群れから脱落した鳥が数匹、灰色の空に迷っていた――が、彼らはやがて遅れたもの同士で集まりゆっくり飛ぶ小さな群れを作り、どこかへ消えていった。旅の終わりに特有の腑抜けた昼過ぎに、彼はうっとり絶望に溺れていた――わざと思わぬ方向を選ぼうと試みながら歩いていた。早いうちに電車を降り、歩いて新しい部屋へ向かうということだけは決めていた。彼は数時間も新しい海岸線に沿って歩かなければならなかった。
昨日までのヒタキは旅をしていた。大学を中退して車で列島を横断し始めた――うんざりする日常から逃げ出すように走るのは初めのうちは清々しい心地がしたが、それは長く続かなかった。橋から大陸へ渡るという段になって彼は怖気づいてしまった。逃げ出そうとしても嫌なことを忘れられるわけではないのだ――そして、旅は終った。車を運転していたのはヒタキの親友の恋人であった――その親友はもう、いなくなっていた。それが原因でヒタキと親友の恋人はわけも判らずずぶ濡れで旅を続けていたのだった。しかし、生きるのが下手な人間は逃げるのにも苦労した。もう半島の影が見えるところまで来ており、永遠に続くと思われた海にかかる長い橋の向こうが予感され始めた頃に車を停め、ヒタキは降りると言いだした。その向こうに何があると言うのだ、と彼は女に尋ねた。どこに行ったってあの人はもういない、と女は諦めきったように言った。そして窓からヒタキのボストンバッグを抛りだして、荒波にかかる橋を飛ばした。彼女は全くヒタキを引き止めようとしなかった――しばらくするとワインレッドのスポーツカー――友人がペンキで塗ったものだった――は小さくなり、最後は太陽に照らされた白い光の点になり消えた。ヒタキは列車に乗り込み、鉄道で逆戻りした。もう知らない街も、住処のない日々も、知ったようでわからない女との生活もうんざりだった。彼は落ち着いて、今の自分に残っているものを数えたかったのだ。戻ってくるとちょうど梅雨は明けていた。
腰まで波に浸かった海岸を右に見つつ列島を北上した、彼は行く時とは別の道を選んだ。山陽を行き、関西地方をくぐって東海へ上がった。線路が海岸線に近づいた辺りを見計らって降り、電話ボックスから両親に電話をした。中退したことは知っていたらしいが、ヒタキがどこで何をしているのかは知らなかったようで、ひとまず連絡を受けたことに彼等は安心した。当分は知っている人に会いたくないのだ、とヒタキは言った。死んだ男は今一層生き始めたように思え、彼自身が代わりに自分の人生をやり始めたのではないかとヒタキは錯覚する。しかし彼を失った事実はやはり変わらず、亡霊の影ばかりの生活はもううんざりで、これから本当に一人なのだとヒタキは自分に云い聞かせる――そのための絶望だった。他のことから距離を置く為に大学をやめたが、何もかも洗い流して自分の姿を見ること、再出発することは上手くいっていないようで、むしろあの女の方が先を行っていた。電話を切り、富士ふもとの入り江を歩き回った。それからやっと、越すように決めていたアパートを探し始めた。旅をするなどという考えはなく、何もかも突然現れた女の思い付きだった。元より大学を中退したらすぐに落ち着いてひとりで暮らすつもりだった。友人が死んだのは一カ月以上前の話だが、親友の恋人だったと名乗る見知らぬ女は大学を去るその日までヒタキの前に現れなかった。彼女はよくヒタキのことを知っており、また親友がワインレッドの塗料で中古のスポーツカーを塗ったことも知っていた。彼女に心を許し、その時は全てが良くなるように思われたが、今のとなって見れば悲しみを薄める為にヒタキは利用されただけだったのだろう。そして彼女自身、薄めたところでどうしようもないことに気づいたのでヒタキを引き止めなかったのだろう。同情はしただろうが助けることはできなかったのだ。それは親友に対しても同じだっただろう――しかし、きっと彼らはもしその機会があったなら親友を引き止めようとしたはずだった、それも全力で。
