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アポカリプスドリームス 2.

 昨年の十月のことだ。僕は大学内の水族館で三匹のメコンオオナマズに語りかけていた。涼しい川を思わせる青いペンキ塗りの壁と分厚いアクリルガラスの間で窮屈そうにその老魚たちは泳ぎ回っていた。黒々とした賢者は重い口を開いた。祖先のいた川は青くなかったが、私にとってはこの色が故郷だ。僕の生まれた場所で水は青かった、確かに青かった、ここのペンキみたいないやらしい色じゃないもっと透明の青だった。老魚は胴を翻した、ここは私の生まれた場所ではない――僕の生まれた場所でもない。水族館の半開きの扉から乾季の風が忍び混んでいた、水のなかにいても喉は乾くんだろう?
 どうしようもなく古い水族館で閉館のアナウンスなんかはなかった――職員が退屈そうに電気を消し、戸締りを始めると僕は閉館の時間が来たことを知り、水族館をあとにした。

 その晩僕はナマズと二人で大学の中にある酒場で時間を潰そうとしていた。ナマズというのは、水族館に泳いでいるメコンオオナマズではなく、大学寮に住む唯一の日本人研究生であるカジハラという男の愛称である。この男は魚の勉強を日本でしており、やがてはるばる東南アジアまで魚を捕りに来るようになった。大学に住んでいるものの日中のほとんどの時間をチャオプラヤに網を放って過ごし、大学の施設にいるのはその魚の臓物を調べるときだけらしい――魚を勉強しているので日本でこのあだなをもらったのだ。その話をされて僕も彼をナマズと呼んでいた。水槽に泳ぐ老魚たちとは違って、彼は僕ほどでないにせよ未熟で、頭でっかちだった。そのお陰で僕のような人間と四六時中つるんでいる。
 線香のにおいを辿って歩くと、薄暗い細道の先に朽ちかけた木の橋があった。その先に大きな榕樹があり、太い幹には五色の布が巻かれていた。無数の気根が水分を求め大地を探していた。その下には血を模した赤いファンタにストローを差して供える三人の女子生徒の後ろ姿があった。ひざまずいて手を合わせる彼らを見てナマズは笑った。
「ここはほんま昔やな」
「ああ、少しばかり後れているね」と僕は返事をした。
「前なんかさ、緑の電飾でピカピカしとる祠とか見たで。ここの信仰は妙やな。自然霊を祀っとるって研究室の奴らは言いよったけど、見たらミニチュアの仏陀もあるし。」
「なんで祠には決まって鶏と縞馬の人形なんだろうね? 鶏はまだしも、縞馬なんかアフリカにしかいないだろう」
「知らんわ。」
 ナマズは日本語はもちろんのこと、現地語を話すことができた。そうでもなければフィールドワークなど立ち行かなくなるのだと彼は言う。しかし、僕は大学の授業を英語で受けていれば済むので一向に現地語を習得しなかった。そのせいで、僕にはナマズ以外の友達がほとんどいなかった。
 バナナの葉で隠された違法の酒場に入り、カニや牡蠣の入ったうまい鍋とビールを注文した。今日は僕の十九の誕生日で、秋でもないのに月が変わっていくということに疑問を抱いているところをナマズが祝いに連れてきてくれた。「カニ入ってるトムヤムを食ったことはある?」とナマズは氷の入ったグラスにビールを注ぎながら言った。僕が首を振ると彼はこう続けた。「ラヨーンで海を見ながら食ったんやけどさ、ここのも同じくらい美味いわ。なんで海から遠いここでも海鮮の鍋を食えるんやと思う?」
「どうして?」
 彼は首を振り、知らないと言った。ナマズはしきりに携帯電話を気にしていた。やがて彼女から電話が来た、と言い店を出ていった。まだ注文した鍋は来ておらず、僕はひとりでビールのグラスを握っていた。他の学生は騒がしく楽しんでいた、大きな声で笑い合い、やがて歌を歌った。僕はそれを黙って見ていた。ビールはどちらかというと苦手で、ひとりでいるときにまで飲みたいとは思えなかった。