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ハイパーバラード ストロベリーフィールズ

 看板はあずき色のペンキで粗くに塗り直され上に白のゴシックで苔桃荘と文字があった。しかし職業訓練校第一寮の名前が深く彫られているのは隠しきれていなかった。軽トラックの遠ざかる音を最後まで聞き届けヒタキは玄関の前に立った。薄緑に光る電球は不安定で時折暗くなり、下駄箱は入居者ごとに区分けがあり、それぞれ持ち主の性癖をあらわにしていた。一つに並べかたがあった。ぎっしり詰めていたり、靴以外のものを入れていたり、一足のみであったりする中で、二つ空なのがあった。玄関に扉は開いたまま固定されており、頼りない電球の明かりを滑らかに反射させ、冷たくしている廊下は寂しく伸びていた、人の薫りも含んでいた。ヒタキは靴箱の空いた区分けの名札のついていない方に自分の靴とサンダルを並べた。書類を見ると彼の住むようになる部屋は五号室であると記載があったが、両側に並んだ扉には番号が無かった。壁と天井との間に二十センチほどの幅の隙間がついており、開閉可能なガラスがはめられていた。ほとんどの部屋はそれを開けており、網戸から扇風機やラジオが洩れていた。二つ電気のついていない部屋があり、その一つの扉の前にヒタキが大学から送りつけた段ボールが置かれていた。ヒタキはひとまずその部屋の前に荷物をおいてみたが、どう数えようにも五号室にはならず、仕方がないので管理人室と札のある一室へ行き扉を叩いた。誰も現れないのでヒタキは廊下を行ったり来たりしていた。電気のついている部屋からは人の気配がしていた。しかしヒタキはそこへノックをする勇気を持っていなかった。廊下の突き当りは階段室と勝手口になっており、階段の方は覗くと急こう配で二階へ続いていた。また、勝手口の外には炊事場と、食事用と思われる大きなテーブルがあったので、ヒタキはボストンバッグから一冊本を出し、テーブルについて読み始めた。

 離れから、黒いTシャツにショートパンツという姿で足が長いアフリカ系の細い女が現れたのはそれから二十分ほど経った頃で、ヒタキは居眠りを始めていた。女に起こされ、ヒタキは俯いて目をしばつかせていた。鱒淵君に違いないね?どこの部屋でもノックすればよかったろうに、と彼女は言った。高月だと名乗り、彼女は左手を差し出した。ヒタキは握り返しながら、彼女が肩にタオルをかけており、右手に洗面器を抱えているのを見た。長さは同じほどだったが、多少波打っているヒタキの髪とは異なって、彼女のは強く巻いていた。高月はヒタキの年を聞き、同じ年の奴がいるから仲良くしてやってくれと言い、鍵を取りに行った。管理人室ではなく廊下の庭に面した側の部屋で、ノックすると二十代半ばの男が眠たそうに出てきた――起こされたのか初めのうちは不機嫌そうに高月を睨みつけていたが、ヒタキを見るなり柔らかい表情になり部屋から鍵を持って出た。前に向いた大きな耳と、丸い眼が人懐こそうな印象をヒタキに与えた。鍵を手渡しながら彼はヒタキに、いくつなのかと尋ねた。二十になったばかりです、と言うとそうかとだけ言って部屋に引っ込んでしまった。ヒタキは萎縮してしまい、彼の眼をよく見られずにいた。ここはみんな仲が良いのですか?とヒタキは尋ねた。高月の部屋はヒタキの隣であった、彼女は部屋に洗面器を戻し、出てきたら髪にタオルを巻いていた。五人しかいないので家族と同じだと言いヒタキの部屋に段ボールを入れた。それでそのまま彼の部屋へ入り込んで、椅子を引いて机に広告を広げ、裏面にマジックで共用部の掃除当番と、現状の風呂の時間を書き込んだ。そして布団がないのを見てヒタキに一枚タオルケットを寄越した。冬になるまでには買いなさい、いくら亜熱帯でも夜は冷めるわ、とため息をついた。冬が嫌いなのですか?と訊くと、彼女は寒いからねと言った。そのまま廊下に出て、二階の説明をした。二階にも一階と同じ様に部屋が並んでおり、真上の部屋を好きなように使っていいと言った。私は物置にしてるし、カノエちゃんは画を描いている、青砥は動物を飼っている――カノエというのがヒタキと同い年の女で、青砥が鍵をくれた坊主頭の男だった。二階の説明が済んでから、ヒタキは扉の前で高月は軽く自己紹介のような形で話していた。彼女が中学で地理を教えているということ、生まれが群馬の北の方であるということ、またここは昨年の春に住み始めた、など。彼女はヒタキのことは一つも尋ねなかった。ヒタキは扉に手を掛けて、彼女を見上げ話を聞いていた。ヒタキにはそのアフリカ系の背の高い女がいたく立派に見えた。物音が聞こえたか、ヒタキの向かいの部屋の扉が開き、髪の長い中背の痩せた女が顔を出した――高月や青砥と同じく二十代中盤から後半だろうが、どこか年の分かりづらいところがあるのをヒタキは不思議に思った。骨のように白く、痩せこけていたが不健康な見た目とも違う、またその人の表情には幼さに似たものが充満していた、その女は顔だけ扉の隙間から突き出して、ヒタキを見るなり口をむっと縛ったまま、しばらく硬直していた。やがて険しい顔で会釈のみして、高月にお風呂は?と訊いた。一音ずつ確かめるようゆっくりと発した。高月は伝え忘れていたがもう上がったと言い、彼女はうんと頷き部屋に引っ込んだ。あの子はソニと言って少し無口な難しい子だ、と高月は言った。ヒタキは頷いた。ソニは恐る恐るまた扉から顔を出して、会釈にもならないような具合に小さくヒタキに頭を揺らすと、着替えと洗面器を抱えてさっと廊下を歩いて行った。

