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チャイヤプームの村を出て孤歩する。コンクリートの道を行く。昼下がりの一本道を歩いている。ホタルは今頃農園にいるだろうか?
相変わらず景色は変わらない。広々とした農場地帯の真ん中を道が貫いている。今僕の脇にあるのは休耕地だろうか、草むらで牛が草を食んでいる。牛は土から這い出たばかりの様に美しい赤色をしている。牛の首に紐を結ぶ少年は木の精のように神聖だ。
休耕地の脇に停められたモーターサイクルのかごには、食べさしの鶏肉がはいったナイロン袋がある。きっと昼食なのだろう。食べ残しているのは、飽きたからか、全部食べるのが勿体なかったからなのか。少年は牛といる。
僕はひとりで歩いている、歩けど歩けど、道は道、農場は農場、長い連続の中にある。劇的な景色の変化はなく、仮に変わっていても僕は気が付かないでいる。どこへ行こうか、どこへ帰ろうか。牛飼いの少年を見たっきり、人も通らず、鳥も飛ばない。高い太陽だけが、大地と僕を見下ろして転がる。転がるのは大地か、青い星の炎も青い。
目を瞑ることもある。汗が目に入り、僕は目を瞑る。疲れ、生きている実感が目に沁みるから、目を閉じてゆっくりとそれを感じた。太陽の汗が、瞳を浸す、視界を飾る。万華鏡が回るように、人が生きているこの貧しい土地に僕は歩み出し、美しくなる。背負い鞄の中にある数枚の服と、ホタルのくれた本が、重みで僕の背を押し、前へ進ませる。この歩行に目的はない。
歩くことが目的であり、踏みしめるこの地面が僕の夢なのだ。
この常夏の国の季節は、概ね水の有無で分けられていた。しばらく住むだけでは季節がどのような性格を有しているのかがはっきり見定められず、そうなるとおのずとその季節の境界も見分けづらくなる。だが、そこに季節が作用していることはわかる。まず乾季と雨季の二つに判別することは容易だ。
イサーンは夕方になれば涼しいし、早朝も過ごしやすい。バンコクなどは朝から晩まで暑苦しいと聞いた。そう考えれば、イサーンは常夏と言うほどの場所ではないのかもしれない。現に、厳密な気候区分ではモンスーンにあたるだろう。しかし真昼間の暑さは常夏、常夏、気温を感じながら歩くと自然と疲れが出てくる。
トウモロコシを運んでいるピックアップが停まり、口ひげをたっぷり生やした青年がコンケンまで僕を乗せていくといった。
二、三時間歩き続けている頃というのは、ちょうど疲労がまだ疲労の形をして己を支配している頃である。トウモロコシ農家の青年に救われたような気がした。
「踏みさえしなければいい。トウモロコシの上に寝転んで休め」と彼は言う。僕は水が飲みたいと言った。彼は運転席の方から小さいクーラーボックスを出して僕に渡した。中には氷水がたっぷり入っている。底に沈んだステンレスのコップを取って、水を掬い、数杯飲んだ。無我が僕の中に沁みわたる。自らがどこから来たのか、という疑問は冷水に洗い出されたかのように、心の真ん中に現れ、僕はしばらく景色を眺め、自分が誰なのかを考えてみた。相変わらず広い農地だ、満足すると僕は問いを抱いたまま昼寝をした。
二、三十分が経っただろうか、コンケンの町に着き青年は時計台の広場で、降りるか?と訊いてきた。街は都会だった。時計台の針は十二時を少し過ぎたところにあった。コンケン市街には少々ビルがあり、人も忙し気に歩いている。僕は首を振った。用があるわけではない、荷下ろしを手伝おうと申し出た。
