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bum  第2章 natsu ..3

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 僕はコップから広がる光を見た。コップの中には小さな水面があった。フォンはそれを指して言った。

「この水面の上には何が見える?」

 僕はふと自分の考え事がこつんと壁に突き当たるのを感じた。そして、五秒後に口を開いた。

「生命が見える」それが僕が思考の中に見つけたものだった。それは僕が頭でこしらえたものではなく、水面上の生命というコンセプトが脳の中に元々あったように思えた。考えに行き詰まる寸前の最後の瞬間に僕はそれを見つけたのだ。

「なあ、そうなんだ。あんたは分かっているよ」

 彼はコップを傾け、水面は波立ちながら元の角度を保った。それはコップの傾きと関係なく、一定の角度の平面を保ちながら波立つ水面は荒れていた。

「ガラスの中でお茶は嵐だろう。これは俺たちの生きている世界だ」

 彼はそう言った。僕にはそれが嵐のように恐ろしいものには思えなかった。彼は続けた。

「俺は言うだろう、この世界はたかが空想に過ぎない。あんたが何であるか、このお茶が何であるか、コップが何であるか、それらは全て主観的な妄想なんだ。そしてこのコップの中に入った水の一つ一つが分かれた個人の心でもある。俺たちは個人を別々の関係のない存在と考えるが、それは、本当に別のものだろうか?コップに囲まれた形は本当にフェットの、あるいはこの世界の形なのだろうか?この透明のコップを飛び出せば、水に形なんてものはなくなるんだよ?俺たちにそれぞれの身体なんてないんだ」

「でも実際は僕たちは水じゃない」

「本当にそうだと思うか?あんたの身体はそもそも半分以上が水でできてて、その他のものも全部数か月ごとに入れ替わっていくんだぜ?じゃあフェットの身体はどこにあるんだ?人はどこに存在できるんだ?」

「わからない。少なくとも僕の記憶は脳にないし、でもどこかに何かがある。きっと。君だって持っているだろう?何か、君しか持っていない何かを」

「あたかも自分自身のものであるというように思っているかもしれないけれど、俺はそう思わないな。それは何もあんただけのものではないんだ。各々が中心だと思っている自分という存在が集まってこの世界があるように思っていたがそうじゃないんだ。俺が考えるのは、俺が考えているからじゃない。フェットが考えるからだ。わかるか?あんたが今考えているからだ。俺が歩くのは俺が歩こうとしているからじゃない。この世界が俺の周りに感じられているから、切り離された世界が俺を同じものだと叫ぶからだ」

「僕たちは水と同じように地球の物質に過ぎないということはわかったよ。でも、どうしてそれが感情とかそういうものを持ったりするんだろう」

「原子が結ばれ、流れ、空を漂う、その確かなルールが俺らを通る時、すなわち風が起こるとき、美しい音が鳴るんだ。コップが揺れなければ、水は動かない。しかしコップと水は、常に交錯し続けている」

 彼は冷たい目で僕をみつめたまま続けた。

「なのにどうして俺たちは分かり合えないんだ?同じところから弾け出たのに、一度も別のものであったことがないのに、どうして分かり合えないんだ?だから俺は悲しく思うんだぜ?あんたはどうしてそう美しく世界を見つめることができるんだ?そんな澄んだ公平な瞳で」

「僕はきっと今、誰かを他人とみられない。君のせいで、僕は君の感情を同じように感じるようになったんだ。だから僕はフォンと同じ心を持っているし、僕は君と分かりあっている。僕も君も存在しないし、ここには何もなく、僕たちはどこでもない場所にいる。もう別のものだって感じなくていいんだ。そうだろう?合っているだろう?君は間違っていない、そして僕は君のことが分かるし、そう思えば何も悲しくなんてない」

「俺はそんなつもりなしに、何かをフェットに隠していた気がしていたけれど、あんたはそれを見つめるよなあ?俺は今個人ではなくなったのか?俺は二度と誰にもわかってもらえないような気持ちにならなくてもいいのぁ?」

「僕たちはきっと誰ももう二度と誤解しあうことはないよ。君がどこかしこにあると思っている人の悲しみなんてここにはもう全くない」

「そうか、ならばきっとあんたはきっと知るだろうよ。この世界の何もかもを」

 茶とガラスに屈折して拡散し黄金色になった光、それは格子柄のテーブルクロスを分かっていた。彼の側から見れば、この液体の反射はどう見えるだろうか。知識、知識はどう見えるか?それぞれの知識に対して、謙虚に、掴まずに撫でるように触れたら、確かに僕を囲む世界はより広くなるかもしれない。

