朝はどこにでもやってきた、曇りではないので今日は早く朝はやってきて、まず彼女を起こした。僕は「ねえ、あの食堂に朝ご飯を食べに行きましょうよ」という彼女の揺さぶりに目を覚ました。彼女の顔があり、すべての朝日が入りきらない狭くてみじめな広い部屋――だが、向かいのバーの建築の屋根は低く朝日はレンズ窓から凝縮され微動する埃に小さなレンブラント光線を作っていた、彼女は夜とは異なる顔をしていた。洞穴の底にまで光が差し、影のない顔をしていた――そして僕を目玉焼きを食いにつれていこうとしている――起きるのにもたつく僕の背中をはだしでねじくった――そして声高らかにこの悲観的で無情な乙女は宣言する――僕をどこか素敵なところへ連れて行ってやるんだ、と。目玉焼きだけではないから目を醒ませよ――僕は立ち上がり、埃だらけの朝にくしゃみをしながら洗面所に向かった。確かに僕の顔は彼女のに比べると子供のそれだった――しかし僕はあの人のような大人になりたくないとも思った。朝になり判ったのは、彼女が真理を求め諦めようとしているような未来のない人だということ、僕とあまり変わらない人間だが、歳が行っている分僕より救われがたい人だった。
昨夜と同じ食堂で目玉焼きを食べながら僕は彼女に名前を尋ねた。彼女は首を振った。
「名前になんかに頼らないで。そんなことをしたらあたしは誰かになってしまう」
僕はその意味を理解せず、口を動かさないで彼女の表情を見ていた。
「あたしだってあなたの名前聞かないでしょ?だからあいこじゃない」
「僕は別に名前を言ったって構わない、僕は――」
「だから、いらないって言ってるじゃない。私は知りたくない」
「でも名前を知らないと忘れてしまうかもしれない」
「ねえ、私が言いたいのは、これはあなただから言っているんじゃないのよ?名前のついている人は、記憶の中で、引き出しに入った標本と同じ。動けなくなってしまう、忘れられた方がマシ、名前がないと覚えられないの?」
「ただ呼ぶときに不便なだけだ」
「苦労して私と話してほしいわ。私は今二十五歳、それだけ教えてあげるわ。それで十分じゃない?」
「僕は十九歳だ」
彼女が借りてきたたスズキの原付はぶるぶる震えながら僕を待っていた――これで僕を何処か素敵な場所へ連れて行ってくれると彼女は言う。ヘルメットを受け取って僕は、これを貸してくれた小さな雑貨屋の老店主に頭を下げた。彼は深く青いプラスチック椅子に腰かけて、沈み込むように、その老店主は天井から下がったテレビをにらんでいた。「この世界で人間を見つけられる場所はテレビの中にしか残っていないんだな」と僕が言うと、彼女は遅い英語で言った。「あの老人はすっかりぼけてしまっているのよ、夜になったらシャッターを閉めるんだけど、そのままあの椅子で寝るまでテレビを見っぱなし、それで朝まで寝ちゃうのよ。いえ、ベッドまで行っているのかもしれないけれど、テレビついたまま。いっつもよ。うるさいんだから――テレビぶら下がってる場所、ちょうど私が寝てるベッドの枕の下なの。夜中に部屋を借りに来てたらわかったかもしれないけれどね、住み始めてからこんなこと発覚してきちゃって、困ったものよね」
「でも昨日は聞こえなかった」
「毎日だなんて言ってないでしょ?」
「いつもって言ったよ」
「だから何? くんくん匂ってないで早く被って、乗って、走ろう」
「埃のにおいがするんだよ。このヘルメットの中に誰かの記憶が残ってるんだよ――汗と埃が混じった匂いなんだ。誰かの記憶を今から上書きしてしまおうとしているんだからぼんやりしてちゃいけないだろう。できる限りこれを神経に刷り込んでおきたいんだ」
「固執しすぎよ。執着していては行けないわ、消えない、この世界は閉ざされているんだから減ったり増えたりしない。全て常に存在していて、全て常に空なのだから。すっかり忘れてしまったものも、上書きされてしまった汗も、消えてしまうんじゃないんだから。あなたの知らないところに存在し続けているの、あなたが干渉しないだけ。すれ違うことを受け入れなさい」
溜息をついて彼女は店の冷蔵庫から瓶のコーラを出してきて緑の紙幣をテーブルに放り、勝手に机の上の栓抜きを取り、二秒間老人の隣に立ってテレビを眺めた――僕はヘルメットをかぶった。彼女はコーラを飲みながら、僕の支度が出来たのを確認し、原付に跨って僕を待った。行くと瓶を渡してきた――走りながらは飲めない。いいえ、ハンドルを握らない私よりは飲みやすいんだから、少なくとも握っておくぐらいはできるでしょう?
ガタンと音を立ててタイヤが車道に降りた、僕は手にかかったコーラを啜り、ズボンで手を拭いてヘルメットの顎紐を閉め、彼女の背中を叩いた。紫色の原付は走り始めた。そうして、中央を太陽が転がる空の下で僕らは風に吹かれ始めた。僕はミラー越しに彼女の表情を見ようとした。この人が考えなしに突っ走ろうとしているように思えたからだ――しかし彼女は僕と目を合わせようとしなかった。広い街道を震えながら走り、背丈以上の草むらの間を縫う畔道に跳ねながら原付は走り続けた。