大学の水族館に来る人のほとんどは団体の中学生でそれも二週間に一度来るか来ないかだった。小さな電球しかない地味な場所でその上空調もあまり効いておらず、人は試しに入って来てもすぐに暇に思って映画館へいってしまう。だいたいはひとりだけで過ごせるので僕はあの水族館が好きだった。この国の空調は効きすぎる節があってこれぐらいぼけた空調でないと適温にならなかった。入口を入ると、すぐに大きなメコン大ナマズを三匹入れた大きな水槽があった――この魚たちは自分らのことを老魚と呼ばせた。むしろプラ―ブックと呼ばれると無視することが多かった。老魚は大きいだけでなく知恵もあるから行くといつもあれこれ話していた。彼らは僕がアクリルに張り付いてべらべら話している間も、時計回りにぐるぐるやっているが、時折その老賢者らしい重い口を開いた。三匹いるうちの一匹は赤っぽい身体で僕と同じくらいの年、まだ大人になり切れていないような年だったが、他の二匹――白銀のと黒のは二メートル弱の巨体に知恵をはべらせていた。
老魚らは左右に向いた低い瞳――これは黒く大きい、そして金魚のそれと違って座っている――で語る、曰く僕たちにとって場所や時間は関係ないのだと。彼らが僕に伝えたかったのは、故郷でなくてもよろしいし、逆に故郷でもよろしいということだった。その教訓は僕だけでなく金魚にも語られる、僕の口を介して――尤も魔怪はまだ小さいのでその意味を理解するには若すぎるだろうが。もちろん彼らだってメコン川を知らない、当然のことだ。何世かはわからないが、バンコクに生まれた移民だ。老魚のうちでも、黒いのは特にメコン川に対して一つ意見を持っていた。黒い老魚の言うことには「その川に私が流れたことはない、決して――しかし私の中にその川はあり。これは紛れもない事実であり、この古ぼけた水族館で骨になる日まで揺るがず、燦然たるアヌサワリー(当然精神的なものには違いないが)を打ち立てるのだ」、また銀の老魚は「我々は恵まれた生き物だ、水の中にしか生きられないのはその証であり、人間とは違い泥水を見渡す優れた明晰な感覚を持っている」と言った。また、彼らは単にナマズと呼ばれることを喜ばなかった、自分たちをナマズよりサメに近いものと考えていた――単純な遺伝分類ではなく魂の高度なことに対してそう主張していた。そして僕のことはボララス(小さい鯉の中でも飛び切り小さい奴らについた名前)と呼んだ――彼らから見ればグッピーにも満たない小さい存在なのだった。