた。海風の巣には広い部屋が一つと台所があるだけだったが、その広い部屋にはまだあと三人増えても快適に作業できるほど空間が余っていた。
「ここがいいわ。あなたは知らないだろうけど、夕日はここの階段を下りてみるのが一番いいから」レ・ニがそういって足を止めたのは大昔使われていた小さな船着場だった。
澄んだ水の底には見捨てられた小舟が沈んでいた。小舟は舳先だけを水面に出し、綱は切れかかっているもののまだ石垣の杭に結ばれていた。レ・キンとドラド・ハユィヒシは彼女に続いて、石の階段を下りた。彼女の言った通りそこで見る夕日はよく川に反射していた。
「こうやって弾けている波も夕日を透かす雲も二度と同じものはないんだろうな」
雲はみるみるうちに燃えるように色づき、それに見惚れているとあっという間に太陽は沈んでしまった。彼らは夕日がすっかり沈んでしまってからもしばらく見捨てられた船着き場の階段に座り微睡んだようになっていた。いつの間に彼らが話すのをやめていたのか。気づかぬうちに立ち込めていた沈黙が薄れ、川の流れるぽこんぽこんという音に気がついた時やっと、辺りを見渡してすっかり暗くなっていることに気がついた。入相の残り香もすっかり切れていた。ゆっくりと進み始める時間に自覚し始めると、媚嗚手山の寝床に帰ってきたばかりのサイチョウのエーック、エーックというよく通る鳴き声がついさっきまで夕日が差していたことを思い出させる。
「あれはアオムネサイチョウだな」とドラド・ハユィヒシがようやく口を開いた。「鳴き声だけでわかるなんてすごいね」とレ・キンが感心すると、すぐそばで育ったから彼は媚嗚手山にいる鳥の鳴き声はほとんどわかるのだと言う。三人はやっと立ち上がって階段を上がった。
ドラド・ハユィヒシは自転車でレ・ニを送ろうと言った。一人逆方向に帰るレ・キンは最後もう一度レ・ニにおめでうと言った。レ・ニが「今日はありがとう」と、ドラド・ハユィヒシは「また」とだけ言って、レ・キンが二人に手を振って背を向けたら、自転車が軋む音をたてて帰っていった。一人になって歩いていると、光線の完全に消え去った後に残った暑さはまるで寂寞感そのもののようで、レ・キンは意図せず早足になった。霧川大橋の左岸にある店に入りレ・キンはナスの入ったグラタンを二つ買い、紙袋を背負い鞄に入れて海風の巣に戻った。
八時を少し回ったくらいの時間で、窓の外からは紫色の電球が一つ小さく灯っているのが見えた。それはヤキ・ナリブレトがたった一人で作業していることを示していた。レ・キンはゆっくり扉を開け静かに中に入り、ヤキ・ナリブレトの後ろの長テーブルにグラタンの紙袋を置いて椅子を引いた。レ・キンは机に右肘をついて、彫刻に没頭している彼女の背中を眺めた。ヤキ・ナリブレトが見向きもしないのはいつものことで、レ・キンは彼女が作業を終え振り返るのを待った。
ヤキ・ナリブレトの作る彫刻には余計なものがない。また彼女は夜の人であった。レ・キンにとってそれらは彼女自身の強さを際立てるような二つの要素だったかもしれない。レ・キンは彼女を海風の巣に集う仲間の中で最も信頼していた。
深く低く光るタンタルにヤキ・ナリブレトは黙々と刃を立て彫っていく。彫像はまだ粗く削り出されたばかりで、彼女は細部に手を入れ始めたところだった。ヤキ・ナリブレトが金属塊から掘り出そうとしているのは一人の女性で、彫像の長く伸びた髪は、シャワーから出たばかりであるかのように無造作で荒く垂れていた。無防備なその女は悲壮に満ちているようで、同時にどこかに期待を懸けている風にも見えた。黒く反射する金属の女は一杯一杯に左肘を前に出し、前腕を顔に近づけていて、その左手の平は空を向いていた。滑らかで人間味のある形に対して鋭利さの感じられる彫刻だった。彫像の右手は顔の前にある左前腕に向けられていたが、その右手の平はまだ彫られていない。顔面を前腕から上へ反らせながらも、目だけでそれを睨んでいるであろうタンタルの女、まだのっぺらぼうで表情はないがそこには既に意思があった。彼女の前に膝をつき胸を彫り出そうとしているヤキ・ナリブレトの姿は小さな電球の淡い紫の光の下で強く、神聖な存在感を放っていた。
ヤキ・ナリブレトは海風の巣の中で唯一誰の依頼も受けない。彼女は人に頼まれ何かを作ることをしない。もちろんレ・キンのアイデアを頂いたこともなかった。客はただ、ここに来て彼女の彫刻を選び買っていく。客本人の意見、作者本人の意見、それ以外は一切の好影響をもたらさない邪悪な偏見だと彼女は信じていたのだ。極端すぎると思わなくもなかったが、海風の巣に来る客は皆彼女の才能に圧倒的なものを感じていた。魅力をうまく言葉にできる者はいなかったが自分の作品を枠にはめられることを好まない彼女にとってそれこそが最大の賛辞であった。彼女の彫刻はただ強く、ただ正しく、人を魅了した。
ヤキ・ナリブレトは彫像の上半身の大まかな形が見えるまで彫りあげ、少しの間うっとりするようにその上半身を見つめていた。彼女は彫像の胸の形を愛しているようだった。それは大きくはないが綺麗な形の胸だった。
ふうっと息を吐いて彼女はレ・キンに振り返り、待たせたねと言った。作品に対する時彼女は恐ろしく人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていたが、そうでない時はただならない気迫のようなものは消えた。親しい人にとっては彼女は頼りになる優しい少し変わった女の子だったが、それでも他人が見ればやはり隙がなく素っ気ない立ち入りづらい性格性格だったかもしれない。現に彼女は他人との距離を無意識ながら正確に把握し、そう多くのものに心を開くようではなかった。
レ・キンは黙って頷いて、熱い緑茶を注いでやってから、ぬるくなったグラタンを台所の電子レンジまで温めにいった。ヤキ・ナリブレトは道具を片付けて箒で部屋を掃除した。彼が部屋に戻るとヤキ・ナリブレトはお腹が空いたわ、と言いながらさっきまで彼が座っていた場所で頬杖をついてレ・キンを眺めている。
彼女は始めると気が済むまで作業の手を止めない人だった。ほとんど休憩も設けず、食べもせず、水以外のものを口にしなかった。ただひたすら没頭するのだ。その分、作業の済んだ後にはよく食べた。どうせいつものように、帰ってもすぐヤキ・ナリブレトは夕食にすると限らないと知っていたから、レ・キンは帰り道に屋台でサザエの串を買い食べながら帰ってきていた。少食の彼はサザエの串で思いの外満足していて、グラタンを半分ほど食べると残りをヤキ・ナリブレトにあげてしまった。いつも夕方に海風の巣へ行く時、彼はそうしていた。二人分の夕食を買って歩いている途中にお腹が空いて何かを食べてしまう。結局、自分の分はほとんど残してヤキ・ナリブレトにあげるのだ。そしてレ・キンはヤキ・ナリブレトが綺麗に平らげていくのを眺めながら話す。レ・キンは彼女に対してだけ思いのまま話すことができる。いつであれ、夕食はレ・キンにとって大した関心ではなく、彼は話すため二人分の夕食を買った。ヤキ・ナリブレトもレ・キンの話を聞くのが好きだった。そして彼と食べると夕食を一・五人分食べられることも嬉しかった。
レ・キンはレ・ニに会ったことを話し、また多少惹かれるようだったと言うと、ヤキ・ナリブレトは喜んだ。彼女はこれまで誰かに恋しそうな気配など当然なく、他人に歩み寄ろうとする様子を見せたことすらなかったレ・キンを知っていたから、彼が女の子に興味を持っていることを喜んだ。ヤキ・ナリブレトとレ・キンの仲は海風の巣に彼が通うようになる前からのもので、レ・キンの閉ざされていた心がだんだんと開きかけていくのをヤキ・ナリブレトは初めから見守っていた。
「あなたは彼女のどんなところが好きなの?」
「ヤキ・ナともまた違うんだけれど、彼女も少し不思議なところがあってね、それが面白かった。佇まい? シルエット? とんがった横顔やちょこちょこ歩く感じはすごく可愛かったよ」
「彫刻家のそばでいつも考え事をしているあなたにぴったりな惚れ方だわ。どんな話したの?」
「僕はただ誕生日おめでとうって言って、それから一緒に散歩した。途中でドラド・ハユィヒシが通りかかって一緒に夕日を見たんだけど、その前にね。レ・ニったら、媚嗚手山の方から飛んできたフタバガキの種子を千切って霧川に投げた。僕らはちょうど三角辻橋のところから白道を下りていってたんだ。どうして千切って捨てちゃうんだろうって思うじゃん。だって、可哀想だし、変でしょ?」
ヤキ・ナリブレトは傍らのコップから冷えたお茶を飲んだ。どこか微笑を含んでいるような顔つきだった。
「でも、どうせ町に落ちても芽吹かないじゃん。彼女は執着を感じてるんじゃない? その種子が間違ったところに飛んでしまったことに対して残念に思ったのよ」
「そうだとしても彼女のしたことはだいぶおかしなことだよ。誰がわざわざ飛んでる種子の羽を折って捨てるの。飛ばしておいた方が綺麗じゃない?」
「確かにそのままにしておいたほうが綺麗なんだけれど、レ・キンはその風景を忘れずにいられる? その種子のことを」
「そうか」
彼女は何かを思い出すように少し間を置いて言葉を続けた。
「でも、レ・ニは忘れない。誕生日の夕方、あなたと歩いてるときに、空から直接摘んで羽を折って霧川に投げた種子、そのことについてレ・キンとちょっと話して、そのあと船着き場の跡でドラド・ハユィヒシと三人で夕日を見た、いい思い出じゃん。私もなるべく起こったこと見たものを忘れたくないと思ってる」
「その種子はどのみち誰にも覚えられはしなかったんだね。決して芽吹かないし、四十メートルを超える樹高を成して人に見上げられることも決してない。サイチョウの寝床になりもしない。ただ乾いた種子のまま誰かに踏まれて砕けて、誰も知らないところで埃になってしまう。もし種子がそれを分かった上で、媚嗚手山の木立から人の住む町に落ちてきたのなら、きっと誰かの記憶に残りたかったのかな」
「レ・ニっておかしくないでしょ。素敵な人よ」
レ・キンはそう聞いて安心したようだった。
「種子は何に生まれ変わるかな?」
「人か、ドジョウだろうね。来世が楽しみね」
食べ終わると電灯を消し窓を閉め、二人は海風の巣を出た。
「レ・キンは何に生まれ変わりたい?」
「よく考えるけど、これがパッと思い浮かばないんだよね。ヤキ・ナは?」
「魚よ。私は魚になって広い海を泳いでまわりたいよ。水の中はそんなに明る過ぎないだろうし、向いてると思うわ」
海風の巣から霧川大橋までの細い道には明かりがない。霧打ちの脇の海は夜になると波しぶきに紫色の海螢が光ったが、それは道を照らすほどではなく、ヤキ・ナリブレトの持つ懐中電灯に負けていた。
道を照らすのに飽きると彼女は懐中電灯を上に向け、白い光の柱は夜空を突いた。傾き、廻り、それを眺めるヤキ・ナリブレトは「これは大人になって見ても面白い」と言いながらしばらく懐中電灯を揺さぶって遊んでいた。懐中電灯の光も同時に揺れたが、その光が空のどの高さまで届いてるのかを考える代わりに、レ・キンは西の水平線に沈もうとする三日月を見た。ヤキ・ナリブレトは懐中電灯に飽きるとその明かりを消して、目が暗さに慣れると海際を歩くレ・キンの横顔を夜空に透かして見た。
彼の浅黒い肌の色は夜空の下では見えなかった。長い睫毛、高い鼻と厚い唇の輪郭だけが夜に浮かんでいた。レ・キンの見ている三日月は彼の影に重なっていた為ヤキ・ナリブレトには見えず、代わりに、レ・キンが月の光を抑えているお陰で、彼女は海上の空に無限の星を見た。空には雲がひとつも無く、町の明かりが空を濁しもしていなかった。彼女の目から入る光は少なく、いくらアイリスが開かれたとしても滑り込むものは少なかった。彼女は山側を歩いていたため、波打ち際で砕けて光る紫の海螢を見なかった。星の光、ほとんど黒だがにわかに青い空、それを映す藍色の海、その景色と彼女の目の間にあるレ・キンの形をした完全な闇、それだけがヤキ・ナリブレト網膜に当たって光った。星の光は目には見えるものの、形を照らすほどではなく、純粋な音で存在する波だけが町までの小道の形を彼女に教えていた。
霧川大橋の向こうの街灯の橙色の明かりが遠くに小さく霧打ちの脇から覗いた時、レ・キンは南の翠巴川埠頭へ着くまえに三日月が沈むであろうことに気づき、ヤキ・ナリブレトに海際の視界を譲った。
