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アポカリプスドリームス 3.

 八月にこの国に来た時のことを僕は酒場でナマズが戻るのを待ちながら思い出そうとしていた。高校を卒業したばかりの僕は、ドンムアン空港に降り立ったとき、翅のついた種子のように身体の軽さに踊っていた。でも、その時身体中を駆け巡っていた夢は日に日に色あせて今や自由といえるような足取りで街を歩かなくなっている。あるいはこの土地が悪いのではないかとさえ考えることもあった。出会う人々が優しくないからなのかもしれないと考えた。どうしてもナマズとばかり時間を過ごしていた。それは、僕と彼が同じ国の人間であったからにほかならない。彼の方言の癖が移るほど長いこと僕は彼と時間を過ごしていた。でも、ナマズはその倍の時間を遠く離れたところにいる恋人との電話に費やしていた。どこまで行っても僕はひとりぼっちなのかもしれない。ナマズは三十分経っても戻らなかった。仕方なく氷の溶け始めたビールのグラスを持ち、それから一口を含み、孤独な人の酒は美味いのではないかと考えた。これも馬鹿の見る夢だ。ビールはいつになっても苦いままだった。海鮮の鍋が運ばれ、店主の男が僕に笑いかけた。僕はほほえみを返したが、彼の心にあるものが何なのか、と考えてもわかりそうにないし、言葉が通じないところでほほえみなんか無意味な気がした。一人の男が正面の椅子、ナマズが座っているはずのところに腰かけて、つたない英語で僕に話しかけた。彼はこのようなことを話した。自分は森林学部で勉強をしている三年生で、英語はうまく話せない。僕はほほえみ、日本人だと言った。男はシャケは美味いといった。僕はシャケは何も日本だけの魚ではないと返事をしかけたが、言葉が伝わらないことを考えて口をつぐんだ。彼は金色の丸縁眼鏡をいじりながら「これ、飲んでもいいだろう?」とナマズのビールを飲んだ。

「コップに氷を入れるよね、ここの人は。」

 そう僕が言うと、彼は笑った。

「ここは年中暑いからね。」

「氷が溶けてビールの味が薄くなる。」

「それが時間ってものだろう? 暑いところなんだ。」

「味が変わっていく。」

「変わるのは何もかもさ。味を留めたいのなら急いで飲むこと」そう言って彼は残りのビールを全て自分のコップに注ごうと瓶をとり、僕は反射的にグラスを差し出していた。男はうなずいた。

「名前は?」

「ピーラッドと呼んでくれ」

「僕はイチロウだ」

 僕らはコップを交わし、残りのビールを飲んだ。ピーラッドは外へ行こうと言った。僕らはグラスを持ったまま外へ出た。僕はふと海鮮鍋がぐつぐつ煮えているのを見た。ピーラッドはすぐにその仕草に気づいて、僕にグラスを持たせ、シャツの裾で鍋を掴んで歩きだした。酒場の裏口を出ると小さな石机で老人と店主がカードをやりながら酒を飲んでいた。その向こうには大きな池があり、無数の睡蓮の蕾が水面から握り拳のように突き出されているのが店の橙色の明かりにぼんやりと照らされていた。石机に鍋を置くと、老人と店主はなんの躊躇いもなくそれを小皿によそって食い始めた。まるで初めて食ったかのように老人はその味を褒め、ピーラッドは愛想笑いとお世辞を重ねながら小皿にスープをよそい、カニとエビを少しずつ入れて、僕によこした。「旨いよな?」という。僕はうなずく。そして、少ない言葉で尋ねた。海は近くにない、魚はおいしい。店主は得意げに複数の言葉を早く並べた、ピーラッドが言った。彼の故郷は海のそばにある。うまい魚がたくさんないこの街でも、美味いのとそうでないのを見分けることができる。

「ピーラッドの故郷はどこ?」

「とっても田舎だ。キャッサバとコーンの畑がどこまでも広がっている、メコン川のそばにある貧しい集落だ。この老人もそうだ。出稼ぎで原付のタクシーは大抵出稼ぎで、東北の人間が多い」僕はその時、自分の正面に居る老人が、初めて会う人間でないことに気が付いた。でも、原付のタクシーは多く使うわけではないし、顔を覚えるほどの人なんかいない。それではどこでこの男を知ったのだろうか?色んな引き出しを開けたり閉めたりしているうちに向こうの口が開いた。

「イチロウの故郷は?」

「広島のそばだ」店の中にナマズが戻ってくる様子が壁の隙間に見えた。ナマズはしばらく周囲を見まわし、僕がいないことに気が付きビールを注文した。

「ヒロシマ、ナガサキ、爆弾のところだ。」

「そこからは十分離れていて、みかんだとか海がある。魚もおいしいんだ。」

 ピーラッドが僕が海のそばに住んでいて、ミカンと魚を毎日食べているというようなことを老人に説明した。広島の原爆からは遠く離れている、バンコクからラヨーンぐらい、と地図を見せながら話している。「安全だな?」そう聞きながら、老人は僕のグラスに瓶からおかしな酒を注いだ。「これはラオカーオ、老人好みの酒でかなり強い。そしてとても美味い。一気に飲むなよ」とピーラッドが忠告した。そのとき僕には怖いものが一つもなかった。なんていうか、一気にいけば自分も友達になれるということを証明できるように思えたのだ。喉は文字通り焼けるように渇き、僕は強くせきこんだ。老人とピーラッドは笑った。店主は料理を出すために店に戻っていた。

 「イチロウ、あの男は、ピーレックというんだ」

 「レックって小さい? 大男だけど」

 老人は「身体は大きいがあそこが小さい」と言った。いかにも老人らしいジョークにピーラッドは笑った。僕は意味を取り違えているかもしれないと思い、すぐには笑わなかった。すぐにピーラッドは「これは冗談で、あだ名はガキのころにつけられるんだ、赤ん坊はみんな小さいから、レックというあだなは多い」と注釈をつけた。その時、僕は思い出した。

 この老人は、僕が散歩をしていた池のほとりでいつか釣りをしていた老人に違いなかった。ある雨季が終わりかけていた日、池を黙って眺めていると、突然大雨が降り始めた。あのころ、まだ雨が毎夕、バケツをひっくり返したどころじゃないくらい降って、何もかもを洗い流そうとしていた。そんなずぶ濡れの僕を見て、老人は使い捨てのレインコートをよこしたのだった。一度すれ違った人間とは二度と出会えないだろう、僕はそんな風に信じていた。でも、この瞬間だけは街、国、この世界が唐突に小さくなったように感じた。