アパートの入居日がとうに過ぎていることに思い当たり、ヒタキは不動産屋に電話をかけたた、幸い金を先に払っていたので部屋はまだヒタキのものだった。それでやっと安心し、旅のことを忘れ歩いた、そして彼のことも忘れようとした。視界の端に防風林の松が見えたので彼はその方へ歩いた。やり直そうとしているこの場所は、故郷からほど近く、離れて見ればほとんど同じ景色のようにも映った。同じ様な景色でも沸々と自分が別な人になってここに歩いている不慣れで場違いな錯覚が起こり、ヒタキは一歩ごとに車のスモークグラスや住宅の小さな窓を気にした。誰も見てはいなかったが、それでも迷い込んだなという心持が消えなかった。松林が眼前に迫り出すと、彼は決心し間に伸びる細い土の歩道を踏み込んだ――焦げ茶の土には細かい砂が多く混ざっていた、脇を見ると林床に名も知らぬ蔦の類が薄暗い中に青紫の漏斗型の花が咲かせている。細い帯のように思えた林も中へ入ると深かった、また海岸線と平行になって奥を覗くと、ずっと向こうまで同じような景色が永遠と続いていくのだ――松林の下にある地面は鬱蒼としてはおらず、まばらに灌木がある以外はほとんど蔦の類が生えるだけだった。空が閉じられた下に空間が在るのはヒタキに異様な不安感をもたらした、布で顔を覆い締められたようにその暗さは体感となり、ヒタキは足を早めた。前の方では空と海が光を松林に差していたがそれも曇りの灰色で少しも愉快ではなかった。
防風林を抜け、なだらかに下る砂浜を見つけるとヒタキはしばらく立ち止まった。そして靴を脱いで、砂浜を、遥か遠くにある波打ち際を目指して歩き出した。海岸線も新しいなりにはっきりしており、その下に多くの街が沈んでいるなどとは露も感じさせなかった。自然と波を立てて、押したり引いたりしている海と比べると、空は幾分愚鈍であるよう思えた、陰鬱なのはほとんど空のせいだと決めつけて瓦礫や木片を避けながら歩いた。波打ち際には広く間隔を開けて長い釣り竿が柱のように立てられており、その下にはやはり一人ずつ帽子や笠などを被った男らが、海をじっと見ながら立ったままでいた。ぬるい風がヒタキの白い肌をなで、肌に潮風がほのかなぬめりを加えた。打ち捨てられたボートの中にあるのも捨てられたものばかりで、雑誌や缶は長年の陽光で一様に変色していた。表紙に映った水着の女は青白く変色しており、海水に洗われふやけた跡が乾いて固定されていた、表情などはぼんやり消えかかっている。ヒタキはその様を見て昔だな、と思った。表紙の女は今もまだ笑った顔を変えないでいる、きっとこれからも彼女がこの砂浜で笑ったまま残されていくと思うといたたまれなかった。ウキ玉やタイヤ、網など、他にも様々なものが砂浜には打ち捨てられていた。そんなものをずっと見続けていると気も狂いそうであった為、ヒタキは帽子のつばを深くし、視界を狭め、一歩ずつ次に踏み出す場所のみに集中した。風が髪に絡まりながら抜けていった。海藻や貝殻などが重さごとに帯を成しているのをいくつか過ぎて、漂流物が減りすっかり砂ばかりになったあたりでようやっと腰を下ろした。鞄から、キオスクで買って置いたスナック菓子を出し齧りながら、それにしても暗いな、とぼんやり波の規則性を無意識に探っていた。
その街の開拓はまだ完全に済んでおらず、疎らな木々の間に点々と網のように建物が浸食していた、頭上を様々に創造物が覆う下をヒタキはそろそろと歩き、時折交番に入っては道を確認した。夕暮れが迫ると、街明かりの青白い点が木々に冴えられ点滅した。この街が故郷と違うのはこの地域一体がやっとのことで海没を免れていたところだった。大学で行った沼沢地方のように水に浸かった路はなく、人は少なかった。林の中に港町があるのはまさに人が地面を食っていく過程だなとヒタキは感心し、自分の淀んでいるうちにも人が人らしくしていると悟った。年季の感じられない、のっぺり似通った印象のする建物や街灯、摩耗していないアスファルトなどがあり、古い森の中にあるせいでそれらは昨日今日ぽっと咲いたばかりの酷く脆いものに見えた。五十年前の大水以来、列島中に新しい街ができていたが、災害も気候変動も彼の生まれる前にはもう既に起こっていた。故に、確固たる実感として復興を目の当たりにする気配はこれまでもこれからもなかった。新しい街に古い記憶は嫌われた、反対に彼の故郷のような海面の変動以前から山間にあった街は今でも大水より前の記憶を継続していた。