彼女は三日月を見て、その光が穏やかな波の上をまっすぐに滑ってこちらまで伸びてくるのを目で追い、足元で砕ける波の中に紫の海螢を見た。
「今日も埠頭まで歩く?」とレ・キンはヤキ・ナリブレトに尋ねた。
南の埠頭を訪れることは夕暮れに二人が会った日の約束で、欠かされたことはこれまで一度もなかった。「歩こう」とヤキ・ナリブレトは言い、しばらくやんでいた足音はまた聞こえ始めた。レ・キンは林床の草を通る細い風が滑らかな川のように降りてくる音に耳を傾けながら歩いた。
しばらく歩くと、遠くの生活の灯りは、ヤキ・ナリブレトがついさっきまで眺めていた星の多さを一瞬忘れてしまうほど多く、明るくなった。霧川に差し掛かった頃にはもう人口の光は視野のほとんどを染め浮かべていた。橋の下を流れる汽水にも街灯の明かりは落ち、こまめに波を瞬かせている。街灯の光は波を型どるには十分だったが、底には遠く及ばず黒い水の中には届かなかった。ヤキ・ナリブレトが懐中電灯をつけるとその光は川底をどうにか照らし、底の岩が藻か泥かに覆われていることを、水がよく澄んでいることを映してくれた。光が当たると魚の群れは散った。
「カニがいるね」とレ・キンが言うと懐中電灯は一瞬迷ってカニを見つける。そして、それが光から逃げ岩陰を見つけるまで追った。「あれは食べられるよ」「美味しいよね」「タコはいないかな」「いないね」「クロダイが横切ったね」などと話しているうちに三日月は沈んだが、二人は橋を渡りきるまでに何分もかかっていたことに気がつかない。
まだ、霧川埠頭のあたりには人通りが多くあった。仕事を終えた人々は夕食後この埠頭の広場に集まり飲み物を片手に夜中まで語り合うのだ。チャイハネが大きな釜でつくる茶とコーヒーの湯気は磯の空気に混ざって人々の話し声の間を彷徨う。それは焦げたような不思議な香りで、人々は安らいで、時間も疲れも忘れて笑う。霧川埠頭だけでなく、三角辻橋のあたりや、旧影道側の水辺の広場でもこのような光景が見られた。レ・キンとヤキ・ナリブレトはここでは過ごさない。二人はより南方にある翠巴川埠頭へ向かう。二人はより静かで人の多くないところを好むのだ。翠巴川埠頭にはチャイハネが出ない為、彼らは霧川埠頭で二本の保温水筒にお茶とコーヒーを入れて行く。そばの露店で飴も一掴み買う。
喋りながら二人で歩き、翠巴川橋にさしかかったあたりでいつも一つ飴を食べた。利き手側のポケットに入った飴を一つ取り出して二人は交換するのだ。ヤキ・ナリブレトの白い左手はいつもひんやりと冷たかった。街灯の光にかざして、透けた包みの色を比べる。それぞれにお気に入りの味があり色を見ては一喜一憂した。それが二人にとって夜の憩いの始まりだった。ヤキ・ナリブレトのポケットからその左手を伝って渡される飴を口に飴を放り込むと、それはひんやりと冷たかった。自分と違う体温を飴を介して感じると彼は落ち着いたのだろう。レ・キンにとってはひんやりと冷たい飴がいつも無意識に気の緩む涼しい夜の始まりを意味していた。翠巴川橋を過ぎるとまた街灯はなくなり、向こうに小さく見える水銀灯が目的の翠巴川埠頭であった。
この南の小さな埠頭にも人はいたが、レ・キンとヤキ・ナリブレトを除けばそれはほとんど五、六人程度で釣りをしている常連や、時々その気分になって夜の海を見にくる人のみである。レ・キンやヤキ・ナリブレトのように数人で集まって来る人もいたが、騒いだり、跳ねたりしないのが相場だった。翠巴川埠頭にはお開きがなかった。それぞれの時間で集まり、気が済むまで居座る。通り過ぎる時に頭を下げる程度で、ほとんど他人とも言葉を交わさない。そういう場所だった。
いつものようにガートに腰を下ろし、水筒をカバンから出し、飲み物を飲みながらだらだらと話した。だいたい彼らは二、三日に一回はこうしていた。堤防の方角に釣りのお兄さんがいて、学生が水銀灯の下の机でカードをやっているのが見えた。さざ波は夜でもちらちらと波頭だけを仄めかせている。
二人は何時間でも話した。波の音も忘れてしまうほどにいつも夢中に話し続けた。いや、どちらかというとレ・キンがほとんど一人話し続けていて、ヤキ・ナリブレトは相槌のほかはだいたい黙ったまま聞き続けていた。二人がこうして南の埠頭に腰をかけて話すようになって七年が経ち、レ・キンは初めて会った時のヤキ・ナリブレトと同じ年になっていて、しかし、話す内容はほとんど変わらないままだった。飴を食べながら、飲み物を飲みながら、レ・キンは今日あったことを、昨日あったことを話して、ヤキ・ナリブレトはあまり自分の生活について語らないまま、埠頭の波に揺れる小船を眺めている。
コーヒーもお茶もだんだん冷えてきた頃はいつもそれがほとんどなくなって来ている時で、そうなると最後の一滴が落ちるのを飲んで、二人は立って歩き始める。飲み物がなくなるともう飴は口にせず、会話も減って翠巴川沿いの暗い道を、流れの音を頼りに歩いて寝床まで向かった。ヤキ・ナリブレトの家は翠巴川の南にこんもりとある森の中ほどにあるらしく、彼女はいつも橋の手前でおやすみを言った。レ・キンもおやすみと言って彼女が橋を渡り森に続く小道に消えていくのを眺め、一人で北の大通りの方へ折れる。
ヤキ・ナリブレトの家が正確にどのような場所にあったか、そこで彼女がどういう暮らしをしているのか、レ・キンはずっと知らずにいた。ただ彼が知るのは彼女が夜明けを見るまでは眠らないことと、昼頃に起きだして夕方に海風の巣に来ることだけだった。レ・キンは二時ごろ部屋に戻り、冷たい水で一杯レモネードを作る。口から三センチ下まで薄紅のひび割れ模様が入った透明の硝子のコップに入ったレモネードを飲みながら椅子に座る。脇のテーブルに肘をつき、ぽつぽつとだけ残った町の明かりを眺めた。西から順に目でなぞって最後、東の丘へ続く道をたどる。丘へ続く坂に間隔をあけて並ぶ街灯は笠を被った旧式のもので、その光は坂に木の揺れる影を映していた。人は通らない。いつもその同じ景色を確かめると、彼は生まれ育ったこの溺れ溪という名の町に愛おしさを覚え、親指ほど残った最後のレモネードを飲み干した。
三時過ぎに寝るのが普通で、起きるのも遅いレ・キンが海風の巣に行くのはいつも昼前になる。レ・キンは十時前にもぞもぞとベッドから這い出すと、いつも洗面器とコップを持ってベランダに出る。寝起きが良い方でない彼はいつも太陽の光を無理にでも浴びなければ目を醒ますことができなかったが、流しとコンロがベランダにある為そこまでいけばどうにかなった。彼はそこで顔を洗い、コンロで卵を焼いた。彼は毎朝、ベランダの椅子に座り、雚見ヶ丘を眺めながら歯を磨く。今日は仕事が捗れば良いと思いながら、丘の頂上のメンヒルを眺めた。卵ができると、そのままベランダの机でゆっくり食べた。
彼は三架通りをぼんやり見ていた。人通りは少なかったがしばらくすると子供が自転車で坂を下りて来た。痩せたのと体の大きいのの二人で、どこかへ競争しているようだった。痩せた方が女の子で、先を走っていた。見るからに運動のできそうな体の大きい男の子は悔しそうに歯を食いしばって追いかけていた。二人とも膝の下まである半ズボンを履いていて、上には違う色のシャツを着ていた。学校の上着がカゴに入れられているところを見ると、彼らはさぼって途中で抜け出てきたのだろう。女の子は白いリボンのついた麦稈帽を被っている。顎の紐を硬く結んでいても、つばだけは風に煽られ上を向いていた。男の子は腕に薔薇色のリボンを巻いていた。彼らはまだ十歳にも満たないようだったが、もしかすると二人は恋人同士で、腕に結んだリボンはプレゼントなのかもしれない、レ・キンはそう思った。埠頭からやって来た路面電車が駅で笛を鳴らしているのを見て、彼もぼんやりしてはいられないと思い、部屋に戻って支度して急いで海風の巣へ行った。レ・キンが着いたのは十一時過ぎだった。
彼が部屋に入ると文筆家のダャ・ロプシー、画家のドラド・ハユィヒシはもう作業をひと段落しておしゃべりをしていた。
ダャ・ロプシーは大体いつも夜明けには起きるらしい。そして、六時か七時には海風の巣に入り本を書き始めるという。朝が遅いレ・キンに彼は朝の風や新しい日光の清々しさをよく語った。レ・キンとしてもその素晴らしさを知らないわけではなかったから、稀に早起きができた時や、一切眠れなかった時は早朝に海風の巣に赴き、ダャ・ロプシーと朝を共有する。
ドラド・ハユィヒシも朝から来るが特に朝にこだわっているのではなかった。ただ特別早起きでもなく特別夜更かしでもなく、九時に来るだけだ。ただその代わりなのかどうかはともかくドラド・ハユィヒシには決まった習慣があった。八時か九時に来ると三リットルコーヒーを淹れて、道具を支度するとまず一本外で煙草を吸う。そして作業にかかると、カップ三杯がなくなる毎に必ず休憩をとり、筆の乗っている時でも必ずテラスの大窓から外に出て堤防のそばまで行き煙草を吸いながら十五分休憩した。それを三セット行い、三時間で大きな休憩をとる。
今ダャ・ロプシーとドラド・ハユィヒシが部屋でお喋りをしているからには、今日八時にはドラド・ハユィヒシが海風の巣に来ていたのだろう。レ・キンも自分のコップに冷えた緑茶を淹れてお喋りに加わる。
ドラド・ハユィヒシとダャ・ロプシーの話していることは五色岩から見える海の波についてらしかった。五色岩とは霧打ちの先端のことで、この間イルノ・コチラットが海風の巣に来て測量に彼らをお供させたらしかった。灯台が古くなっているからと町に補修と灯りの新調を頼まれているらしい。きっとレ・ニが来たのもその時だったのだろうとレ・キンは思い出しながら話を聞いていた。
イルノ・コチラットは海風の巣を建てた人物で町に残っている最後のひとりだったが、もっぱら電気屋の工房の方ばかりに居てこちらにはほとんど顔を出さない。電気屋には顔を出して基礎的な技術を教える必要があったが、各々の活動に完全な自主性が保証されている海風の巣には必ず来なければならない理由がないのだ。それに海風の巣は町の中心から離れすぎていた。
ダャ・ロプシーが言うには五色の波が岬の岩から見えたらしい。ドラド・ハユィヒシはお前が共感覚を持っているせいで波の音と波の色を取り違えただけだと反論した。
「そんじゃあ何で五色岩なんかいう名前がついてるんだい、五色の波が見えるんだから五色岩と名がついたに違いないだろう? 何も関係ないならみんながそのまま霧打ちの先ってだけ呼ぶに決まってるんだよ」
「あのな、海の波が五色に見えるはずなんてないんだよ。青か緑と決まっているんだ。青紫でも俺は認めないぜ?」
確かに色のついた波などおかしな話ではあったが、もしそれが五感の交錯でないとしたらどう見えるのかが、レ・キンにはまず気になった。それに、レ・キンはダャ・ロプシーの色と音の紐づきの傾向を知っている分、単なる五感の交錯なのか、実際に光線が網膜に及んだ色なのかが判るだろうと思い訊ねた。
「ここらの海は藍色だけど、五色岩のあたりだけ青緑だろう? それは何もおかしなことなんかじゃない。岩の色だか海水の養分の関係でそうなってるんだからね。でも、七間くらい先、要するに十メートルちょっと向こうだ。あそこのあたりは水の下から色の膜があるように見えて、ちょうどセロファンみたいなんだ。決して波の表面に膜が付いてんじゃない、波の内側だね。レ・キン、硝子の二層の水筒持ってるだろ? 外と内で硝子の色が違ったろう。ああいう感じだったんだ。それで、膜ってのは多分五寸ほど下で水に張り付いているようでね。膜は薄いけど多分一寸くらいはあるよ。だから膜の色と海の青緑が混ざった色に見えるんだ」
「いいんだよ、見え方は。要するに五色は何色と何色なんだよ?」
「セロファンの色は橙、二種類の黄色、濃い紅、真っ赤だったみたいでさ。セロファンは反射したり透けたりするのに合わせて色を変えていくよ。二種類の黄色は反射した時の黄色と透けた時の黄色ね。他の色はみんな反射と透過が中くらい。そうなると、五色、わかるだろう?」
「ああ、俺は絵の具の専門だからな、筆洗に色が混ざる具合だ。あそこらの青緑の色は明るいからな、臙脂、黄緑、青紫と紅色ってくらいなんだろ? それにしても、反射する黄色のセロファンを挟んだらどうなるんだよ」
「金と銀が点滅してるように見えるんだよ。おかしな話で」
「これは、レ・キンには想像できるのかよ? 俺は、正直なところちんぷんかんぷんだぜ?」