「あぁ、そうだ。僕はもっとこのガラスの世界を見たい。なあ、フォン。君はこの世界の裾野まで歩いて降りて行こうと思う日はないのかい?わからないことを歩き詰めたいという本能を抱く日はないのかい?」

「ただ、歩き続けるんだよ。目指すことを考えずにね。焦点を合わせようとすると見失うよ」

彼は少し間を置いて続けた。

「しかしね、美しい、この言葉にだけは間違いないんだ、だからあんたが目指すものを知る手がかりになるかもしれないな。美しいという言葉は汚いとか醜いの逆の言葉じゃないって思わないか?あれは、この世界の全てを包んでいる。汚さも醜さも、美しさだ。そして美しいことはそれらを含有してさらに高次に存在する言葉だろう。そして美しいという概念は僕にとって最も否定されたくない感情だ」

 きっと僕はうっとりして彼の話を聞いていただろう。記憶のない僕にとっても、美しさは最も確かな感情だった。僕はふと、彼が祈る姿を思い出した。寺院で祈る彼の姿を。眠れば消えてしまう記憶を。

 得られないことを自覚した彼が何を祈るのかが僕には分からなかったが、それが分かった時こそ、その祈りが意味のないものになってしまうのかもしれない。

「歩いてどこへ着くかをわかっていないからフェット、お前は歩くんだ。そしてお前の振り返ることのできない後方に凄く輝く軌跡が長く美しく伸びていく」

 彼は頭の中にある全てを話し尽くしてしまうと、立ち上がった。

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 その晩、僕はコンケン大学の寮で眠り、翌日早朝にコンケンを去った。僕はフォンが目を覚ますのを待たずに大学のキャンパスを後にし、昨晩彼が話した場所を目指して歩いた。僕は山を目指した。それは凡そ三週間の行程だった。僕が向かったのは北のチェンライだった。僕は山へ行きたかったのだ。

 僕の目指した北部チェンライの町まではコンケンから900キロの行程で、おおよそ一か月強を費やした。バスなどを利用すれば、数百バーツのみ払い一晩で着けるような場所だったが、僕は出来る限り歩きたかった。彼の言ったこと、つまり僕の中にあった真実を一日ごとに再確認したかった。

 忘れるしかない日常、明日に残らない記憶、自分の外から入れ直す過去の記録、それらはやっと僕をはっきりと自覚させ始めた。そこには僕を突き動かす何かがあった。そして、それは自我が存在しないからこそ強くそこにあると実感できる、どの方から吹いているかも分からない強風のようだった。

 何かをひとつつまみあげて、手のひらの上で転がしても、それを理解しうることはないのだ。世界の一部を取り上げて触れるだけで、そのひとつを考えても何かを知ることはない。この世界の全てを事細かに理解しつくすことが不可能であり、分からないことそのものが真理であると悟った時、僕は道を歩き始めていたのかもしれない。それは僕が歩いたから道になったのか、そもそもそこに道があったのか?

 僕は歩いて来て、徐々に自分の形を知り始めている、記述された物語として自分に触れ、記憶なしに思考することによって、足の裏で世界に触れてその形を感じるように。ひとつひとつ足元から、手当たり次第に取って分かった気持ちになる代わりに、僕はそれを足の裏で感じ、ぼんやりと全体に気づくのだ。

 僕は毎日、早朝から六時間以上歩き、午後になると行きついた町や集落で宿を求めた。僕はチャイヤプームの農場で稼いだ金を持っていた。ある時は小さな宿に泊まり、ある時は村人の好意に甘えた。

 コンケンからチャイヤプームに戻りペッチャブンに行くまでで一週間、ペッチャブンからルーイを通りピッサヌロークのナコンタイに滞在して一週間、三週目はピッサヌロークから出てウタラディット辺りを歩いているところで途中大学生たちの旅行者の車に乗せてもらった。スコータイのあたりで降り、また歩いた。ウォンコンという村に二、三日とどまった。カンフェンペットという小さな県まで細く蛇行した川を歩いて、そこからタークへ着いたところで一か月が経った。僕は日々、フォンの言葉を自分のものにしていった。そして結論として一つ浮かび上がったのはひとつだった。

 美しさ、懐かしさが人間のもつ最も心を揺るがす感情、心の中で芯を持つ感情であり、その根源に寂しさ、悲しさがあると言うことだ。