どちらでもないのが、ヒタキが短い学生時代を送った沼沢地方だった。あそこでは趣が大きく違った――人は皆が場所に固執していた。かつて巨大な都市のあったからだった、人はそこで変質した記憶に実体なき愛着を注いでいた。尤もヒタキもその愛着を間違っているとは思っていなかった。その方が人らしいのだとヒタキは考えていたし、自分自身記憶に対してそうすべきと頭では理解をしていた。沼沢地方一帯は大水で沈み、残った平地も徐に浸されていた、アスファルトは保たれずそこかしこに妙な植物が低く茂っていた、人はわざわざその中にもう一度都を作ろうとしていた。水の中に暮らすと病気が多いと聞いていた上に、そこの生まれでもないのでヒタキは彼らの愛着に同情することはなかった。そして、これから住む街が水面からきっぱりと離されていることを喜んだ。また、住所が近づくにつれて、彼は自分のこれから住むところが新しい海岸線から近いどころか、丘の上にあるらしいことを知った。四、五時間歩き通しなのもあって、長く曲がりながら上っていく坂道を見上げてからは自然にため息ばかりになった。それでも行かないことには眠れないのでとぼとぼ彼は上がり始めた。斜面に沿ってしばらく面白みのない住宅街が続き、空は黒々としていった――背後の街明かりは曇り空を染めるほど賑やかではなかく、むしろ丘の向こうで雲が明々としていた。向こうにあるのは高速道路に違いなかった、その橙色の街灯の列が雲を染めるのだ。斜面に並ぶ家屋を抜けても尚坂道は終らず、煤けた病院を回り込んだ――薄いカーテン越しに明かりが洩れているので廃病院ではなさそうだが古く、暗くとも灰色の壁やそのひび割れまで手に取るようにわかった。そこから坂は農道の様相を呈しだした――脇には水が音を立てて流れ、水の方も勢いに戸惑いがあったので、ヒタキは急に勾配がついたばかりなのだろうと同情した。やはり、竹藪を上がると平地が開けて畑が広がり、家屋や街灯も判別できる場所にはなくなっていた。終わりの想像される坂道に比べ果てないように思える農地は幾倍憂鬱であった。ヒタキは車で大陸へ行く方が良かったのかもしれないなと後悔を始めていた――今頃あの女はどうしているだろうかなどと仕方のないことを考えた。彼女は死んだ恋人のことを考えながら半島の山がちな街道を北上し、ともすればもう大鉄橋から中国の大地を奔走しているのかもしれなかった。今更考え直しても仕方のないので、ヒタキは迷いながらも目に入る明かりの中でも一番近いものを目指した。月も雲に隠れ、高速明かりを反射させる雲だけが一帯の地形に輪郭を与えていた。明かりの場所には辿り着くとそれは一軒のうどん屋であった――駐車場には二台白の軽トラックが停まっており、他には店主のものらしい原付があった。暖簾を払って戸を開けると汚れた作業着の男二人がカウンターから身を乗り出すようにして酒を飲んでいた。一目に畑の人間と判るような飲みっぷり、話しぶり、身なりであった。白いハチマキに割烹着という姿ではあるものの、店主もまた百姓らしく、昼は畑にいて相応と思えた。
ヒタキがおどおど引き戸から顔を出すなり、飲んでいた一人が身体ごとこちら向きになって大きな声で、お嬢ちゃん迷子かいなと怒鳴った。ヒタキはただお腹が空きましたとだけ言った。三人しかいないにも関わらず店は大いに賑やかであった。隣の椅子を引いて、男が座れ座れと催促をするので彼は気乗りしないままそこに座った。店主の方もやはり飲んでおり、注文も聞かずにうどんを茹でだした。メニューを戻すヒタキを見て、隣の男は一種類しかないから選んでも仕方がないという旨のことを言った。ヒタキは貸家の住所を書いている紙をポケットから出して、綺麗に伸ばして男に見せた。ここに行きたいのですが暗くて判りませんと言うと、彼等は顔を見合せて笑った。苺荘ではいかんのか、と笑いまた別なことを話し出した。その様をぼうっと見ていると、店主がうどんの入った鉢を突き出して、ビールはいらんなあと言った。ヒタキは小さく頷いた。特別いうことのない普通のうどんだが、量の多い分ヒタキは途中で飽きてしまった。