「ごめんね、僕もさっぱりだよ」レ・キンは笑いながら返した。
それを実際に見ないことには話ができないということになったが、どうやらドラド・ハユィヒシも最後には信じたようで、明日は見に行くかと言う話になった。
「ところで金と銀の点滅なんだったら見える色は六色じゃないのかよ?」
「錦の織物を考えてみたら早いだろう、それは一種類の色で二色混ざっているんだな。それにさ、五色全部合わせて一色って感じがあったね」ダャ・ロプシーはそう答えると首を傾げながらカップのコーヒーを飲んだ。
ドラド・ハユィヒシはダャ・ロプシーの共感覚や色の感性の多さを羨ましく思い何故絵をやらないんだと尋ねたことがあった。ダャ・ロプシーはこう答えた。
「俺には絵を描く意味がないんだ」
絵から音がするとおかしいだろう、音を絵に書いても誰かが理解してくれるかどうかも怪しいだろう、絵を試したことがあったけれどもいつも出来上がったものは自分の思ったものではなかった、誰かがそれを良いって言っても納得できない、字は間違わない、書いたものはほとんど嘘でないように見える、それが彼の言うところだった。ドラド・ハユィヒシは納得していたし、また、ダャ・ロプシーの見る色は自分にとっては正しいと言い、時々ドラド・ハユィヒシは自分の知らない色を描こうとする時にダャ・ロプシーに言葉で感じを伝え色を教えてもらうこともあった。
ドラド・ハユィヒシはいつもダャ・ロプシーを羨んでいたが、逆にダャ・ロプシーはドラド・ハユィヒシが全く嘘の世界、空想のみで造られた世界を描ける才能を尊敬していた。彼ら二人の創るものが属する世界は実質的にほとんど同じで、非日常、非現実そのものだった。過程で作品への接し方は異なれど、完成したものの性質は近いところにあった。
だが、彼らが口を挟みあってそこにお互いの違う感性が取り入れられた時、作品は異なる世界に飛んだ。すなわちドラド・ハユィヒシとダャ・ロプシーが別の道を通って巡り合った世界とも違う、そこからもさらに外れた場所、両方から遠くにあるドラド・ハユィヒシにしか完成させられない世界、ダャ・ロプシーにしか完成させられない世界に至った。相互作用を経て完成した作品はいつも似て非なるものだった。ドラド・ハユィヒシとダャ・ロプシーの二人は、レ・キンとヤキ・ナリブレトの関係とはまた違う形で、お互いを頼りあって朝を生きていたのだ。
レ・キンには早起きの拘りもルーティーンもない、彼には特別なものがないように見えた。だが彼のうちにある想像力はまさに無からアイデアを生み出すものだった。彼が創造の源としていた無は、他人の生活から滲み出る何かだった。彼は或る時を境に他人と触れ合うことを苦にするようになり、心を閉ざすような傾向はいくらか回復してはいたものの今もありのままの言葉を出すことを躊躇っていた。だが、彼が人の全てを、それは人の余分、生活の副産物、そうも言えるような誰も気にしないようなものまでいちいち吸収することは無意識に行われ暗い胸の底に蓄積されていた。それが彼の才能だった。彼は人より多くのものを感じそれをアイデアとして言葉にし自分を隠したまま語った。彼は空気のような誰にも見えない才能を、ごく当たり前に利用した。その分彼の思いつくものは人間味に溢れた温かいものだった。彼は表現をものにする一切の手段を持たず、常に素描やメモ書きに表すことしかできなかった。その為彼に必要なことは想像することのみで、そこに雑念を払うことは必ずしも必要ではなく、彼にとって人と話すこと自体がプロセスの一つでもあった。
人らしい性質を持つレ・キンの想像力はアイデアという形での出力に適していたとも思えなくはない。知らないものから見るとノートとペンだけを持っておしゃべりを聞いているようにしか見えないレ・キンは一番の怠け者のようだったかもしれないが、海風の巣にいるものは彼をよく知り、理解していた。レ・キンに話しかけること自体が彼らの想像のカタリストにもなり得た。レ・キンの仕事は海風の巣に来ずとも行われ得るもので、彼は実際生活の全ての時間にノートを片手にしていた。昼過ぎになってお腹が空けばぶらぶらと出かけて行ってそのまま帰らないことも多かった。ドラド・ハユィヒシが煙草を吸うためにテラスから海岸へ出ると、帰ったものと思っていたレ・キンが堤防に腰掛けて遠く海を見つめて黙っていることもあった。彼が集中して何かを抽出しようとしている時、海風の巣の屋根の下にいることは少なかったかもしれない。或る時は自分の机でコーヒーを片手に集中しているようにも見えたが、それはほとんどスケッチに正確性を加えるための詳細な手入れであり、集中してアイデアを導こうとしているときは少なかった。
海風の巣はこのようにして一つの生物のように相互に関与し合い、たくさんの作品を町に届けていた。この町で有名な集団は北端の海風の巣と東の丘の向こうにある朝日デルタだった。旧影道には電気屋を中心とする多くの職人工房があるが、海風の巣と朝日デルタという二つの場所に対して作る者の意思に置かれる比重が大きく異なっていた為に同一に語られることは多くなかった。
その日レ・キンは、ドラド・ハユィヒシとダャ・ロプシーのおしゃべりに付き合った後も、昼食には出ず一日中海風の巣にいて自分のアイデアをまとめていた。ワイ・トゥレを通して依頼されていた仕事は海の向こうのと或る島町の都市計画だった。それを明後日までにまとめておかなければならなかったのだ。その島はワイ・トゥレの硝子工房やサンダル工場のある那々紙島よりずっと西にあり、ワイ・トゥレ自身も訪れたことがないほど遠くにある場所だったそうだ。ワイ・トゥレに依頼をまとめた書物を持ってきた漁師が言うには、那々紙島から三百キロも南西にあるらしかった。それはほとんど多島海の外れで、ほほろびの海にはばら撒いたのかと思うくらい多くの島があったが、その島だけは少し遠くに転がり過ぎたように島の群れから外れていたそうだ。島々の貿易は盛んで、溺れ溪はその中心だったがレ・キンは一番近い那々紙島にすらも行ったことがなかった。
遠くの島からの依頼の書類にあったのは概要の書かれた紙十三ページ、精密な町の様子やその島の自然風景を描いた絵、あとは詳細な地図などのくらいで、それだけから全てのアイデアを出すのはレ・キンにとってかなり難しかった。何もない場所と仮定し町を一つ考えろという依頼がそもそも大雑把である上、スケールもこれまでの仕事とは全く違っていた。
レ・キンが机で頭を抱えていると外で煙草を吸って戻ったドラド・ハユィヒシが後ろから覗いて、それは写真じゃないか、と言った。写真はこの町にはないものだったため彼は驚いたのだ。レ・キンは特殊な防水加工の施された精密な絵だとばかり思っていた為、やっと驚いた。ダャ・ロプシーもどれどれ、と覗きにやってきて、三人でその島の写真を眺めた。
ドラド・ハユィヒシは、町の図書館に一枚だけ古い写真があったのを見てそれを知っていた。海風の巣の中でもドラド・ハユィヒシは学者だった。彼は何かと知っていたが自分の知識の多くを語らなかった。だが、こう稀に垣間見えるだけでもそのことはよく想像できた。彼いわく、図書館にあった写真は丘の上のメンヒルを写した古いもので、凡そ三十年ほど前に旅をする者に撮られ、土産として宿に残されて行ったと説明が書かれていたという。
ずっと見つめていた島を描いた紙が絵ではなく実際のものを限りなくそのまま写したものと知り、レ・キンはようやくこれまで進めてきた作業が的を得なかったわけに気がついた。その場所の様子はここと大きく異なっているのだ。より鬱蒼とした木々や青い色をした土、山螢の様な色で流れる黄色い川や真っ黒の岩で覆われた河岸、それと同じく黒い色をした大きな山、それらを見ると圧倒された。全く違う場所なんだなと三人は顔を見合わせ、明後日ワイ・トゥレが来た時にもっと多くのことを聞けると良いなと話をした。行って帰るだけでも数週間かかる場所の風景が、想像から離れているのは、よく考えてみれば別に意外なことでもないかもしれないなとレ・キンは思った。
夕方になってレ・キンは電気屋にいるイルノ・コチラットに写真を見せに行くことにした。日差しにうんざりしながらレ・キンは霧打ちの海際の小道を歩いていた。
ヤキ・ナリブレトが向こうから来るのが見え、レ・キンは手を振った。遠くから見た細く背の高いヤキ・ナリブレトの姿は、今にもどこかへ飛ばされていってしまいそうに見えた。彼女は少し手を上げてみせた。顎を前に突き出して笑っているのが見える。彼女が首を傾げながらうつむいたら長く黒い髪が顔を覆いながらなびいた。何も持たずに歩いてくる彼女は足が二本あるのにやじろべえの様にふらっふらっと歩く。一歩ずつ重心をしっかり置きながら手を後ろに組んでゆっくりふらりと歩いている。バサッとした前髪が、重たい瞼が、眠たそうな瞳が見える。彼の白い顔に赤すぎるくらいの唇は昼の日差しに不似合いで、それは照らされ病的に翳っていた。
「どこ行くの?」とヤキ・ナリブレトは言った。いつもと同じ真っ黒の長袖のワンピース姿でも真昼間に見れば怪しい。
「イル・コに会いに行くんだ。レ・ニもいるかも。夜には戻るよ。何か食べたいものが決まったら僕が電気屋にいるうちに電話ね」
「はーい」
二人は握手をしてすれ違った。すれ違ってすぐレ・キンが振り向くと、彼女はやはり、ふらっふらっと歩いていた。その後もう一度、彼女も振り向いていないだろうかと首だけ回して、しばらく後ろ姿を眺めながらレ・キンは歩いた。彼女は振り向いた。片目を閉じてキッと笑い、こめかみに当てた二本の指をレ・キンの方へ弾いて見せた。「また後でね」と心の中で呟く彼女に手を振ると、レ・キンは振り返らずにまっすぐ電気屋を目指して歩いた。
彼は自分がレ・ニに対して抱いている好意とヤキ・ナリブレトに対して抱いている感情を比べるようになっていることに気づき、どこか葛藤にも似たものを覚えた。彼は自分がレ・ニに恋しているのだと思い込んでいながら、その感情よりヤキ・ナリブレトに対する気持ちの方が高揚すると思うと罪悪感を抱いた。そもそも何かを占有する、支配下に置く、思い通りにしようとする欲求を感じるような人が少ないその町において、恋はいつもこうシャボン玉のようにゆらゆらしているのかもしれない。
電気屋に着くとちょうどイルノ・コチラットは手隙で、レ・キンはすぐ部屋に通してもらうことができた。
「これなかなか面白いじゃない」と言いながらイルノ・コチラットは髪を頭の上にまとめて眼鏡をかけた。そうして彼のまとめたアイデアと写真、南西の遠い島から来た依頼の詳細をじっくり眺めた。
「どうして早く教えてくれなかったの? アタシこういうのにすごく興味あるのよ」と呟いた。「特に何も考えず普段の依頼と同じように当たっていたんだけれど、出来上がってから正直、これじゃ足りないって思ったんで。今までこんな気がしたことはなかったから、そうなるまで僕が誰かにアイデアを聞きに来るなんて発想がなかったんだ」とレ・キンは言った。
「これ、アタシが噛んでどうにかなると思う?」
レ・キンは正直に首を振った。
「今この町で出る案で一番良いのが今ここにあるあなたのメモよ、正直言って」
レ・キンはその通りだと思い軽く頷いた。自信過剰だった訳では決してない。彼がこの仕事にかけた時間と労力は躊躇ない頷きに値していた。
「アドバイスをもらうっていうより、何か考えがあって、それが正しいのか心配だから意見をもらいにきたんでしょ?」
「そう」とレ・キンは言った。
レ・キンは彼女の部屋にある色々な形のランプや電飾を無意識のうちに手に取って眺めて見たり、そぞろに話していた。「かけなさい」と言われ思い出したように隅の椅子に腰をおろした。ひとまず久しぶりに会う二人は世間話をすることにした。そうしているとレ・ニが顔を出し、お茶でもどうだ?と言うので彼は熱い青茶を頼んだ。
とにかく世間話をしようとしたが、彼の言わなければならないことは一つ、アイデアが自分で満足できるものでないため、実際にその地に赴いて案を納得のいくものにしたいということだった。話を彼女に切り出した時には青茶からまだ湯気が立っていた。
「腑に落ちないまま自分のアイデアを人に渡すのが怖くて仕方がないんだ。どうしてもあの場所に実際に行って考えたい」
