川を目の前にした僕は口を開けて目の下を掻いていた。泥色の大きな水が流れるメコンには一畳ほどの大きさの木の舟、そして笠をかぶって網を引きあげる漁師がひとり。
「大きい」
原付のハンドルにヘルメットをひっかけて鍵を振り回しながら彼女は土手を上がってきた――視界の端では十頭ほどの山羊が草を食んでいる、棒切れを持った少年が退屈そうにそれを追っている――彼女はコーラの瓶を僕から奪い取って土手に座り込んだ。
「ねえ、プラーブックって知ってる?」彼女は乾いた泥の上に腰を下ろし、雑草を引き抜きながら僕に尋ねた。
彼女は川の方を見ていたのか、対岸に霞む山々を見ていたか、僕は返事をせずに彼女がちぎっては投げ込む草の行方を追っていた。いくつかは川に吸い込まれ、いくつかは水面に届かず岩の上に落ち、頼りなげに風に吹かれた。きっと彼女は自分が何をしているかを知らないのだ、気づかずに草をちぎっては放ってを繰り返している――そこには理由も結果もなかった。彼女の目の前に川はあるが、草がどこに落ちたかは彼女に見えていない――波紋を広げるものだってあるにも関わらず、だ。僕は彼女がその行為を繰り返しているのをただじっと見つめていた。少しずつ匂ってきたからだ。草の汁が空気の中を伝染し風に干渉している――「ねえ、知らないの?」と彼女はもう一度言った。彼女は振り返り、僕を見上げた。「知らない」と僕が返すと、彼女は言った「大きな魚なのよ、あれが跳ね出てきたら、そこの小さな舟なんかひっくり返っちゃうんだな」満足気にそう言う彼女の隣に僕は腰を下ろし、未だむしられていない草をつかんで引っ張った――「それは大きなナマズなんだろう?」草を手の中で潰していくと、始めは汁で、しかし手と手の中で擦り回していると水分が無くなった、改めて見つめると手相の中に緑の粉が固まっていた。「知ってるんじゃない」先ほどまでそこに生えていた草が今は僕の皮膚にこびりついて運命を変えようとしているというわけだ。「いるかも住んでいるって聞いたけど?」「いえ、いるかも確かに住んでいるけれども、もっと下のほう、カンボジアとかそっちの方だわ。きっとベトナムのデルタにいっぱい住んでいるんじゃないかしら。私詳しく知らないのよ。でも、きっとそうよ、あれらは間違えて上がってきてそのまま川の中で暮らしているんだわ」彼女は満足げに立ちあがり、僕の背中を蹴つった。「恐ろしいからやめてくれないか? 落っこちたら間違いなく死んでしまう」彼女は鼻で笑った。「大袈裟ね、お水を飲んでお腹壊したりはするかもしれないけれど、死にはしないわ。あんたが死にそうになったら引っ張りあげてあげるんだから。私が突き落としたせいで死なせちゃったら、夜にちゃんと眠れなくなっちゃう。だから、死んでも助けてあげるわ」
「頼もしいな」と僕は言った。振り返ると彼女は土手に沿って散歩を始めていた。僕の方を向いて話していなかったということに僕は少しだけ落胆した――あくまで、自分が嫌な気をしないために僕を助けると言ったのだ。「この川は濁っている、底も見えない、どこへ続いているのかもわからない、果たして上から下へ水が流れているだけなのか? 渦巻いて重力に逆らっちゃいないだろうか」「あなた、目ん玉が落っこちたらどうするの? そんな顔をしてる時に下の方を見てちゃダメ。ここで落としたら最後、拾ったりできないんだから。私だって目ん玉だけじゃ飛び込まないわ」見上げるとトンボが群れで飛んでいた。「いや、だって乾季なのにたくさんの水が流れているだろう?」
「それはそうよ、中国の山のなかから流れてくるのよ? それだってすぐそこなんだから、ぬるくなったりしない冷たい水なんだから、減ったりもしないわ」僕たちは川に沿って歩いた、一度にたくさんの言葉を投げ出したが、これは会話というよりぐらついた鍋から中身が時々こぼれ落ちているような感じだった。
「土日には何をしてるの?」と僕は歩く彼女の後ろ姿に語り掛けた。彼女は言った「そういうつまらないことを尋ねる人に出会わないように部屋と映画館を往復しているの」
「映画は好きなの?」
「別に。でも少なくとも映画はつまらない日常のことを掘り下げてこようとしないわ。聞いてどうするつもりなの? 私が休みの日にバレエの練習をしたというのと、ゲームをやってるというのと、本を読んでいるというのでは、何か見方が変わったりするわけ?」――「僕は素敵な人がどういうことをして普段暮らしているのかを知りたかっただけだ」