目の前に店主がいるのもあって残す気にはなれず、また足も疲れており歩き出す気にもならなかった。何より店を出たところで向かう先が判っていない、背にもたれかかり足も放り出して黙って男らの話を聞いていた。そのうちに農家の二人はヒタキが男であることに気付き、あら細いね、白いね、土なんか触ったことないって、などとまた馬鹿笑いして酒を飲みだした。無理をしてうどんを食べきって、改めて苔桃荘の場所を聞くと、隣の男が頭の後ろを搔きながら紙を遠ざけながら睨んで、この辺だけどね、知っとるかい?と他のに聞いた。店主が職訓寮だろうと言った。昔は近くに職業訓練の専門学校があったのだと店主の男がヒタキに説明した。それも何十年も前のことで、今残っているのは寮の一つだけらしい。まずは苺畑に働きに来ていた季節労働者の寮になり、苺の人気が減ると一旦はホテルになり、壁が薄いのでそれも変わり、何代かの後に今の格安共同貸家の形に落ち着いたと彼らは口々に記憶比べをした。そこに住んどる黒人の背の高い女が時々来るけど、えらい感じがええ子やね、と店主は笑った。一番酔っているのが連れて行ってやろうと言い威勢よく席を立ったものの、ふらついてすぐに椅子に掴まったので、店主がため息をつきながら彼の軽トラの鍵を取り、代わりに連れて行くと言った。
店主はさほど酔ってもおらず、慣れた手つきで軽トラに乗り込みエンジンをかけると、窓から顔を出しヒタキを呼んだ。古い車らしくヘッドランプの明かりは独特の間を空けつつゆっくりと灯った。酔っ払いの男二人は店先まで出て来て、大きな声で話しながら煙草を吸い始めた。屋外だが煙の匂いはヒタキの鼻先へ漂い、そこはかとなく夜の終わりごろの気配を帯びた――幼少期に親戚の家から帰る夜の記憶をヒタキは呼び起こしながら軽トラに足を掛けた。彼は、昔父親が乗っていた青い軽トラックに乗り込んで五キロ離れた自分の家へ帰るのを思いだしていた――祖父を始め酔っぱらった親戚連中が煙草がてら外に集まって、彼らの場違いに賑やかな声が静かな夜を乱す――煙の匂いに見送られながら物寂しい思いでさよならを言うのだった。軽トラの座席は大人になったヒタキにとっても高く、今も車に上るという感じがした。乗り込むなりシートの樹脂とそれに沁みついた煙草の匂い、更に芳香剤とが混ざった懐かしい匂いがあった。ヒタキ自身、大人になるとこの匂いのする人生をやるものだとばかり思っていたが、懐かしいという感情と共に思い返されるものが五歳や六歳の時の記憶なのだからほど遠い人生を送っているんだろうということは分かった。ランプは広い耕作地に真っ直ぐ伸びる農道を照らしており、オレンジに強く光る反射板の白いポールが遠くまで続いていた。
店主は娘と同じような年の子供がひとりぼちぼち歩いていくと思うと心配になる、と言った。苔桃荘は農地の隅の丘の斜面が森になって上がり始める辺りにあったので、ライトの眩しすぎる明かりで正面だけが遠い視界を何度も確認しながら、二三度角を曲がり、ゆっくり進んだ。男は頑なに苔桃荘を寮と言った――年を重ねた人間が過去に執着し新しいものに馴染もうとしないこと、気候変動で自然も街も変わり続けるが、その前で人はがむしゃらに留まろうとすること、それらは全て人の命の短さを象徴しているようヒタキには思えた。苔桃荘は木々に囲われており、それに続く細い道は舗装されていなかった――車は藪に掠れながら進んだ。ランプに照らされた建物は古い二階建ての木造で、壁は漆喰で固められていた。大きな煙突のついた離れは灰色のコンクリートで、母屋とは一切調和ない造りであるにも関わらず、寮舎に均等に積もった年月の埃から、小さな城の様相を呈していた。降り際にうどん屋の男は、さも自分の車かのようにグローブボックスを=かき混ぜてレシートを取り、ついでに見つけたらしい何時のものかも分からないチューイングガムをヒタキに渡した。そして、耳からボールペンを取り、レシートに電話番号を書いてヒタキに渡した。困ったことがあればいつでも連絡しなさい、と年長者らしいようなことを言われヒタキは頷いた。急に自分が小さい子供になったような気になったが、それが実際の精神の変異なのか、或いは願望から起こった思い込みにすぎないのかはわかりかねた。