他のものと仕事の大切さは変わらないが規模が違うと分かったのだと彼は言った。イルノ・コチラットはその通りだと、自分が時間をかけて市街地の照明を順次入れ替えるという仕事を請け負った時もその程度の責任感しかなかったと共感を見せレ・キンを安心させた。新しいものをバラバラの時期に入れて景観に違和感を与えないようにすることはなかなか難しいのだ、といっぺん話を逸らせると、また戻し、作品が収まる場所が大きければ大きいほど求められる慎重さは増すのだと言った。
イルノ・コチラットは多くを話すことで聞く者を安心させ自信家にさせる。当然その人は求めていたより多くの助言や知識を得、気づかぬうちに今まで通り過ぎていたところで立ち止まれるようになった。新しい角度から何かを見る彼は自分が学んだことに気づかない。優れた教育者は教えられているということを悟らせないのだ。
その島町の代表一人から依頼を受けたのだと考えていては危うい、島人全員の理想にそぐうものが求められているのだから、行って考えたいという考えは全く正しい。彼女はそう言った。レ・キンは冷めた青茶を飲み干して、明日そのようにワイ・トゥレに相談すると言い、真剣な話し合いをやめた。当然、彼は一人で町を出ることにまだ一切の実感を持っていなかった。それは追って彼の心に現れるのだろう。
また、くだらない世間話に戻り、彼らは最近の海風の巣の様子などを話している。イルノ・コチラットも本当はもっと顔を出したいのだと言う。
「あなたたちのこと気にかけているのよ」
ヤキ・ナリブレトは相変わらず朝には来ないだとか、ドラド・ハユィヒシの煙草が減らないだのを経て、五色の波の話になった時にはレ・ニもその辺に腰掛けて話に混じっていた。
「ダャ・ロプのいう通りで、それ、本当よ」とレ・ニは言った。見たことがあるのかと尋ねると、実際に見たことはないと言う。三角辻橋の近くに古いものをなんでも放り込んでいる博物館があり、そこの書庫に五色の波について言及されている本があったのだと言う。レ・ニは学生だった頃にそこで時間を潰すことが多かったらしい。溺れ溪の過去について、特に旧市街、三角辻橋周辺地区が町の中心だった時代のことを知る者はほとんどいないが、あの周辺の年寄りは誰も知らないような昔のことを知っているのがいるかもしれないとレ・ニは言った。
明日のお昼から海風の巣のみんなで五色岩へ行って、波の色を確かめるのだとレ・キンが言うと、二人とも行きたそうな顔をしてた。イルノ・コチラットは当然来れるわけはないが、レ・ニはイルノ・コチラットに一緒に行ってもいいかと訊いた。十一時までにすると決めていることが片付くなら構わないとイルノ・コチラットは言った。
「明日、十二時十五分まで海風の巣に来なかったら来ないと思っておいて、それまでは待ってて」とレ・ニはレ・キンに頼んだ。
レ・キンが電気屋を後にしようとした時、入り口の受付の側にある電話が鳴った。時計は五時を少し回ったところだった。レ・キンが呼ばれて、受話器まで行けばヤキ・ナリブレトで、夕ご飯についてだった。
「今日は米を食べたいのよね」と彼女は受話器越しに、早く帰ってよ、とも言った。簡単なものを作って一緒に食べようと言うから、他の連中はいるのか、食材は何が残っているのかだけ尋ねたら、「分かったよ。適当に買って帰るね」とレ・キンは電話を返した。
扉を押して外に出ると、珍しく涼しい風が吹いた。霧川のすぐ側に通る旧影道には、大通りほどの日当たりがない。ふと息をして歩き出そうとした時にバタンと戸を開けてレ・ニが出てきた。
「いたいた」とレ・ニが言う、「あぁ、思ってたより涼しくてびっくりしてたんだ」とレ・キンは振り向いた。
「霧川を滑り台にして鹿鎚の空気が通るんだ。この間歩いた時も結構涼しかったでしょ?」
「そういえばそうだったかな。あまり来ないからさ」
それだけ言ってレ・キンが道を下ろうとするとレ・ニは「散歩に誘うのは誕生日だけ?」と彼の袖を掴んだ。いや、と言おうとするレ・キンを遮って「三角辻橋の方にも良い市場があるから、付き合ってあげるよ。それほどの遠回りでもないでしょ」と彼を引っ張るのだ。なるべく急いで帰って支度がしたかっただけだと言いたかったのだが、別にわざわざ言い訳をする程でもないようにも思えたし、断るほどでもないので彼はそのまま三角辻橋の方へ、彼女の帰る方に行くことにした。夕暮れの旧影道には赤い紙のランタンがちらほらと下がっていた。二人の歩く長い影はまっすぐ前へ石畳の上に伸びている。一緒にいたいという気持ちはあるが上手く話すことはできないだろうとレ・キンは不安に思った。
「レモン食べたよ。誕生日プレゼントだったんでしょ?」
「何にしたの?」
「まず夕食の時にビールに絞った、次の日レモネードを飲んだ。あと今朝来る時に一つそのまま食べたよ。残りはお母さんが浸けてる。意外と美味しいね、レモンって」
「でしょう? みんなあんまり知らないけど、レモンってそのまんま食べても美味しいよね」
レ・ニとしては、どうせいるのだから付き合わせて話相手にすれば良いと思っただけで、彼女は人と話す度に深刻になるようなことはなかった。
「海風の巣に私も早く行きたい。みんないい人だし、仕事は一流、かっこいいわ」
「あそこはすごく、良い。きっと場所のお陰だよ。思いつけないものはないし、作れないものはないんじゃないかな。僕は何も作れないんだけど」
「何も作らないの?」
「作らないよ。僕はただ、アイデアを考えるだけ、いつだって客観だよ。自分の作品は誰かが完成させるから、目の前の作品の制作にのめり込んだ経験がない」
「どうして作らないの?」
「子供の頃の怪我のせいで手が悪いんだ。使い物にならない。多分、才能もないんじゃないかと思うけど、その前にほとんど役に立たない。字を書くことはできるけどね。左手なんかは全く動かないんだ」
レ・ニは驚いたようだった。申し訳なさそうに俯いた。
「でも、平気だよ。こうやってアイデアを作るだけで誰かが喜んでくれて、それで仕上げてくれる。たまには、僕を呼んで傍に座らせて喋らせながら作業する人だっている。求められてる気がして良いよね」
「素敵ね。アイデアも作品に違いないし。海風の巣に行ったら、あなたのアイデアで私が電気を作ったりするようになるかな」
「そうかもしれないね」
「そういえば、さっきイル・コと何か真剣な話をしてたでしょう? なんの話だったの」
彼女は何にでも興味津々で、その尖った耳はいつもよく気づくのだろう。
「町を出ることになるかもしれないんだ」
「え、どこへ行くの?」彼女は驚きと好奇心の入り乱れた顔でレ・キンを見つめた。
「南西の島だよ。都市計画の依頼があって、それがどうして僕の所まで来たかはわかんないけど、納得できるアイデアができなかったんだ。それで、イル・コに現地に行って完成させたいんだけどって、良いかなって聞いてた」
「遠いの?」
「船で一週間かかるって聞いてるよ。多島海の外れみたいなんだ」
「そこってまだほほろび海なの?」
「写真四、五枚の情報しか知らないんだからわからないよ」
「すぐに帰ってこられるの?」
「わからない。もしかすると行ってすぐに完成させて帰ってくるかもしれないし、ひょっとしたらアイデアを作った後にその町が出来上がるまで向こうにいるかもしれない」
「さみしくなるわね。でも凄く楽しそうだわ。お父さんは昔那々紙島に住んでたんだけど、よく年寄りの漁師が、ほほろびの多島海は広すぎて全部の島を知ってる人はいないだろうって言ってたんだって。それも多島海の外れでしょ。まるで、冒険じゃない。お供が欲しかったら、私も行くわよ。すごく楽しそう」彼女は笑いながら言っているが本当に羨ましそうに見えた。
三角辻橋に差しかかったときには既に日も暮れており、右岸の広場にはもうチャイハネが来ていた。レ・ニがレ・キンを連れて行く市場は、三角辻橋に交差する三本のうちの一つにある枇光地という商店街だった。キノコや、ゼンマイ、シナチクなどを買った。他には川魚もあったのでそれはレ・ニに選んでもらい、あとは野菜をいくつかだけ選んだ。ここはビヲズ山が近い為、これぞ山の幸という品が並ぶのだ。枇光地は旧市街の古き良き暖色の明るさとはまた違い、多少荒っぽい、雑だがとても優しい、そういう風な温かみがあった。
「ドラ・ハの家はこの道のもっとずっと奥なんだって」とレ・ニは言った。
旧市街と同じく建物は昔のままだが、アーケイドは時代によって新しくなる。海のものは高く、山のものと川のものは安かったので、レ・キンは得をした気になった。送ろうとレ・ニに申し出ると、「私が送ってくよ。白道の、昨日三人で夕日を見た辺りまで付いてってあげるわ」と言った。
レ・キンが買い物の紙袋を鞄に詰めていると「手が悪いからいつも背負い鞄を持ってるんだ?」とレ・ニが気づく。
「そう、手提げ可愛いんだけどね」とレ・キンは返した。
「いつも長袖なのもそのせい?」とレ・ニが聞くので彼はそうだと言った。
「腕が動かなくても、隠さないで良いと思うわ」
「動かないだけじゃないんだ。僕は左腕に秘密を隠してるんだ」彼はそう言って笑った。レ・ニが見たがるのでレ・キンは仕方がなく青白磁色のシャツを捲り上げて見せた。
彼女は驚きを隠せないで、口元は感動にほころんでいた。
「これは素敵よ。誰にも見せないで良いわ。隠しておくのはやっぱり正しいわね」と彼女は大きな目を輝かせ、その様に参ったと言わんばかりに首をふった。それっきりレ・キンの左腕については触れなかったが、また彼女の芸術が感化されたように見えた。
「こっちから見ると電気屋ってこんなに綺麗なのね」電気屋は静かに光って水面を照らしていた。誰もいなくなる夜の十一時半までいつも電気は消えないと彼女は言った。
つんと尖った小さな鼻と耳、大きな目は愛らしく、確かにとても可愛かった。短いおかっぱも似合っている。しかし、彼は自分がレ・ニと一緒になるだけの強さをまだ持っていないことにも気がついた。
ヤキ・ナリブレトと一緒にいるのはきっと恋をしているからではないとは思っていたが、彼女が必死になって自分を支えてくれていることはそれと同じ程重要だった。彼女は本物の家族のように、レ・キンを大事にしてくれた。ヤキ・ナリブレトなしに彼は生きていけないだろう。彼は別に弱さを恥じているわけでもなければ、普段弱さを人に心配されない程度にはでうまくやれていた。しかし、これからヤキ・ナリブレトと一緒にいた時間をレ・ニと過ごしたら、彼はきっと傾いてしまうと感じた。レ・ニはもちろんレ・キンを助ける必要があるとは思っていないし、もし彼を支えようという意思があったとしてもうまくはやれないだろう。レ・キンにはまだヤキ・ナリブレトが必要で、彼女がいくら自立を望んでいて、もう大丈夫だろうと思ってくれていても、無理なことだった。レ・ニに対する好意に変わりはないが、もし今一緒になろうとすれば天秤は弾けてしまうような気もした。もちろんレ・キンは心の中でそう感じただけで、口に出したわけではない。
そう考えると隣にいても窮屈には思わなかった上、レ・ニはレ・キンがぼんやりしていてもハキハキと自分の話をして彼を暗い気持ちにはさせなかった。船着き場の河岸で彼女が「楽しかったわ」と言い背を向け歩いていくのを見ると、納得できた気がして何か楽になった。ただ自分がどうすれば強くなれるのかは、考えつかないままで、考えないで歩いて彼は海風の巣へ戻った。
海風の巣に戻ってレ・キンが驚いたのはダャ・ロプシーもドラド・ハユィヒシもまだ残っていたからだった。海岸に二人が座って喋っているので、レ・キンはまだ居たのか、この時間帯に君らを見るのは久しぶりな気がするよ、と声をかけた。ヤキ・ナリブレトがみんなで夕食を食べようと言ったらしい。確かにヤキ・ナリブレトが電話で二人も残っているかもしれないとは言っていたから彼は食材を多めに買って帰っていた。「余ったら私が食べると思うけど、一応次の日も食べられるものにしといてね」と彼女が言っていたから、残っていないことを前提に考えていた。電話をした時ヤキ・ナリブレトはまだ二人を誘っていなかったのだろう。
ヤキ・ナリブレトとダャ・ロプシー、ドラド・ハユィヒシが一緒になる時間はあまり長くなかったために、こう誘われると二人は珍しいと思い残るに違いなかた。「ヤキ・ナは?」と尋ねるとまだ彫っているから、邪魔になっちゃいけないから外で喋っているのだと言う。ヤキ・ナリブレトの作業が一番はかどるのはいつも夕暮れ前からだった。レ・キンはヤキ・ナリブレトが集中していると声も聞こえないくらい没頭するから邪魔になるものなど何もないと知ってはいたが、彼らが知らないのも無理はない。レ・キンが学校を卒業して海風の巣へ通うようになる前からダャ・ロプシーもドラド・ハユィヒシは海風の巣に来ていたが、それでもやはりヤキ・ナリブレトと特別親しいのはレ・キンだった。