 高い場所から物が落ちた音でヒタキは眼を覚ました。開いた窓の外では夏の木々の枝から枝へとシジュウカラが飛び回っており、林床のシダ類は丘を這い上がるように揺れていた。ヒタキは時計を見て十五時間ほど眠っていたことを知り、木々に当たる光が嫌に眩しいのにも納得した。あけ放たれた窓から風は舞い込んでいた。ところどころ擦り切れたレースカーテンの裾が舞い上がり、一気に外の景色が彼の眼に入った。シジュウカラは驚いたか森の奥に消えた。再び物が落ち、砕けた。シダは這い上がっていくように見えるが、風そのものは丘の上から吹き下ろしているようであった。物のぶつかる音はヒタキにとってある種爽快であった。彼は本を少し開いて、目覚めてはいるもののそのまま一時間ほど横になったり、窓の外を見たりしてぼんやりと過ごしていた。そして、その間も落下音は続いていた。重力に従って飛翔し、固い地面を叩き弾ける様を彼は脳裏に描いた――が、物が音を立てて、部品ごとに分かれながら転がる現象そのものを漠然と考えることはできても、実際に落ちていく物、落ちた後の物の姿を具体的に、個別に考えることができないでいた。ばらばらばらと一気に大小四つ五つ物が放られた。それらは互いにぶつかりながら壊れていた。それはこれまでの一つずつの音よりも思い切った、祝祭の高揚感を持った落下であり、ようやくヒタキはベッドから立ち上がった。

 廊下に出ると、昨晩は電球の心もとない光のみに照らされ薄汚くぐったりとしていた寮が、昼光の下では木の薫りを流し涼んでおり一層気分がよくなった。歯磨きと洗顔に炊事場の方へ歩くと、物の落ちる音は次第に近づいた。共用の大きな食事テーブルの上には食い残しのある皿が二枚、スプーンもそのままに置いてあり、蠅が二、三匹で散遊をしていた。裏庭の芝が、日に照らされ乾いている様を見ながらヒタキは歯を磨いた。離れについた立派な煙突の上から、人が物を落としていた。煙突の屋根にいるその人の影が芝の上に在った。誰かの細い手は放るとも投げるとも違い、物を空中に差出し思い切ったように離した。そして影の形はじっと地面を見つめていた。無造作な間隔を開け、また数分落下する音は続き、ふと静けさが広がったと思えば影は消えていた。彼は歩いて煙突の下まで歩み寄った――人の気配は忽然と止み、法師蝉が恐る恐る一匹ずつ泣き出しやがて合唱となった。煙突の根際には瓶、木箱、本、灰皿と様々な物が積もっており、それらは明らかに何かを失い軽くなっていた。