トウモロコシは街の中心から少し離れたところにある工場に集められていた。そのまま野菜として売るわけではないらしい。そこで作っているコーンミルクをもらい、飲んですぐ僕は美味しくないと思った。やはり甘いものは苦手なのだ。荷物を下ろし、計量を手伝うと、飯でも奢るよ、と勧められたが、そうされると手伝った意味がなくなる気がして僕は首を振った。
「もちろんお礼は構わない。これは乗せてもらったお礼のようなものだから」
すると彼は言った。
「そうでもないだろう。お前は好意で手伝っただろう?僕も気が向いてお前を乗せただけだし、この後にしばらく暇があって誘っただけだよ。借りだの貸しだのを気にする必要はない」
確かにそうかもしれない。僕は借りを返すために手伝ったわけではなかった。暇つぶしと単純な親切心だ。向こうとて同じだろう。好意に収支を考えるのは冷たい。一緒に工場の近くのタラートまで歩いた。
「生まれはカラシンなんだよ。実家もトウモロコシ畑で、今はなんとなくあそこにいたくなかったから、こっちで仕事を見つけて働いているんだ。もう二年くらいになるな」
僕はカオパッドをスプーンで食べながら、頷いた。
「出稼ぎっていうようなものじゃないさ。カラシンも、チャイヤプームも大して変わらない」
「どうして来たの?」
「色々さ」
「地元には時々戻るの?」
「いや、もうずっと帰ってないね」
ご飯を食べ終えると、僕が彼の分も払ってタラートを出た。僕たちはトウモロコシ工場に戻って、ハンモックで二時間ほど揺られていた。
僕は男がチャイヤプームに帰るタイミングで工場を出て別れた。文具屋を探して歩いた。コンビニの前でアイスクリームを齧っている高校生に尋ねると、ひとりの女学生が通りの奥にあると、教えてくれた。目印の青い建物は遥か遠いものの、歩けない距離でもなかった。それでも、集団の中の一人が、遠いからね、と言ってモーターサイクルの後ろに乗せて連れていってくれた。やはり人に優しくされると、生きているのは良いなと思う。
「ここの学校に通ってるんだ」
「へえ。その黄色のシャツも学校の奴?」
「そうそう。これこの間のスポーツ大会のやつ。あなたは旅行?」
「まあ、そんな感じ」
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文房具屋で新しいノートとボールペンを買った。そして目に入ったタラートで果物を食べる。バナナ5バーツ、パパヤ十五バーツ、青いペンキで塗られたブリキの机で食べる。生きている記憶を新しいノートに書いて、それから古いノートを読み返し、タイに来た日から今日までの日々を辿った。僕はホタルに手紙を書いてあげようと思い、ノートの表紙に彼女に手紙を書くことを忘れないよう、大きく書いた。チャイヤプームでの日々を振り返っていると、僕は皆の懐かしさをうらやんでいるように思える。確かに僕はノートを読み返しても、一切懐かしさを覚えない。ただ、誰かの書いた思い出話を聞いているだけのようだった。懐かしさはなくても、それはそれで新鮮に面白くはあった。
「いい天気なのにこんなところに座って何してるんだ」
痩身長髪の青年が僕を覗きこんで言った。
「暑すぎて、もうしばらく日の下には出たくない気がして」
「ここまで暑いのも今もうちだ。しばらくすれば、ぽつりぽつり雨が降り始めるだろう。そうすればあんたはきっと乾季が恋しくなるんだ」