ヤキ・ナリブレトは海風の巣で一番の古株で、ダャ・ロプシーが来だしたのは彼女の入って数ヶ月経ったころだったらしい。ドラド・ハユィヒシが来るようになったのはレ・キンの来る一年ほど前だったはずだ。埠頭で話している時、ヤキ・ナリブレトが新しい子が来はじめたと言っていたのを覚えている。あなたより二つ上の、坊主頭の男の子が新しく来るようになったのよ、と言われたのを覚えている。ドラド・ハユィヒシはあの頃からいつも坊主頭だった。なぜか背はあれからだいぶ伸びたが、白い肌と細い釣り眉、鋭い眼、端的な顎筋は変わらない。埠頭ではいつもレ・キンが話し、ヤキ・ナリブレトは自分のことを多く語らないが、自分の周りのこと、例えばダャ・ロプシーやドラド・ハユィヒシのことに関しては全く話さなかったわけではなかった。ずっとダャ・ロプシーとヤキ・ナリブレトの二人しか海風の巣にはおらず、彼らは入れ違いに作業をし、ほとんど話さなかったが、ドラド・ハユィヒシが来るようになってからはダャ・ロプシーがドラド・ハユィヒシが帰るまで待つようになったので少し話すようになった、なんて話をしていたのをレ・キンは覚えている。
当時十四歳だったレ・キンはヤキ・ナリブレトの話す面白い仲間たちに憧れて、自分もそこへ行きたいよ思うようになった。今より人と向き合うことを恐れていたレ・キンは学校を卒業して少し経ってヤキ・ナリブレトから海風の巣に来るよう誘われとても安心した。自ら言い出すのはどうにも難しかったのだ。彼女は、何も作れなくたって良い、まだあなたは若いし自分の得意なものを見つけるまでは色々探してみれば良いのだと背中を押してくれた。海風の巣に通うようになってすぐの頃彼に最もよくしてくれたのは五つ年上のダャ・ロプシーだった。
年の近いドラド・ハユィヒシはあの頃少し高慢で、更には人見知りでもあった。黙って絵を描いては外に休憩へ行くばかりで、彼とは大した会話をしなかった。今ではどうだろう、ドラド・ハユィヒシとの方がレ・キンはよく話しているかもしれない。ダャ・ロプシーは当時から陽気だった。しっかり者で真面目なのを隠すようにキョロキョロと動くあどけないアーモンド型の大きな目と太い眉も相変わらずだ。レ・キンに比較的まともに動く右手で適当に思うことを書けば良いとペンをくれたダャ・ロプシーは、物語や、詩、絵などの基礎を丁寧に教え、それがそれなりにできるようになったのを見て、自立を促すよう、遠くから見守るようになった。紫の海螢が波で砕けるのを眺めながら、三人は昔のことを思い出し話していた。
そろそろ入って支度するかい?とダャ・ロプシーが言って三人は裏口から台所に中に入った。「どうせヤキ・ナは終わったらぺこぺこで自分でご飯を準備したりもできないんだよね」とレ・キンが言うと二人は驚いた。いつもレ・キンが準備してやっていることを知らなかったようだった。買ったものをテーブルに並べると、ダャ・ロプシーはとても喜んだ。彼の実家は霧打ちの根元のぽつぽつと並んだ民家の一つでもっぱら霧川埠頭のものばかり食べているらしく、山のものが食べられる日はご馳走だと言った。ドラド・ハユィヒシの家は山の方だったから、枇光地に行ってきたのか、とすぐに気づいて献立は任せるよう言った。
ドラド・ハユィヒシが記憶を辿って料理の指事を出して、レ・キンとダャ・ロプシーは言われた通り包丁やらを動かす。山菜をお浸しと天ぷらに、キノコと山芋のスープも作った。ご飯を炊いている間に、また三人で外に出て川魚を塩で焼いた。こうやってみんな揃ってご飯を作ったことはなかったかもしれない。レ・キンが海風の巣に通うようになったのは六年前だったが、揃って食べた記憶はなかった。昼食を三人で食べたことは何度かあったが、いつもそこにヤキ・ナリブレトはいなかったし、夕食の時間にドラド・ハユィヒシとダャ・ロプシーがいることもなかった。本当に初めてだったのかもしれない。四人の若者たちは自由だった。お互いを尊重し合ってもいた。のんびりとしたこの空間では各々の領域に土足で踏み込むことはなかったが、寄り過ぎるよりは距離をおいたほうが無難であると考えがちだった彼らには、今日の夕べのような団欒が欠けていたかもしれない。
レ・キンが食器の類を持って部屋に入ると、一仕事終えたヤキ・ナリブレトがテーブルに突っ伏していた。途中の彫像には黒い布が被せられていた。今日の仕事はすっかり済んだという印だ。彼女は、掃除も片付けも済ませている。テーブルもすぐに食べられるように片付けられていた。
「お茶どうぞ」
「ありがと」
ヤキ・ナリブレトは顔を伏せたまま手探りで、テーブルの上を、置かれた音を頼りにコップを探している。レ・キンは倒して火傷してはいけないと思い、彼女の左手をとり、ゆっくりコップのそばまで導いた。爪でコンコンとコップを叩いてやったら、彼女はコップをゆっくり触った。
ゆっくり顔をあげて、「今日はとても疲れたわ」と彼女は言った。どうしてかとレ・キンが尋ねると、たくさん進めたからだと言う。あの黒い女の彫刻は明日にでも完成するそうだ。「それは良いことだね、美味しいご飯を三人で作ったから待ってて」とレ・キンが言うと、頷いて大事そうにコップを両手で包んで、ゆっくり飲んだ。
四人で並んで食べる夕食は特別だった。ダャ・ロプシーが「こういうのはこれからも時々やった方がいいんじゃないかね?」と言うと、ヤキ・ナリブレトが「私、多分手伝えないから申し訳なくなっちゃうね」と呟いた。もちろん、遠慮気味ではあるがもちろん定期的に皆で夕食をする意見には前向きな口調だった。
「構わないんだよ、そんなことは。三人もいるんだから、君は邪魔になるかもしれないぜ? 黙って彫刻を進めてりゃいいんだ。ヤキ・ナは食べる係だ」とドラド・ハユィヒシが言って、ヤキ・ナリブレトの椀に一杯おかわりの米を装い、彼女は「悪いわね」と嬉しそうに言った。「あまり食べないんだな」とドラド・ハユィヒシがレ・キンを指して言うと、ヤキ・ナリブレトは「レ・キンがあまり食べないのはいつものこと、彼が二人前の夕食を買ってきて彼が余したのを私が全部食べてるの」と話した。
毎日のように会っているのにお互いのことをあまり知らないでいるのは不思議だとレ・キンは思い、更には後悔めいたものが浮かんでいた。
「いつもよりは食べてる方だよ。今日のこれ、特別美味しいしね。こう、手作りのやつさ、しょっちゅうは食べらんない感じがして、もうお腹いっぱいなのに多く食べちゃう」
山菜は特に美味しい、四人ともが感じていた。天ぷらも美味しかったがレ・キンは多く食べられないし、特にお浸しをたくさん食べていた。キノコと山芋のスープも美味しかったが、それはどちらかというと整いすぎた味だったかもしれない。
食事が済んでも小一時間話していたが、レ・キンは終ぞ、あの写真の島へ行く話ができなかった。三人がこれからもっと、こうやって夕食をみんなで食べたいね、という話をしているのに、そこで切り出すのは少し気が引けたのだ。きっと三人とも喜んでくれるだろうし、ダャ・ロプシーなんかははしゃいで羨ましがるだろうと分かっているが、言い出せないままだった。明日、五色岩に行く時間を確かめるとダャ・ロプシーとドラド・ハユィヒシは帰り支度を始めた。レ・キンがレ・ニも来るかもしれないと話すと、ダャ・ロプシーは久しぶりになるなぁと喜んでいた。
その晩、ヤキ・ナリブレトは次の日、五色岩に行くのに寝坊してはいけないからと海風の巣に泊まることになった。それにはレ・キンも付き合うことになった。彼も明日の朝寝坊してワイ・トゥレに待ちぼうけを食わせる訳にはいかないので好都合だった。
ダャ・ロプシーとドラド・ハユィヒシが出ていった後、二人は寝床を支度して、外を歩くことにした。いつものように南の埠頭まで歩いて、お茶を飲んで戻ろうかという話になったのだ。海風の巣から埠頭までを歩くとだいたい四十分くらいで、レ・キンは島を出ることを彼女には話せるだろうと思った。島を出ることになるかもしれないことは、特に彼女には話しておきたかった。別に隠そうとしているわけではない、たまたま言うタイミングを見出せなかっただけだ、現に彼はレ・ニには話していた。
「私は着替えを取りに行ってシャワーも浴びるからその間ひとりで埠頭で待っててもらえる?」
「構わないよ」
きっと、埠頭に着く前に話しておいたほうがいいのだろうとレ・キンは思った。海風の巣を出て、霧打ちを歩きながら、ここを歩くのがもう何度もないのかとレ・キンは寂しく感じた。相変わらずヤキ・ナリブレトの懐中電灯はいたずらに闇を照らしてくるくると回っていた。
「僕が今やってる依頼の話って前にしたっけ?」
「聞いてるわ。南の島の道路とかそういうの決めてるんでしょ?」
「そう。ヤキ・ナはこの町を、溺れ溪を出たことある?」
「ないよ」
彼女は遠く海を見ていた。そして、そのまま続けた。
「でも、ずっと渦珠川の上流にどんな世界があるのか、知りたいと思ってるし、レニエタを別の角度から見てみたいとも思うし」
「僕は雚見ヶ丘に上がったことすらないよ」とレ・キンは笑った。
「あんなに近いのに。レ・キンの部屋から頂上の大きな岩もよく見えるじゃん」と意外そうにヤキ・ナリブレトは言った。
「行こうとは思っているんだ。いつも思ってるよ。でも、行ったことないんだよね。坂を登るのは大変だし、いつかは行きたいんだけれどね」
二人は霧川大橋に差し掛かり、そして、埠頭のチャイハネでお茶と飴を買った。今日の夜は積極的に寝ようとする日だった為、コーヒーは買わなかった。
「今日行けば良いんじゃん?」
レ・キンはヤキ・ナリブレトの顔を覗いた。昼には見せないような、スッとした明るい顔だ。夜行性の動物がワクワクしながら出かける時間の顔だった。
「埠頭は?」
「後でいいじゃんか。あなただってシャワー浴びたり着替え取ってきたりしなきゃ行けないでしょ? だから坂を上がって、ひと汗かいたらお茶を飲んで、あなたのうちに戻ってシャワーを浴びて、着替えをとって、埠頭に行けば良いの」
「そうしようか」
レ・キンは一つ目の水筒の蓋をキュッとしめ、いつもコーヒーを入れる方には冷たいお茶を入れて、背負うと東の丘へ向いた。歩き出した。大通りの灯りはまだほとんどついたままで、それが点々と丘の上へと続いていた。夜はバーも開いているし、九時を回ったばかりの三架通りにはまだ人が歩いている。
昼間は気だるそうにふらふらと歩くヤキ・ナリブレトも、今は夜行性動物さながら跳ねるよう軽快に歩いていた。いつもの彼女だった。長い髪は闇の中で揺れている。彼女がどうして髪を結わないのかを尋ねたことがレ・キンにはなかった。疑問に思ったのはその日が初めてではないはずなのに。
最終の路面列車がすぐそこで笛を吹いて三架通りを丘へ上がって行った。「もう少し早ければ乗れたね」と言うと、「せっかく初めて登るんだから歩こうよ」と彼女は言った。アパルトマンを指してあの部屋に住んでいるのだと教えると、「思ったより綺麗ね。レ・キンは古い古いって言っていたけど、素敵じゃない。ベランダの柵なんて私の好きなタイプよ」と彼女は言った。
坂を上り始めて、今やっている仕事のできに納得できていなくて、実際にあの島まで行って考えてみようかと思っているとレ・キンは伝えた。
ヤキ・ナリブレトは少し驚いた表情で向いて、「行ってしまうの?」と彼を覗き込んだレ・キンは黙って頷いた。今日決まったのだと言うと、「良いじゃない、腕も上がるはずよ」と彼女は言うが、寂しさが隠し切れていなかった。
レ・キンはその島の話をした。ワイ・トゥレが言うには、那々紙島から一週間かかるとか、ほほろびの多島海の外れにあって、他の島々とは少し離れているだとか、笠のような形をした黒い山が真ん中にあるだとか、そういう話をした。
丘の坂を上がり、ベランダから毎晩見ていた街灯の灯りを揺らしていた木々はマテバシイの仲間だとレ・キンは知った。彼はその樹種が分かるほどの距離にすら行ったことがなかったのだ。
レ・キンがいつ言おうかと悩んでいた言葉はすんなりと口を出て彼女の耳へ入った。
「きっと、ひとりくらい一緒に連れて行かせてくれると思うんだ。僕と一緒に来ないか?」