 夏の間、この丘の上は閑散としており森でない限りは、春の始まり切っていない季節と同じ空気が常に充満していた。もっと丘の上へ上がれば茶畑が広がっていて働いている人も多いと高月は言った。高月とカノエが、食事のテーブルでぼんやりしていたヒタキを散歩に連れだした。農道を上がっていく白い軽トラのほとんどを見ながら、これらは丘の上の茶畑へ行くのだと高月はヒタキに教えた。街とは別の方を見下ろすと、細い国道を挟んですぐに太平洋があるのがヒタキの目に入った。

 カノエの白い髪は、強い日差しを受けて輝いているようにすら見えていた。健康でないなと印象が出るのは髪の毛の色のみであり、顔つきや肌なども特に老けこんでいるところはなかった。その為ヒタキは彼女の珍しい髪色にも関わらず、すぐにカノエが同い年であることに慣れた。カノエは気さくな人で初めから親しくヒタキに話しかけた。彼女の喋りには関西の訛りが強く、話しぶりからは不意にこの場所に迷い込んでしまって戸惑っているという感じがあった。彼女は自転車を買えばいいとヒタキ勧めた。彼女自身、普段は自転車で街へ出ていると言った。坂がちなのだから歩いた方が楽だろうとヒタキに返され、彼女は帰りに急ぐことはないやん、と笑った。喫茶店でアルバイトをしているというのが彼女が初めて会う人間にする説明であったが、実際それが喫茶店と言えるかは怪しかった。まず第一に学生や主婦などはまず来ないのだと彼女は言った。その喫茶店の主な客は歯の抜けた老人と、肉体労働をする地元の若い男ばかりで、コーヒーやサンドイッチよりは宝くじと煙草売りで客を集めていた。カノエが言うには、店の隣に場外馬券売り場がある為、その手の客もよく来るしソニもたまには来る。ソニはあの無口な人か、とヒタキは訊いた。高月は頷いた。あの子は馬を愛してんねん、とカノエは真剣な顔で言った。昔飼っていたらしいから、とカノエは言った。

 海の方へ下る道まで来ると、二人は帰ると言いだした。ヒタキは不思議がって、夏なのにとしきりに誘ったが、今日はよしておくと言ってそのまま帰ってしまった。そのためヒタキは一人で下りてみることにした。南側に降りる坂道は住宅ではなく、果樹園が多く、街の方に比べると建っている家々も古いのが多く、中には湯を沸かす為のぶりきのU字煙突を突き立てているものさえ存在した。車ではすれ違えないような細い道で、石垣や家に挟まれた坂は急こう配で真っ直ぐ海へ突っこんでいた。広い浜に高架で車道が渡っており、この辺りの新しい海岸線が人間の言うことを聞かない様にヒタキは関心した。満潮になるとこの高架の足は沈んでしまうのだと高月が言っていたのを思いだしていた。高架の下の砂も湿っていたが、浜は傾いており波打ち際はなかなか見えなかった。海水浴客が来ない種類の浜だった。晴れている以外はここへ越して来る前に見た砂浜とほとんど変わらない景色で、波打ち際にはやはり釣り人が広く間隔を開けて立っている。

 