「そうかな。僕は今、なんだかわからないけれど、もう雨季を恋しがっている気がする。早く会いたいような気分。きっとそういう雨季を愛するような人生をこれまでもずっと送って来たんじゃないかと思う」
「それは、どんな人生なんだ?良かったか?」
「覚えていない。今の僕は水を待つことに振れている。だから何もわからない」
「そうか。それなら俺も雨季を愛せるようになれるか」
「きっとそうさ」僕は珍しく、自分の意見を言ったような気がする。
青年は赤い水を飲んでいた。真っ赤の中でソーダの泡が弾けながら、空中に広がっていく。色が広がると言うよりは、光が広がるようだった。神聖な光、精霊を宥める光だ。
「君は大学生?」
「そうだ。コンケン大学に通ってる。あんたは」
「学生じゃない。ただ、歩き続けているだけ」
「それは良いことだ。絶対にそうだろう。この街は?」
「好きも何も、つい少し前に来たばかりで、何も知らない。隅っこにコーン工場があることくらいしか知らない。都会だなとは思ったけれど」
「ここはどんどん都会になっていく。ほんとに、でも俺はあまり昔を懐かしんだりはしない。変化は起こるさ。素敵な街なんだぜ?気づける人はそう多くないみたいだけれど、本当に素敵な街なんだ」
彼はズズズッと音を立てて赤い水を飲み干して続けた。
「一つ、一緒に歩かないか?俺が案内する。この街の素敵なものを見せてあげるよ」
彼は僕を連れて通りに出ると、そのまま二十分歩き続け、市街地を抜けていく。彼の髪は青灰色に染められており、太陽の光を通して暗く光っていた。僕は街を生きる人々を、彼の青灰色の後頭部を見る。速足を追いながら、慌てて辺りの景色も見ようとする。急いで歩くというひとつの制限の中で人々の生活はより切実に僕の瞳に飛び込んでいるようだった。彼はひらりと細い腕を車道に伸ばした。赤いソンテオが彼に気が付いて停まった。僕たちはそれに乗り込んだ。僕はどこに連れていかれるのかを知らない。
「バンコクじゃバスだろう?けどコンケンじゃバスはあまりないな。代わりにソンテオがいっぱい走ってるんだ。ソンテオ乗ったことある?」
「あるんじゃないかな」
「まあ、バンコクでもあるからな」
僕は食べきれていないパパヤを齧りながら彼の話を聞いていた。
「名前は?」
僕はそう聞かれて驚き、一瞬悩んだのちに、答えた。
「フェット」
タイ語のニックネームを持っていることに彼は多少驚いたようだったが、それはすぐに親しみに変わった。
「ダイヤモンドだな。良いチューレンじゃないか」
「僕の名前はフォンだ、雨という意味だ」
アメ、か。遂に僕たちは互いの名のもとに握手をした。高い塔のある寺院の下に着いて、フォンは二人分の運賃を運転手に手渡した。おごると言って聞かなかった。寺院の中に入ると、一面に敷かれた絨毯の上に、ひざまずいて祈る人々の姿があった。香の匂いが薄く広く空気を埋めている。彼もまた黄色い花と線香を買って僕のところに来て、ひとつずつ僕にくれた。
僕にはこれといって信仰はないようだったが、他人の文化や信仰を尊重する心を持っていた。そのために、悪いことのようには思わず、それらを受け取って、彼の後をついて祈りの場へ行った。そして皆と同じように、両手で線香を挟み祈った。
しかし、僕には祈ることがなかった。何もないのだ。祈りまで記憶に作用されるなら、人は過去に祈るのだろうか?