ヤキ・ナリブレトは嬉しそうに見えた。ちょうど埠頭の側でふたりを追い越して行った最終列車が町の方へ戻っていく。すれ違いに、何人か乗っているのが見え「今の時間に下りてどこへ行くんだろ」とヤキ・ナリブレトは言った。また下りていく列車を見送るように麓を覗くと、町の夜景が見えた。
レ・キンは、きっと彼女が自分と一緒に来ないかと誘われたことを忘れたふりをしているのだろうとレ・キンは思ったが、ヤキ・ナリブレトは最終列車の話をしながらただ、人は帰っているのか、どこかへ行っているのか考えていただけだった。丘の上にある住宅群は頂上より少し下に広がっている。列車の停留所も頂上の方ではなく居住地の一帯へ続いており、分かれ道を過ぎると辺りはしんと静まり返った。マテバシイが小道の空を覆っていて、また多少の標高のせいか風がよく吹いて木々が鳴っていた。
程なくして二人は頂上に出る。ヤキ・ナリブレトは丘の頂上に着いて、メンヒルの足元でも島へ行く話に触れなかった。きっと、彼女はこれからもこの町で彫刻を作り続けたいと思っているに違いないし、きっと、そろそろ過保護になりすぎるのも良くないと感じているのだろうとレ・キンは想像した。頂上にはメンヒル、大きな石の他には何もなく、その周りはただ森になっており、人工物はほとんどなかった。ただその石は大きく、周りの木々よりも背丈があった。誰が何のために置いたのか、それとも昔からこのように立っていたのか。町の見える方角に生えている木は切られており、十メートルほど下まで草だけの斜面が続いている。草はらの斜面に腰を下ろして二人は冷たい茶を飲んだ。空気はぬるく、どろりとした液体のようにゆっくり吹いていた。
「ひとりで町を出ていくのなら、それはきっとレ・キンが今より強くなるきっかけになるだろうな。きっとチャンスよ。だから私は、あなたがひとりで行こうとしているなら、ついて行かないわ。でも、私が来なくても誰か他の人を連れて行くって言うのなら、私は行くよ」座るなりヤキ・ナリブレトは彼に言った。
丘の上からは町の全体が見えた。北には媚嗚手山が霧打ちに続いて細くなって海に沈む先端までが見え、大灯台は青白い光で海に合図を送っている。南には御杜治マも見える。町は山に囲まれた小さな隙間でしかないようで、霧川埠頭や三角辻橋のあたりもただの小さな光に過ぎなかった。静かな紫の海螢の方がよっぽど力強く、人の生活は少しの波でもめちゃくちゃになりそうだった。そしてその生活すらも彼には大きく手に負えないものだった。
「僕は君に来て欲しいと思っているよ。他に誘う人は思いつかない。レ・ニは来たがっていたけれど、確かに僕はレ・ニのことが好きだし一緒にいたいとも思うんだけれど、ヤキ・ナがいなければそう思うこともないと思う。君が支えてくれない世界では、僕は人との距離をどんどん遠く錯覚すると思う。まだひとりで世界に触れられるほど僕は強くはないんだよ」
彼女はコップに注がれたお茶を一気に飲んで、ほっと息をつきながらレ・キンの肩に寄りかかった。
彼女はポケットから飴を取り出し、包みをほどきレ・キンの口へ直接運んだ。彼女の冷たい左手はそのままレ・キンの右頬を撫で、レ・キンは当惑すると同時に心が安らぐのを感じた。しばらくして彼女は正面に向き直り膝を抱えるように町の明かりを眺めた。
「私がいると、きっとレ・キンは一生、ひとりで生きていくことはできないし、他の女の人をちゃんと好きになることなんてないよ。あなたは無理をしてでも自分だけで歩ける人になろうとしないといけない。私の力を借りて一人でないような気になっていることは、同時に私以外の人には、ちょうど良い距離より近づけないってことだと思わない? それは確かに一人よりは良いことよ。でも一度一人で向かう方法を覚えたら、もしかしたら今より良くなるかもしれない。私はそうするべきだと思うよ。そうでないと、ずっとこのままね? それでは困るでしょう。でも、もし、ずっとこのままでも良いって思うなら、私を取りなさい」
坂を下って、アパルトマンの階段を登る、レ・キンは扉を開けて彼女を初めて自分の部屋に招待した。何か飲むかと尋ねるとヤキ・ナリブレトは「あなたは普段ここで何を飲んでいるの? おんなじものを頂戴」と言った。彼はレモネードを自分のいつも使う薄紅のひびの入ったコップに作って、「いつもベランダで町を見ながら飲むんだ。まあ好きにしてて」と言ってシャワーを浴びに行った。
ヤキ・ナリブレトはほっとした気分でいた。成り行きとはいえ、初めてレ・キンの部屋に招かれたことは二人の関係が変わりつつあることを示しているように思えた。彼女はレ・キンが言ったようベランダに出て、そこで夜の溺れ溪を眺めた。彼女の実家は北西の山裾にあった為に見えず、もちろん今住んでいる家も、海風の巣も見えなかった。しかし彼女が町を一つの広がりとして見ようとするとき、そこに自分の馴染み深い建物が見えなくても問題がなく感じた。十二時の鐘が丘の裏から聞こえる。普段、南の埠頭でレ・キンと聞く鐘は、しばらくの間認識されないまま逆の耳から流れ落ちていたのだと気がつき、忘れていたものをまた思い出したときの喜びにしんみりと浸かった。
冷たいレモネードを飲み終えて彼女はレ・キンのベッドに腰を掛けたが、部屋に戻り彼の生活に囲まれるとすぐに落ち着かないような気にもなった。ヤキ・ナリブレト手の皺をなぞりながらじっと左の小指を見つめた。紫の硝子の指環がはまった小指を見ると、それが異なる自分の指であるかのように思われた。彼女は自分の気をそらせようと黒いワンピースの裾をいじる。ヤキ・ナリブレトはレ・キンにあのように言ってよかったのかと自問していた。
レ・キンがシャワーから出て服を着ると、二人は南の埠頭へと歩いた。お茶はもう空になっていた上、チャイハネもこの時間は帰っているはずだったので彼らはやかんで湯を沸かし、自分たちでお茶を淹れ持っていった。その日は珍しくヤキ・ナリブレトが水筒を持った。「なんだか今日は寒いようなの。保温の水筒でも、ほら、温かいでしょ?」と水筒をレ・キンの左腕に当てた。レ・キンの左手が動かないことを彼女は思い出したが、彼は「動かないけれど感じることはできるんだ。温かいのは分かる」と言った。そう聞いて彼女は右手でレ・キンの左手を握った。彼女の腕はレ・キンのものより長く、細い。レ・キンは一切冷たさを感じなかったが、彼女に手を握られてその手が幽かに震えているのがわかった。ひんやりとしているのはいつもと同じだったが、彼女の手は怯えているように震えていた。その手を握り返してやれないのをレ・キンは残念に思った。
翠巴川埠頭で小舟のそばをかけっこするように風が吹いている。それを捕まえようと海はさざ波を立てる。そんな風景を見るでもなく、視界に入れ、二人はほとんど喋らないで、ガートに座り数分を過ごした。彼女は手を握ったままで、お互いは相手が何を考えているのだろうと考えてみたりするのだ。レ・キンは彼女からいつも感じる夜の自信のようなものをあまり感じられないでいた。彼女は不意に何かを呟いたようだったが、それもすり抜けて消えていくように細く消えた。珍しく他に誰もいない翠巴川埠頭にはただ風の音、波の音、水銀燈の時折たてる点滅の音だけが聞こえ、嗅覚は磯の香りに覆われていた。
お茶を飲み終えないうちにヤキ・ナリブレトは「そろそろ行こうか」と言って立ち上がり、レ・キンは「ここで待ってるね」と言った。彼女がシャワーを浴びて着替えを取りに行く間彼はここで待っているつもりだったからだ。「おいでよ。暇でしょう」と言われレ・キンはお尻の小石を払いながら立ち上がり彼女についていった。いつも渡らないでおやすみを言い別れる橋を、一緒に渡るのは不思議な気持ちがした。いつも彼女が消えていく御杜の小道を一緒に進んでいくのもレ・キンには不思議だった。彼女の家は御杜治マを少し上がったところ、森の中にあった。小さな小屋は彼女が買った頃はもっと汚かったのだと言う。そこへ続く道も昔の林道で、辺りには彼女の他に住んでいる人はいないのだと言う。
ぎぃと重い音を立てて扉は開き、二人は中に入った。レ・キンの思っていたよりは広いが、普通の一人暮らしの部屋よりは格段に小さかった。大きなベッド、大きなテーブル、小さな台所と流し、風呂それだけだった。テーブルにはちょうど椅子が二つ、その一つに彼は座り、彼女はシャワーを浴びた。レ・キンは残ったお茶を水筒から飲みながら暗い部屋を見回した。灯りが一つもないせいで、彼女はまるでここに隠れて暮らしているように見えた。真っ暗に見える夜空はこの暗い部屋から見れば青く明るい、その光は御杜治マの向こうから来てこの大きな窓に入る。シャワーから出たヤキ・ナリブレトは明日は五色岩に行かないことにしたと言った。また今から海風の巣へ帰るのは面倒だと言う。それは当然だった。レ・キンも当然、億劫に思っていたし、できればそのまま居たかった。
「あなたもわざわざシャワー浴びて着替え持って自分の部屋を出てきたんだから、帰るのは面倒でしょ? 一人で海風の巣に戻っても仕方がないし、今日は泊まって行きなよ」とヤキ・ナリブレトは言った。レ・キンはありがとうと言った。
「悪いけど私はまだ当分寝ないから、眠くなったら勝手にあの広いベッドで寝て」と彼女は言った。
「平気?」
「スペースが空いてるようなら私もベッドで寝るけど、無理そうだったら、よそで寝るわ」
レ・キンはもう一度軽くシャワーを浴びて、すぐに彼女のベッドに入った。そのベッドからは彼女からいつもしていた匂いがした。いや、そのベッドからする匂いがレ・キンにヤキ・ナリブレトに匂いがあったことを思い出させたと言うべきかもしれない。それは木の匂いだった。ヤキ・ナリブレトは家でも彫刻をやっているようだった。ほんの少しの夜空の灯りで彼女は何か、小さなものを彫っていた。おやすみと言ってからも当分の間、レ・キンは彼女が彫っている音を聴いた。そしてぼんやり眠りに落ちていきながら彼女を眺めていた。こぎみいい音は簡単にレ・キンを眠らせた。彼にはヤキ・ナリブレトの濡れた長い黒髪がどこかで見たことがあるものに思えた。彼はそれを思い出そうとするうちに眠ってしまった。
朝起きるとヤキ・ナリブレトはベッドの柱と部屋の中央にある太い柱の杭にハンモックをかけて眠っていた。彼はヤキ・ナリブレトに頬を撫でられたように、彼女の温もりをそばに感じたように思ったが、それはきっと夢だったのだろう。他人の家で眠ると普段より早く起きられるようで彼は八時には服を着て海風の巣に向かった。彼女は当分起きないだろうとレ・キンは黙って家を出た。朝の魚市で活気のある翠巴川埠頭を抜けて、もっと人通りの多い霧川埠頭も抜けて、急いで海風の巣へ向かった。ダャ・ロプシーによって床に敷いていた布団は既に片付けられていた。
「ヤキ・ナは来ないよ。着替えを取りに帰って、そのまま戻るのが面倒になって眠ってしまった」
「そうか、まあ、そんなもんだろうと思ったよ」ダャ・ロプシーは水着や水中眼鏡を準備していた。これには度の入ったやつで、特注なのだと誇らしげに言った。
「もうそろそろワイ・トが来るはずなんだけどな」
「とっくに来てるぜ? 裏で釣りしてるよ。早く行ってやれよな」ドラド・ハユィヒシがキャンバスに向かったまま言った。彼は出発の時間までいつも通り絵を描いて休憩して、を繰り返すのだろう。
裏の防波堤に腰をかけて釣りをしているワイ・トゥレにレ・キンは声をかけた。堤防の下に椅子を持っていってそこに座り彼に話しかけた。
「随分待ったぞ。できたかい?」
「言った通り、できたはできたんだけど、何を変えても変わった気がしない、これで良いのかってのがさっぱり。魚は釣れてる?」
「三十分で、五匹、まあまあ釣れた方だと思うだろ。ああ、あと、小さいタコが釣れたさ」
「それ生きてるの? タコ」
「生きてるとも。空き瓶ごと釣り上げたんだからな。そこのバケツ見てみな」
「ほんとだ。ねえ、これもらっちゃ困る? 僕このタコ欲しいな」
「構わないさ、食うのかい?」
「いや、どうしようかな。飼いたいな」
「タコなんて飼えるのか? 聞いたことがないけどな」
「まあ、何とかなるでしょ。それより、ひと段落したら僕の書いたもの見てくれない?」
「ひと段落って、いつだよ。もう一匹釣れるまでかい?」
「何分待つかわからないよそれじゃあ。釣れるまでそっちに上がって話に付き合うよ」