 寮では週に二度、水回りの掃除当番が決められており、ヒタキは月曜と火曜の夜にソニと共に風呂とトイレ、台所の清掃を行った。ソニは長い髪をお団子にまとめ、相変わらず口を聞かずに一人で掃除をした。ヒタキはそれを真似ながら掃除を覚えるようにした。家族以外と共に生活をするのはヒタキにとって初めてのことであった。二年と数か月の学生生活の間は、一人で住んでいたとはいえ、むしろ家にいるときよりも掃除などの家事を疎かにしていた。家であれば親が文句を言って手伝わしたが、ひとりなら皿さえ洗わないで済んだ。それが、ここに来てからは家事が決めごとになっているので、ヒタキはこれまでの遅れを取り戻し、自分がいつかはひとりでも「ちゃんと」生きていくようになるのだろう、と期待をした。彼は風呂場の床をブラシでこすりながら、ソニにこのくらいでいいのかと尋ねた。彼女は首を振った。わからない、こういうことは自分で考えてするものだとだけ言ってまた掃除の続きを始める。子供の頃から親に頼りっぱなしで家事の加減なんかがいまいち分からない上に、周りの人間もいるので不安だ、とヒタキはぼやいた。ソニは表情を変えないでいた。ヒタキは普段、多弁とは正反対で友人や家族といてもほとんど聞いてばかりだった。しかし、こう極端に無口なソニと二人きりで掃除をやっていると、何故か無性に話したい気になった。それで彼は手探りに一人で話しだした。ソニが返事をしてくるとは期待しておらず、せいぜい首をどう振るかで続くようなことを考えて話した。ヒタキは自分の故郷について話した。東海でも山がちな湖のある場所に育った、今でこそ海岸から遠くない土地という認識こそあれ、昔は内陸も内陸で祖父母の昔話に海が出ることはないのだ、と。ソニは黙って聞いていた。祖父は海面の上昇については多くは語らなかった、昔の人はみんな海岸線が内陸へ動いたことばかりを話していたのに、と言ったところでソニは手を止め、二秒ほどヒタキの方を見た。

 しかし彼女は特に何かを言う様ではなかったので、それからヒタキは友人について話し始めた。小学校の頃からの友達で、よく夕飯をうちへ食べに来た。友人は椋太という名前で、ヒタキとは違って背も高く、骨格も太かった。ヒタキの少年期は、椋太という男の存在無しにはあり得ないものであった。ヒタキの関わる全ての人間は同時に椋太の関わる人間であった。ヒタキは昔からひ弱で、大人にはよく女のようだと言われていた。体格だけでなく性格も内気であった為、一人の時はいつでも家にいた。椋太は彼の家に頻繁に出入りし、また連れだした。椋太に連れ出されてやっと友人ができ、外での遊びも覚えるが、何をするにも椋太に誘われでもしない限り自分ではやらないというのがヒタキの性分であった。人と会うのや外に出かけるところは椋太がヒタキに教えたが、反対にヒタキは家で聞く音楽や本を椋太に共有し、時には学校の勉強も彼に教えた。

 二人の関係が発展しだしたのは高校に入る前ごろからであった。その時にはもうヒタキは言われなくても人に会えるようになっていた。欠陥を補い合う関係は相乗するよう変化し、彼らはどこに行っても完璧であるように思い込めるほどに自由であった。夜な夜な街のライブハウスで音楽を聴いていた、朝まで二人はベッドに寝そべって本を語った。その日々が終ったのは椋太に恋人が出来てからだった。ライブハウスで知り合った同じ高校生らしかったが学校が違い、学年もかなり下だった。ヒタキはその女について多くのことを知らず、会ったこともなかった、初めのうち椋太はまだ部屋に来ていたが彼女の話をされるのはこれまでと比べるとやはり面白くはなかった。学校が違う分、椋太が下校の時に恋人を迎えに行ったりデートに行ったりする日はヒタキは一人だった。喧嘩や仲たがいではなく、ただ自然と疎遠になっただけで、元から決めていた通り二人は同じ大学へ進学した。祖父母の代まで首都のあった沼沢地方の大学は、今でも列島で名のあるところで高校で沼へ出ていくと言うと一目を置かれた。沼沢地方での初めの二年は、高校の初めの頃のように彼らは自由だった。お互いの部屋を行き来し昔のように朝まで語り合う、また学生らしく大いに酒を呑んだ。椋太が死んだのは三年になって二か月目、春も終わりの頃でちょうどヒタキが彼とまた疎遠になりそうに感じ始めている時期であった。

 気付くと風呂の掃除は終っていた。ソニは浴槽の縁にタオルを敷いて座りながら話を聞いていた。ヒタキが長々と話したことを謝ったのは、彼女がじっと彼の眼を見ていることに気が付いたからであった。ソニは終ぞ口を挟んで来ることはなかったが、ヒタキの話を熱心に聞いていたようで、ヒタキはそのことに驚き、彼女の凝視するような目線に驚いた。それで?とソニは促した。これで終わりです、彼が死んで一カ月して僕は大学をやめました。退去日に部屋を出ると女が立っていて、それが椋太の恋人でした。それで彼女と車で旅に出たんです。ソニは羨ましいといったようなことを言った。