「あなたが私にあこがれているのなら、それは私が少しだけ年上だからというだけの話ね。五年後にくたばっていなければあなたもきっと私のような人になっていると思う。そしてその日々はとってもつまらないのよ? あなたが想像する何倍もつまらないんだから。」
「僕は少なくとも君のように休みになると映画を見に行ったり、そういうことをしていない。ただ部屋にじっとしていて、金魚が泳いでいるのをにらんでいる」
「いいじゃない、ひきこもってたって。どこにいたって何も変わりゃしないわ。ひきこもってるのも生きてるうち。家にいたって外にいたって同じよ、生活に大した意味なんかないんだから」
「意味が、ないのか?」
「楽しければそれでいいのよ、何かと」
「そうじゃないはずだよ」
「何?」
「本当にそうだと思うか」と言った時、彼女は僕の方を振り返って睨んだ。僕は思わず水面に目をやった、水の少し上にトンボがあり――それもたくさん、彼らは層を成していた、群れから飛び降りて尻を水面に濡らしては戻ってくる――繰り返していた。恐ろしくはないのか――「太陽のないところに籠りっぱなしで生きていたら――」
「私は本当に、自分のことを特別だと思っている人間が嫌い、あなたも私もくだらない人間なのよ。十八の世間知らずだか知らないけれどね――」
「十九だ」
「とにかく、私たちは子供でも生まない限り生きてる意味なんてないのよ、何も意義なんてないの。ただ時間をやり過ごしていく」
「何も僕は自分が特別な人間だと思っているわけじゃないんだ、ただ、僕と君が偶然知り合いになって、こうやって話して、違う明日が来るようにも思えないか?」
「でもそれが全然違うってわけ。大切なのは今、昨日までとか明日からとかくだらないこと言ってると、私あんたのことここから突き落として殺すのよ」
「でも、そんなんじゃ死んじまったあとに何も残らないだろう」
「だから言ってるじゃない、死んだ後に何が残るっていうの? 靴でも置いていくのかしら。馬鹿げていると私は思うけれど。あたしたち普通の人間はこの世界を素通りしていくの、何も置いていかないし、何も持っていかない」
僕は言った「少なくとも、僕らは何かを残してやろうとあがきながら生きていくべきなんじゃないかな。そうでないとつらいだろう?」
「そんなのはあなたじゃないかしら」彼女の表情にほのめいた悲しさのかけらを僕は見逃さなかった。
「本心?」
「本当よ。でもね、あたし、あなたのそういうところ嫌いじゃないのよ?お友達になれてよかったと思っているわ。でもそれであたしの人生がどうとか、明日からの生活がどうとか、そんなことは一切ないと思ってる。あなただって今のこの時間にに意味を見いだせないでしょう?」
「よしてよ。少なくともさ――」僕は大きな口を開けて青空にたくさんのトンボの数を数え始めた、お腹ばかり見える、羽は透明で、一枚一枚に模様がついている。「別にくだらないことでも構わないのよ。本当にどつき落として殺すわけじゃないんだから、――でも、思いついてから喋ることだわね。帰りましょう」彼女はすたすたと原付の方へと歩き、さっさとエンジンをかけヘルメットを被り、僕の方は見ず、催促し続けた、僕だってここで粘ってやろうという気持ちにはならなかった。もはや川の残像も消えている、名残惜しい気はしたが、これ以上じっとしていると完全に透明になって消えていくような気がしていた。慌てて彼女の後ろに乗り、背中を叩いた。彼女も僕も黙ったままだ、原付だけ動いた。
「ねえ、あの川を夕日が染めるときっと素敵だと思うんだ。僕はあのような川を見たことがない。広い水面に無数の波がある、しかしそれは海の波のように立ち上がらない、静かな波――網目のように、ほとんど存在していない細くて薄い波だ。きっと夕日は、あの波にバラされていく、オレンジとか紺とか紫とか深い緑とかピンクやら赤とかもう思いつく限りの全部の色が水面で踊っていく。ねえ、僕はメコンを去るとき、振り返ることができなかった。もう一度見るとよかった。あそこにもう二度と行けないような気がする」
「あなたが見ていない時もメコンはあるのよ、心配しなくても。だから好きなときに思い出しなさい、何千年後もあの川はきっと存在している」