レ・キンは椅子の上に書類を置くと、水筒を重石にして堤防に這い上がった。
「で、何が納得いかないのさ?」ワイ・トゥレは遠くの海を眺めながら言った。
「一応一通りは済ましたんだけれどね、僕はその町に行ったことがないんだ。どんなところなのか、あのちょっとの写真を見ただけじゃ、見当もつかないし、ぴったしはまったような気にならないんだ」
「自分だって行ったことないからなんとも言えんね。何たって、南西の、ほほろび海のはずれより向こうにあるらしいんだから。でも、うちに依頼の紙を持って来た漁師はよそ者で爽やかな案を出せるやつなら文句はないって言ってたのさ。自分は他の島にも何人も知り合いがいるけどね、話をもらった時レ・キン以外のやつは思い浮かばなかったよ」
「ああ。きっとこれは僕にぴったりの仕事だと思うんだ。でも、今のままで向こうに渡すのは正直納得がいかない。だから、大変なお願いかもしれないけれど、どうにかその島まで僕を連れてってもらうことはできないかなと思ってて」
「わざわざ行くって言ってるのか? そりゃ、自分は構わないけれどね、どんなところか分からないって言った通り、保証はできないよ。それに、おかしな黄緑色の光る水が川に流れてるって聞いたぞ」
「構わないよ。それが実際どう見えるかなんかを確かめたいんだ。もうイル・コにも相談して、僕の方の決心は付いているんだ」
「いつ戻るつもりなんだ?」
「向こうで書類を仕上げてからか、それとも工事が始まってからも少しいるかもしれない。今は何とも言えないよ」
「そうか。心細くはないか? 二十一年過ごした町だろう」
「うん、そりゃあね。でも一生戻らない訳じゃないし、あと、ヤキ・ナも一緒に連れて行きたいんだ。彼女は構わないって言った。僕と一緒に来てくれるって」
「レ・キンがヤキ・ナと仲がよかったなんて知らなかったな。もちろん構わないさ。それに、あなた自身が明後日一緒に来るんなら、仕事の内容もここで確認しないでいいよな。明後日は特別にここの岸まで船を運んで来るから。ヤキ・ナのやつに寝坊しないで来るよう言っておくんだ。朝一で出るからな」
魚は釣れなかったが、話が終わるとワイ・トゥレは釣り具を片付け、すぐに歩いて帰っていってしまった。彼はバケツを置いていった。その中には曇った小瓶の中でうずくまる藍色のタコがいた。
ワイ・トゥレ自身も寂しさを感じていたのかもしれない。別の島で暮らしていて会うのが一、二週間に一度であれ、レ・キンとワイ・トゥレは友達だったのだから。だが、彼は義理堅い男だ。レ・キンはワイ・トゥレならきっと良いように手配してくれるだろうと安心していた。寂しさはゆっくりと実感になりつつあったが、二度と帰らない訳ではないのだと自分に言い聞かせた。
テラスでダャ・ロプシーと雑談をしたが、その時なぜか彼はさっきワイ・トゥレに言ったばかりのことを話すことができなかった。レ・ニは昼前に顔を出した。よく来たね、と一通りの挨拶だけをして、四人は五色岩へ向け出発した。レ・ニの持って来たサンドイッチはレ・キンが背負った。五色岩は霧打ちの先端にあるが海岸線に沿った道は海風の巣で終わっている。そのため彼らは霧打ちの森に分け入り獣道を歩かなくてはならない。レ・キンが険しい森に入るのはそれこそ七年ぶりくらいで、上手く歩けるか不安ではあった。
霧打ち半島は山脈から直接伸びた尾根である為、フタバガキの混生林だった。林床にはそれほど多くの植物は無く、木の根元から時々シダが生えている程度のことで、彼らが歩くことを阻もうとするのは主に傾斜だった。今日は相応に暑かった。ジリジリと暑さが肌を叩いているのが常に感じられるような日だった。木々が光を遮ってくれているとはいえ、皆汗をかいて、息を切らしていた。乾いた地面には獣の足跡は一つも残っていなかった。媚嗚手筋の脇の道の奥では山犬やイノシシがいるという話はあったし、霧川、翠巴川の上流部である渦珠川にはギボンザルも住んでいた。だが、この辺まで下りてくる獣は少ない。彼らが歩いている獣道はただ、昔もっと多くの獣が海のそばまで下りて来ていた時代にあったものを人が踏みならしたのか、それとも人が頻繁に五色岩へ赴いていたことにあった道の名残なのか判らなかった。
とにかく彼らは黙々と歩いていき、彼らの上を覆う樹冠では決して姿を見せない鳥がよく響く声で鳴いていた。ドラド・ハユィヒシなら鳥の名を知っていただろうが、口を開く余裕はないようだった。遠くから仲間の鳥が返事をするのを聞きもする。霧打ちの標高は雚見ヶ丘に比べるほどでもないが、傾斜のせいでレ・キンにはこちらの方がよほど堪えた。尾根まで上がるとあとはそれに沿って歩くだけでだいぶ楽になったから皆の口数も増えたが、息を切らして歩き続けていることに変わりはなかったのですぐに話題も尽いたようだった。前行ったとき、イルノ・コチラットの測量を手伝ってそこでお昼を食べたらしい。岩場になっていていい日陰もあるのだと言う。その程度の会話だった。
尾根をゆく途中に大きなサイカチの木があったが、金の花は一月にはまだ蕾だった。きっともうすぐ咲いて賑やかになるだろうが、その頃にはもうレ・キンは溺れ溪にいない。サイカチの根際に尾根から下りる道があった。斜面を下るその道はなだらかに下へ続いており、すぐに波の音を感じ始めた。木々の隙間から岩場が見え始め、程なくして白く砕ける波が、青い海がひらけた。灯台のある五色岩まではそこから海岸伝いに行けるようで、岩場と山の隙間に道があった、それはちょうど霧打ちの北側らしく比較的涼しかった。その道は満潮の跡よりも高く、その時間の波打ち際からは三メートルほど離れていた。海風の巣を出てもう三十分が経っていたが五色岩はまだずっと先だった。
岩場の道から遠くに古い灯台のてっぺんが見えるがそれは一向に近くならない。当然、海も五色などといった大層なものではなく、打ちつけては白く砕け泡となる荒い波だった。溺れ溪ではなかなか見ないような荒波で、道から岩場までは一メートルほど低いにも関わらず、いつしか波が道を歩く彼らをさらっていきはしないかと心配になるほどだった。また、その反対の側へ目を向ければ霧打ちの斜面は徐々に緩やかになって、少し先でほとんどこの岩場の上をゆく道と同じ程度の高さになった。そこまで歩けばやっと南からの太陽が差し、彼らは束の間、暑さを忘れていたのだということを思い知った。霧打ちの尾根は標高をすっかり失い、岩場に落ち込んでいるが、まだその先にこんもりと島のように木の生えた一帯があった。
橋のような岩場の道から両脇の海を見てレ・キンはいたく感銘を受けた。それは全く対照的で不思議でもあった。霧打ちの側、すなわち南の水は穏やかに揺れながら寄せるが、反対に北側では荒く叩きつけ渦巻いているのだ。彼が見たことのない別の海は、溺れ溪の海に比べられることでようやく実感に変わり、その実感は同時に見知らぬ地へこれから旅立つ自分に芽生えた不安にも似ていた。岩の橋の向こうにある小さな陸繋島は大して標高もなく森の中をそのまま縫って歩けそうなものである。その島にだいぶ近づいてからさっきまでてっぺんを覗かせていた灯台が見えなくなっていることに気がついた。それは島を抜ければもうすぐなのだ。先頭をせっせと歩いてゆくダャ・ロプシーは森には入らずに島の左手、すなわち南の側を回るように進んでいく。その島の北側は岩場、南側は小さな砂浜になっていた。何故ダャ・ロプシーが南へ回ったのか、その理由はすぐに判った。島の中の珍しい形の木々が枝を地面にまで垂れしており、それがまるで柵のように見えた。それは榕樹の仲間であり、垂れる枝に見えるのは気根だった。近づけば森に見えたのはたった一本の榕樹で、びっしりと下された気根も、その根元生えるアザミと太い蔓も、見るからに歩きづらそうな格好をしていた。
「溺れ溪の近くで砂浜があるのはここと御杜ヶ浦だけなんだってよ?」
ダャ・ロプシーは言った。レ・キンは生返事をしながら、もっぱら榕樹の森の中を見ながら歩いていた。そこは奇妙な場所だった。分け入って歩くのは確かに簡単ではないだろうが、そこには明らかに空間があり、何かを守る為の空洞になっているようにも見えなくはなかった。島を迂回して歩くにはそんな時間もかからず、二、三分のうちに向こう側へゆき、大きな灯台の下に着いた。
青いレンガで出来た高い灯台はいくつかの大きな岩の山の上に建っており、どうやら岩場の真ん中にある最も大きな岩を支柱に建てられているようだった。さっきまで歩いていた道のそばにあった岩とは比べものにならない大きな岩で山の高さもは八メートルほどあった。灯台の根元まで登るために縄ばしごが垂れていた。レ・キンはドラド・ハユィヒシの手を借りてなんとか上がった。灯台の根際に荷物を置いて、北側の平らな岩に腰をかけてレ・ニの持ってきたサンドイッチを食べた。五色の波が見えることもなく食べ終わった。
「やっぱり五色の波なんか見えないじゃないか」
「この間はちょっとよく見るくらいで分かったんだけど、今日はそんな気配もないよなぁ」
ドラド・ハユィヒシがダャ・ロプシーをからかううと、彼は言い返すでもなく不思議そうな顔をして七間向こうの海を睨んでいた。
彼はまだ見えたんだと言い張っていて、結局レ・ニとレ・キン、ダャ・ロプシーは三人で灯台の岩から下りて、波打ち際の近くの岩まで行った。三人はいずれも腹ばいになって、しばらく波を眺めていたが、青緑の潮の色が濃い青に変わる境があって、もっとずっと遠くでその青にも境があり向こうでは黒っぽく変わっていると分かっただけだった。
ダャ・ロプシーは最後水中眼鏡をつけて波に顔を浸けてまで覗きに行った。レ・キンとレ・ニは諦めて立ち上がり、顎の砂を払って岩の隙間を走るカニを追ったり、水平線に那々紙島の影を探したりした。それもすぐに飽きて二人は灯台に戻った。ドラド・ハユィヒシはまたレ・キンの両手を取って上がるのを手伝ってくれた。
灯台のそばに座ったまま彼は何か描いていたのだろう。荷物の傍にはスケッチブックが閉じられていた。ドラド・ハユィヒシが那々紙島の島影をレ・キンとレ・ニに教えていると、ずぶ濡れのダャ・ロプシーが岩を這い上がって来た。それを見ると三人は笑い出してしまったが、ダャ・ロプシーはいつものようにおどけてみせるわけではなく、訝しんでいるのでそれがまた三人には面白かった。ドラド・ハユィヒシがタオルを投げてやると、ダャ・ロプシーは神妙な面持ちでいるのをやめた。
「君らも泳ぐんじゃないのか?」
そう言ってタオルを投げて返すと、そうだった、そうだった、とレ・ニもドラド・ハユィヒシも着替えを始めた。濡れたシャツを岩に干したら、もう水着になっているダャ・ロプシーと泳がないレ・キンは先に灯台から下りて陸繋島にある浜辺に歩いていった。
五色岩のすぐ先では波が荒く流されないだけで精一杯だったとダャ・ロプシーは言った。水中には何もなかったのか、とレ・キンが聞くと、何かはあるようだったと答え、いつかちゃんと綱でも準備してあそこの海の下を調べた方が良いとも言った。浜辺にもうすぐ着くというところで後ろからレ・ニとドラド・ハユィヒシが追いついて来た。
レ・ニは赤色の格子模様が入った水着を着ていた。ドラド・ハユィヒシはレ・ニの水着と同じ柄の水泳帽をかぶっていた。
「君ら、柄お揃いじゃない。たまたま?」
レ・キンが驚くように言った。いつも麻色の服ばかり着ている彼が赤の格子柄の帽子をかぶっているのをレ・キンは面白く思った。
「坊主頭のドラ・ハに帽子は要るのかい?」
すぐにダャ・ロプシーが笑いをこらえながら指摘を入れた。彼は鼻の横に皺が入れてへっへっと鼻で吸うように笑う。レ・キンはびっくりしてあっと口を開けて笑った。満足げにレ・ニに帽子を返すとドラド・ハユィヒシはいち早く海に入っていった。ダャ・ロプシーはしばらくにやついたままで、確かに長い髪をしまう形に出来ている水泳帽を坊主頭のドラド・ハユィヒシが被り、それも似合わない赤の格子柄で、当たり前のような顔で歩いて来た様は思い返しても少し面白かった。
泳いでいる三人と一緒に、足だけ水に浸けて歩いたりもしたがレ・キンはすぐに飽きてしまい、砂浜に上がって足を乾かした。ふと背後の榕樹の島が気になって、彼は三人が沖へ泳いでいるのを横目に柵のようにびっしり生えた木々に近づいた。どうにかして隙間から分け入って進んで行くと、途中からは垂れ下がっている気根は細く少なくなり歩くのもかなり楽になった。
