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アポカリプスドリームス 4.

 タイに来て初めの一週間で見た一つの変な夢について。僕はバンコクで幅広の道に圧倒されていた、片道四車線もあるような道で空いていると一〇〇キロで車は飛ばす、混んでいると一センチも動かない、極端な道が最初のバンコクの印象だった。夢の中で僕はいつも歩道橋のないその通りを渡ろうとしていた。どうして渡らなければならないのかはわからないが、とにかく向こう側へ行かないといけなかった。車がたくさんおり、ビュンビュン飛ばしているのでなかなか踏み出せない。後ろからカラカラ音が聞こえてくるので振り向くと二足歩行の立派な象(顔だけ象の人間)がスケボーを漕いでくる。彼はほいと道に突っ込んでいった。混んでいるところでは車と車の間を縫うように行き、空いている時は器用に高速で行き交う車を避けていった。彼は平気そう。そういう夢だった。

 常に生きている理由と生きていく理由を探していたのは、僕らが若くて素晴らしかったからだ。鳥籠のようなアパートの五階からはバンコクという街の横顔を覗くことができた。その人の瞼は重く閉じられていた、天の中央を転がって大地に熱気を降らせ西の世界へ赤く消えていくそれがこの街を作り上げた。太陽に街は寝かされていた、しばらく長いこと。しかしいつ目を開き立ち上がり、歩き始めてもおかしくないようにも見える、にも関わらず人間はビルを建て続け、地面にアスファルトを流し込んでいく。これもまた美しい行為だと思えるようになるまでにはまあまあ時間がかかった、そうなると若くて素晴らしい人間とはもう言えなくなっている。これは、やはり人間のあれこれに僕が納得できていなかった頃の物語だ。のんびりしているうちに太陽は五十回も百回も沈んでいく、恐ろしいことだが、どんなに冷静な人も太陽を掴んで止めることはできない、そんなことをしたら熱くて仕方がないからだ。悟りは老いであり、みすぼらしいものだ。若いうちに動いているものを睨んで突き止めるのは難しいことだ、だから試みるな。ただ変わりゆく時代を忘れて没頭しよう。今は、もうナマズはいなかった、多くの人々が僕の前から去り行く。思い出だけが僕の手の中に残っていた。さあ、やっと旅の話をしよう。

 雨季が終わったことを理由にふさぎ込んでいた僕を旅へ送り出したのも、やはりナマズだった。高校を卒業して温帯の街を飛び出してきた僕は、もちろんこの太陽に夢を抱いていた。もうあの感覚を追い求める必要はないのかもしれない。非日常の存在すると信じて降り立ったのはその土地には、大昔に何百という象を率いてブルマやカンボジアと戦って来た人の子孫が暮らしていた。美しく気高い国道1号線の空は当時まだ高架に侵されていなかった――少なくとも僕の住んでいたあたりでは。

 そんなわけで、引きこもりをやめるために旧式の国鉄車両に乗っかってひたすら北上していた。うす紫色の制服で遠足の学生が大きな声で話しており、窓から差し込む風の乾いている様に、空港に降りた時と同じ期待をまた覚え始めていた。大学以外の場所にほとんど行かない自分にとっては、この国でも学生が遠足へ行き、先生という仕事をしている人がおり、また農夫や出稼ぎの水商売の若い女の人が地方へ帰ろうとしている、という列車の中に切り取られた日常が普通ではなかった。確かに人は自分が認知していない時にだって生きている。学生たちはアユタヤでぞろぞろ降りて行って、サラブリージャンクションを越え、大きなリサーヴァーを突っ切っている頃には、乗客はもうほとんどいなかった。誰かが、タクシーの運転手はイサーン人とラオス人がほとんどで、ゴミ収集車はビルマ人ばかりだと言っていた。僕は黙って少ない乗客がそれぞれどのような人生を送って今に至り、これからどのように死へ向かっていくのかを考えていた。窓の外に風車が立っていた。そして、列車は曲がりながら上がっていき、やがて見えた台地にはどこまでも農地が広がっていた。本を読み、気分転換に車両から車両を歩き、むき出しの連結部に立って高床の家屋を睨んだ。そして、席に戻り窓に肘ついてまた景色を眺めた、僕は他に人間が生きていることに気づいてもなお、ひとりに違いなかった。景色の中にある一部の高床式家屋は一階部の吹き抜けをブロックとかコンクリートで塞いでしまっていた。今や、高床式住居ではないが、かつてそうであったことは明らかだった。純粋な高床式家屋があり、セメントで埋めた仮二階建ての元高床式住居があり、薄橙色の平家一軒家があった。時代の移り変わりの途中に見えた。十年後には純粋な木造高床式住居は無くなってしまっているかもしれない。時が経ち、列車の窓から仮二階建ての高床式住居まですっかり一つも見えなくなった時、バンコクや日本にとっての過去はイサーンにとっても過去になるのだろう。遠くのキャッサバ畑でタイ国産種の赤い肉牛がモオと言った。