「中国にダムができて干上がったりしない?」
「心配しなくても、ダムはいつか壊れる、でも水と重力は川を生かし続ける」
「ダムができるとプラーブックはいなくなってしまう」
「そこらじゅうに養殖場がある。あなたの大学の水族館にだっている。あなたが心配してどうにかなることじゃない。それにさっきのところって東向きよ? 夕日なんか見れないじゃない」
紫色のモーターサイクルは、キャッサバとコーン、そしてソルガムの農地に挟まれた広い街道を進んだ。いくつもの集落を過ぎた、道脇に広げられた市場には鶏が吊るされ、ソーセージが並べられており、老婦人がはたきでハエを追い払い続けていた。
「あなたの国の宗教ってなあに?」彼女は突然尋ねた。僕はその理由を尋ねた。「あなたは来世だとか、天国だとかを信じているのかって、気になったの」
「宗教ってのは僕にとってインチキそのもので、だってブッダもキリストも僕らを実際に救っちゃくれないだろう?」
彼女は笑った。
「でも、あなたって人は天国でも信じてないと存在してちゃならないわ」
「生きてちゃダメか?」
「だって、生きること、死ぬことを真っ向から信じちゃいない、現実から目を背けている。少しだけ、馬鹿みたいに見えるわ」僕はそういう彼女の表情を疑った。達観という皮の裏側に恐怖が見えたように思えたのだ。
「だって今こうやってぶっ飛ばしているときに、トラックに潰されちゃうかもしれないし、どうしようもなくくたばってしまう可能性だってあるわけじゃないの。そういうことから目を背けて生きている人間のために天国ってものがあって、あなたもくそったれな無宗教だかしれないけれど、確固たる文化が存在しており、その底には天国か浄土、輪廻転生への信仰が透けている」
「日本の宗教は仏教と神道の混じった曖昧なもので、大人はハロウィンもクリスマスもやる。信仰なんかないよ」
「死んだら天国に行くってのは信仰でもなんでもないのよ、本当のことを言ったら。信仰から繋がった簡単な文化の刷り込みで、あなたは絶対に天国を信じている」
「そうなのかな」
「死んだらどうなるの?」
「本当だ。頭では無くなるだけだって判っているつもりなのに、僕はどこかへ行こうとしている気がする」
「死んだっていなくなったりしない、回るんだから怖がらないで宜しいのよ」
「人は死んだら、テレビのスイッチが切れるみたいに死んでいく気がするんだ。子供の頃から、そういうイメージがあった。映像が切れるんだ。後には何も残らない――生きている人から見てると、小さな余韻が二秒残る。それで全部終わり、ちょっとで死体は冷め切っておしまいだよ」
「テレビが消える前の一瞬の白い光、ジーッパチンって音たてて消える時に一番白い、マグネシウムみたいな光がある。私ああいう昔のテレビ懐かしいな」
少しずつ夕暮れが迫っていた。僕は夕暮れとブラウン管の消える隙間に天国を見出した。
「あの光は多分、記憶だよ。記憶が体を出てく時にピカッと光って――あれは凝縮された記憶なんだろうな。その瞬間きっと人はぎりぎり死んでいないよ。人が死ぬ時には思い出が古いフィルムの映像みたいに流れるっていうじゃないか? あれがその光だ」
「どうして白いのよ」
「だから、凝縮されているんだ。思い出って何年分もあるだろう? だからいっぱいすぎて白いんだ。近くから見ると虹色なんだ。なんせ全ての記憶が一斉に溢れ出ているんだから」
「生きている人から白く見えるなら、死んでいく人間も、明る過ぎて何がなんだかわからないのね。あまり仕方がない天国だわ」
「生きている人間にはわからない、でも死んでいく人にはわかるんだよ。なぜなら、覚える必要がないからだ。覚えないでいいから頭も取捨選択もしないでいい。全部、大事なこともそうでないことも全部ゆっくり見て回る時間がある。けどそれを覚えておく必要はない、これから死んでいくから」
「素敵。でも私そんなにたくさん覚えていないかも」
「思い出すよ。無くならないんだろう?地球とかいう一番大きなベッドで長いこと眠るんだ。他人が見ると死んで行く人の最後の記憶は一瞬だけど、死んでいく当人にとってはそれは半永久的な夢なんだ。白い光は包まれている本人から見ると色とりどりで、それでいて全部把握できる。人生で最も鮮明で色のついた本物の夢を見るんだ」