やはり木というものは近づくほど大きく見えるもので、中心にある榕樹の幹に辿り着いて真下から仰ぐとその大きさは予想以上だった。彼は樹冠を見上げたまま自分の右の手を榕樹の肌に触れた。いったいどのようにしてここに大きな木が残ったのか、この地に榕樹の種が落ちしぶとく砂地に芽生え、自力で土壌を作ったのか、それともこの大きな木が昔から霧打ちの尾根の先にあり、海に沈んだ時も運よく水面から顔を出していられたのか、とことん不思議な場所だった。
木には虫が這っていた。水色の毛虫だった。こんな外れの木にも生きている者がいる。その上に見えるのはぽつんと一つだけある鳥の巣だった。きっと、彼は隠者なのだろう。他の鳥たちとは離れた自分だけの世界を飛んでいるに違いないのだと信じた。巣は乾いたアマモでできていた。隠者の鳥はきっと素敵な寝床を愛しているのだろう。これまで溺れ溪の海を毎日のように見てきたが、アマモが生えているのをレ・キンは見たことがなかった。霧打ちの北側の荒れた海のどこかに穏やかな入江があり、その浜の水底にはアマモが茂っているのかもしれない、或るいは良いアマモの生える海岸のある島をこの隠者の鳥だけが知っているのかもしれない。彼はこの榕樹に戻り、毛虫の家族と話しながら柔らかいアマモのベッドで眠るのだろう。彼はきっと何世代も水色の毛虫が美しい蝶になり霧打ちやどこか遠くの島へ飛んでゆくのを見送ってきたのだろう。
この榕樹の陸繋島は人でない者たちにとっての海風の巣なのだと感じ親しみを覚えた。去る者があり戻ってくる者がおり、死ぬ者がおり、また不意に訪れる新顔もいるのだろう。
わざわざ来た理由の五色の波だが、それは結局見られず、彼らは一時間半ほどかけて五色岩に来て、倍の時間をかけて海を眺め話し水遊びをして、同じ時間をかけて帰っただけだった。五色の波は見られなかったが、皆で遠くを見ながら話すのは良いとレ・キンは感じた。尤も、彼はほとんど話さなかったが、聞くことも話をすることのうちである。
ダャ・ロプシーはレ・ニに五色岩、霧打ち、そして五色の波にまつわる伝承について聞いてひどく興奮していた。三角辻橋のそばにある博物館は、住み込みで管理をしているの老人が寝床に入るまで開いていると知ると、彼はこの後町に戻るとそのまま行くつもりだとはりきっていた。ドラド・ハユィヒシも暇つぶしに付き合うと言ったが、どこか面白くなさそうな顔をしていた。
太陽が傾き始めた頃に灯台を離れていたが、それでも日が落ちるのは早く、海風の巣に着いた頃にはほとんど夕日になっていた。ヤキ・ナリブレトが仕事をしていて、帰ってくる一行に気づいて外まで出てきた。そのまま彼らは五人で夕日の海を眺めながら話していた。夕日が沈んだ時、人はいつものように悲しさや寂しさを感じ、各々の場所へばらばらとその場を離れていった。
レ・キンにはもう仕事が残っていなかったため、アパルトマンまで帰ろうかとも考えたが、彼女と溺れ溪で夕食を食べながら話す日々も今日と明日で最後だからと思い、ヤキ・ナリブレトの夕食のお使いに申し出ることにした。二人はもうすぐこの町を出るのだ。きっと明日の夜はヤキ・ナリブレトもここに荷物を運び込んで泊まるだろうし、何かと慌ただしくなるはずだった。実質ゆっくり二人で夕食を食べることができるのは今夜が最後なのだ。
何を食べたいかを聞くと、「今日は大概暇なのね。仕事をあげるわ」と言い彼に贅沢な食事が二人分買えるだけの金を渡した。
「ありがとう」とレ・キンは言った。
「このタコどうしたの?」とヤキ・ナリブレトが尋ねたが、まだ走れば出ていった三人に追いつけると思ったレ・キンは戻ったら話すと言って海風の巣を急いで飛び出した。ヤキ・ナリブレトは静かに頷き小さく手を振った。レ・キンはまだ遠くまでは行っていないドラド・ハユィヒシとレ・ニ、ダャ・ロプシーの三人を走って追いかけた。
「レ・キンどこ行くんだい」
「僕は夕食を買って、それでちょっと散歩したら海風の巣に戻るかな」
「せっかくだから博物館まで来ればいいのに」
「いや、良いんだ。また今度にするよ。今日はもう歩きすぎたし、三角辻橋までなんて行けっこない。レ・ニも博物館へ行くの?」
「前まで案内するだけ。家すぐそばだし」
三人とは霧川大橋の手前で別れ、レ・キンは霧川埠頭へ向かった。彼らは白道を通って上流へと消えていった。そういえばドラド・ハユィヒシにも、ダャ・ロプシーにも、まだ町を出ることを何も伝えていないな、とレ・キンは思ったが、黙っておいた方がきっと寂しくならないだろうと思った。レ・ニに話した時には町を離れ遠くへ行くことに実感がほとんどなかった。ヤキ・ナリブレトには一緒に来て貰うため勇気を出して頼まなければならなかった。ドラド・ハユィヒシとダャ・ロプシーには今更言えるようには思えなかった。一生帰らないわけではないのだと自分に言い聞かせながら歩き、賑やかな市場に入って少しずつ黙って去ることに対する罪悪感を忘れようとした。
彼はヤキ・ナリブレトには海の幸を食べさせると決めていた。きっとこの町のことをたくさん懐かしむことになるのだから、それに備えてこの湾のそばで取れるものを食べておくべきだろう。鯛の刺身と牡蠣を、ちりめんを買った。それに大根とレタス、レモンを四つと枇杷を三つ買って、ワイ・トゥレの工房が出している硝子屋に寄って薄紫の瓶と、大きな水槽を自分の金で買った。
水槽の中に食べ物から何から入れて背負い紐をかけて歩いて帰った。刺身と牡蠣を買ってしまった時にもう散歩をするのはやめることにしていたため彼はそのまままっすぐ海風の巣に戻った。ヤキ・ナリブレトはいつもの通り淡い紫の電球の下で集中して作業をしているようだったので、彼は裏口から入り魚介を冷やした。
レ・キンはテラスに出てバケツの中のタコが疲れないように水を換えてやった。薄紫色の綺麗な瓶も入れてやったが、曇った小さな瓶から少し手を伸ばして見るだけで、結局タコは新しい瓶に入らなかった。今の曇った古い小瓶の居心地を気に入っているのだろうが、きっとそのうち成長した時に大きな瓶を気にいるだろうと思い瓶を買ったことをレ・キンは後悔しなかった。
米を炊いて、それからヤキ・ナリブレトが彫刻をするのをやめた時にちょうど食べられるよう、外にグリルを出して牡蠣を焼く準備をした。お茶を入れても、尚暇があったのでレタスをちぎり大根を細かく糸のように切った。レモンを三つ使ってレモネードも作って、それからもう一度タコの様子を見にいった。
タコはさして退屈しているようでもなく、ちりめんを二つ投げ入れると手だけ瓶から伸ばして食べた。彼が船に乗って疲れて死んでしまうと悲しいとも考えたが、きっと乗り切るだろうと思うことにしてレ・キンはその場を離れた。牡蠣はヤキ・ナリブレトと一緒に焼こうと思い結局手をつけずに部屋に戻った。
レ・キンは黙って、紫の電球の下で作業する彼女の背中を眺めた。部屋の隅の彼女の道具類が並べられている場所には大きな鞄が置いてあり、彼女が溺れ溪を出る準備を始めたことがわかった。ヤキ・ナリブレトがこのところ相手をしている女の彫像もほとんど完成に近づいている。
タンタルの金属光沢は相変わらず深く光を吸い込むように光っていた。その濡れたような重い髪を垂らした女の裸像は本当の人間のようにきめ細かい肌まで纏っているようだった。ヤキ・ナリブレトの白い肌とは逆に彼女は漆黒だった。だが、暗い印象は少なかった。一昨日、顔のない時に見た時に彼の感じた不安げな、悲壮に満ちた感情は一切なく、彼女はむしろ安心したような顔をしていた。タンタルの女は右手に何かを持っているようで、何か小さいもの、それを左腕の内側に当てているようだった。
まだその小さな何かは彼女の手に握られてはいない。それはきっと昨晩、ヤキ・ナリブレトが家で削っていた細かい部品だろう。ヤキ・ナリブレトがタンタルの女の鼻を、スッと通った、特別高い訳ではないが上品な鼻を仕上げた時、レ・キンはヤキ・ナリブレトが彫っている彫像が彼女自身であることに気がついた。重いまぶたに抑えられて尚大きく澄んだその瞳も、細く長い腕や脚も、全く彼女自身であった。
鏡を一切見ずにヤキ・ナリブレトは二十八歳の自分の姿を彫刻にしたのだ。レ・キンは熱心に自分自身の彫像に向き合っているヤキ・ナリブレトの後ろ姿に自然と涙した。彼女がここに生きていること、彼女が彼にとっていかに大切であるかを唐突に感じたからだった。彼女は七年間ずっと精神的に病み切っていたレ・キンを守り、慰め、癒してくれた人なのだ。
彼女は満足げにその彫像を左手の甲で撫で、すっと鼻で空気を吸い、完成した彫像からたつ香りを嗅いだ。そして黒い覆いを被せ、部屋の隅に寄せた。
「僕はその彫像が、君のことと同じくらい愛おしく思うよ」
ヤキ・ナリブレトは静かに「ありがとう」と言い、レ・キンの両手を握り、彼に寄った。目を合わせたまま、すっと顔を寄せた。彼女は黙ったまま瞬きをし、ゆっくりと頷いた。そっと手を離すと何もなかったように彼女はレ・キンから離れ片付けを始めた。レ・キンは何かを掴み損ねたような気がしたが、深く息を吸い、右手で目を拭った。
「テラスでご飯を食べよう。出てきてね。僕は支度をしてるから」
レ・キンが炭を火をつけているうちに彼女はテラスに出てきた。そして、小さな椅子をバケツのわきに置いてタコを眺めていた。水槽と新しい薄紫の瓶を見て、レ・キンが飼おうとしていることに気が付いたようだ。
「名前は?」
「二人で決めよう。あとで。まずは、こっちでご飯」
彼女はレ・キンの隣まで来て、コップを片手に燃える炭を眺めた。牡蠣を網に置くと次第に匂いが弾くような音と共にきた。
美味しい美味しいと言いながら、ゆっくり食べている彼女を見ていると、ただ選んで来ただけなのにレ・キンはとても幸せになった。食べながら、いつもは聞き手である彼女はよく話していた。
彼女は島に行ってから始まる新しい生活や、そこで見る景色に期待を寄せているのを包み隠さずに話していた。
「大きな木のベッドに真っ赤の掛け布団が良いわ、それで、壁は空の色に、木の扉は海の色に塗って、窓枠は谷の澄んだ淵のような深い緑青にしたいわ」
彼女はレ・キンが相槌するのも待たずに続けた。
「それに、静かなところがいい、森の中も素敵だけど、今度は海の音が聞こえる森に住みたい。静かなところが良いのに波を聞きたいなんて矛盾しているわね。でも、何時にでも歩いて海を見にいけるの」と言った。
食事が済んでから、やっとヤキ・ナリブレトはタコのことを思い出したようだった。
「どうしてタコをもらったの?」
「一昨日、君が霧川大橋からタコを探したのを思い出して、きっと君は見たがるだろうと思ったの」
「懐中電灯で探したね」
「カニは歩いていたんだけどね、タコなんて水面から見えっこないよ」
「それもそうね。名前つけましょ」レ・キンが食事の後片付けをしているうちに、彼女はテラスの隅からバケツを持ってきてテーブルに乗せた。
「名前はヤキ・ナがつけなよ」
「この藍色のタコの名前はね、ゴオグ」
暗くなってからゴオグの身体にある縞は模様は微かにと青白い光を放っていた。斑紋はぼんやりと黄色にゆっくりと光ったり消えたりし、表面の肌の近くで体液が渦巻いたり流れたりするのも光って見える。彼の藍色の身体からぼんやりと放たれる光は、夜空にかかる雲と星のように見えた。
「なんて意味?」
「意味なんてないのよ。そういえば、一昨日あなたとタコを探した晩、一緒に翠巴川埠頭に行って別れたでしょう。あの日は一度うちに帰ったんだけど、すぐなんだか居ても立ってもいられなくって、また海風の巣に戻って朝まで彫ってたのよ」
「知らなかった。いつ寝たの」
「ダャ・ロプシーと入れ違いに帰って、三時間くらい寝て、来る時はあなたとすれ違った。昨日あなたに町を出る話を聞いた時、一生懸命に彫って正解だったと思った。きっとあんなのを船に乗せてたら大変だからね。完成してよかった。すごくほっとしてるの。今までに作ったものの中で一番好きよ」
「彼女は本当に素敵だよ。どうするの。本当に素敵な彫像なんだから置いていくのは寂しいでしょ」
「あなたには私がいるんだから平気よ。イル・コにでも預けていこうかと思う。二度と戻らないわけじゃないんだから、帰ったら取りにいくわ。あれが自分のところにあるのは不自然よ」
お喋りがひと段落つけば、いつものようにレ・キンとヤキ・ナリブレトは翠巴川埠頭に向けて歩き始める。