しばらくして僕が目を開け顔を上げると、フォンはまだ顔を伏せて祈っていた。何かどうしても得たいものがあるのか?色の抜けかかった青灰色の髪の結び目から、僕は年輪を見たように思った。彼は何かを祈っている、何人分もの幸せを祈っているに違いない。
祈り終えると、彼はやっと立ち上がり、市街を見渡せる塔の上へと僕を案内してくれた。壁にかかった仏教画の意味を僕が尋ねると、彼は曖昧に答えた。この人はきっと悪いことをしたんだとか、これはいいことをした人に良いことが起こってるんだとか、そんな風に曖昧に答えて、でも仏教は何が良いことで何が悪いことなのかを教えてくれない。僕たちはそれを生きながら知っていかなくてはならないんだ、と言った。僕たちは塔の上へ進んで行く。
徐々に狭くなっていた階段室の、上方から太陽の光が見えた時、僕は久しぶりに空を見るような気がして、胸がときめくのを覚えた。塔の頂上に出ると、やはりその空は広かった。青く大地を抱いていた。町が小さく見渡せるほど塔は高くない、ただ、町を空が抱いているように見えるのだ。そしてその町を囲むように広がっている農地、そのはるか遠くに山並みが奥へなびいている。全ては青い空の中で生かされているのだ。この青い炎がすべての人や動物や植物や、何もかもの生きるものの原因なのだ。
フォンは言った。
「フェットがどこから来てどこへ行くのかは、俺には全く関係のないことだ。ここで出会い、話していることに意味がある。でも、その意味がどういうものなのかを言葉にしようとしてしまうと、あんたも俺も本当のことを忘れてしまう」
僕は何をも覚えはしないのだ。残るのはこの記述のみで、読み返して蘇る体験はない。それは次々と他人の物語の様に、遠くに行ってしまう。
景色を見て、彼はあれこれ話したが、そのほとんどは「実際覚えたり理解することに含まれる真実はない」ということだったが、僕はそれを上手く理解することはできず、彼はそろそろ行こうかと塔を降り始めた。僕は自分がどうせ忘れてしまうのだと知っているにもかかわらず、何故か、最後にもう一度この眺望を目に焼き付けようと、帰り際に振り返って眺めてしまった。
寺院を出てから僕らはソンテオには乗らずに歩いた。彼は僕に強く興味を持っているようだったが、ある時点からくだらない生い立ちや「過去」など僕自身のことにについて尋ねるのを一切やめていた。僕もまた、彼が何を祈って生きているのかを尋ねはしなかった。彼が言ったように、僕はただ彼と出会ったことを考え、僕の前を歩いて行くその後姿を、きっとのちに思い起こせないと知っては居ても、じっと今みつめるだけだった。
フォンは灰青色の、そのガラスの反射のように美しい髪をほどき、風に自由に泳がせた。ほのかにシャンプーの香りが漂った。
「モーターサイクルで、次はお茶を飲みに行こう」
彼はヘルメットを僕に渡した。僕は慣れた調子で後ろに乗った。彼が僕を連れて行ったのは、町の裏通りにひっそりとある小さな料理屋で、古びた建物だったが、西日の明るさで割と陰気な感じはしなかった。
彼は二人分の茶を頼み、僕は砂糖もミルクも入れないようにと頼んだ。彼は自分もそうしてくれと店員に頼んだ。赤い格子柄のビニールのテーブルクロスにモーターサイクルのキーを静かに置いた。彼は僕の目をじっと見つめていた。
どこか深いところにある僕を、透かし見ようとしているようで、僕はさながら自分の瞳の底に別の世界が広がっているのではないかという気持ちまで起こしていた。そして、彼自身もまた、その世界に含まれているのかもしれない。フォンの姿は夕日を背に暗く、彼の背後の町もまた夕日を背に暗い影の形をしている。彼は景色の形の一部だった。
彼はこの街に歩く人々の象徴として今僕の前にいるようだった。否、彼は人々の象徴のみならず、この街そのものの、または今日の象徴なのだろう。僕はものを記憶することだけはしなかったが、考えることだけは普段通りにできるようになっているようだった。
フォンは目に見える核を持たない人間だった。僕には彼が実際何なのかを見定めることが出来ず、その時彼は店主の持ってきた茶のコップを眺めて言った。
「きっとあんたは僕のことを奇妙だなんて思わないだろうね。僕の意見では僕は本当の存在なんだ。本当の存在でないから、ただ本当の存在なんだ。何か人が実際に知らないまま、本当に考えていることを隠すように、本当に感じていることを隠すようにするのを見ると僕は悲しいと思う。僕はのっぺりとしたこの世界に悲しさを感じる。でも、思うんだ、あんたはそういう風に感じないだろう?この世界をもっともっと美しいと思えるんだろう?」