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アポカリプスドリームス 8.

 彼女はまず僕の方を見ずに、身の上話を少しだけやった。大学はここから遠くないコンケーンというところであると、地元はコンケーンとここウドンタニーの間であり、農家の出身で奨学金で大学に通った。観光関係の勉強をして、しばらくラオスにインターンで住んでいた、今はここのホテルで働いている――など。次は僕の番だった、バンコクで大学に通っており、引きこもりがちであったことを指摘され、仕方なく旅に出たと僕は彼女に言った。僕は日本人だ、他には特に説明すべきようなことはない、平凡な人で、友達がとても少ない。

「旅に出て気づいたのは、僕があまり素敵な日々を送れていない理由ってのが、場所が悪いからではなく、自分が何もしないからだ。だから切符を買って昼前にはバンコクに向かう列車に乗る」

「この街は気に入った?」

「気に入るも何も、昨日日暮れどきに入ったんだ、何も知らない。悪いところではなさそうだけれど、今の僕じゃどうもダメみたいだ」

「あなたって馬鹿なのね、初歩的なことにつまずいて歩くのをやめているみたいだ」と彼女は笑い、パンを齧った。

「これから歩き方を学ぶんだと思う」

「今歩いてみればどう?転んだら私が手を取ってあげるから。今やろうとしないことはバンコクでもできやしないと思うね。どこにいても一緒なんでしょう?ここでも変われるわよ」

 でもチケットを買ったし、バンコクに帰ったらきっとちゃんと生き始めるはずだ、と言い、アルミのプレートの上で目玉焼きを潰した。少し醤油をかけて、パンで黄身を掬って食べると彼女は眉を顰めた。

「三度目はないのよ?」と彼女は言った。「今回は運よく私はあなたに気がついたけれど、バンコクには人がたくさんいるんだから、きっと気付きやしない、一生私たちは会わないまま残りの人生を生きていくことになる」――初めて会った人間のほとんどがそうであった。人生はすれ違いで、知り合ってもやがて疎遠になっていくのも決まっているのだから人は出会わない方がずっと幸せだ。僕はそのように思っている。僕は黙っていた。そして暖かいお茶の入ったグラスの底に揺れる細かい茶葉をみつめ、一口飲んだ。「どこか素敵なところに連れて行ってあげるから。旅行、ちゃんとしとかないと帰って誰にも話せない」

「話す相手がいないんだから同じだ」

「だからダメなんでしょう?帰って話す相手をちゃんと探すつもりないんじゃない。こう見えて私って色々知ってるし、あなたも退屈しない」

 僕はその時彼女の目を初めてまっすぐに見つめた――その瞳にあった何かに惹かれ僕は頷いた。そして手元のチケットを真ん中から二つにちぎって、半分を彼女に寄越した。「ありがとう、じゃあこれを記念に取っておいて」

 本当の旅が始まって最初にやったのは、破れた切符を持って駅に返金にいくことだった。彼女は駅員に熱心に説明をしており、僕は必要に応じてパスポートや学生証をカバンから出して彼女に渡した。やがて駅窓口から声はしなくなり、彼女はしばらく首を振り続けるだけの駅員に話かけ続けていた。「バカみたいなことしてるんじゃないよ」と彼女は言い、セロテープを貼った切符をジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。

「どうしてこの街に来たの?」と彼女は尋ねた。「割にちゃんとした理由があったんだけれど…」と僕が口を開いたが、彼女はそのまま歩き始めた。僕が口をつぐむと振り返り、「黙って聞かなきゃいけないような話じゃないでしょう?」と歩行と会話を促した。彼女はそこらへんの人よりかは歩くのが早く、僕は踏んでいくレンガの色を選んだりは出来なかった。

「淀みなく話しなさいよ、さもなくばどんな言葉も語られないままに消えて行ってしまう」

「大学の中に一つだけ酒場がある、学生だけでなく、大学で働いている清掃夫やモーターサイクルタクシーの運転手なんかもいる――」

「大学の半径三百メートルで酒は出せないはずでしょう」

「違法だけど店はバナナの葉っぱで隠されていて検挙されていない。瓶ビールをわざわざやかんに注ぎ直して客に出しているんだ、それで。えっと、ある日そこへ友人に連れられて行ったんだけれど、友人がいなくなったとき、アルコールで自他境界のぼやけた若者に話しかけられ、それからある老人と三人で話すことになった。蓮の花が咲く池を眺めながらラオカオを飲んだ。彼らは各々の思い出話をした」――彼女は一度も振り向かずに歩き続けた。横断歩道のない車道をいくつか横切り、雑踏に入り、ダウンタウンの裏路地を抜け、雑貨屋の前で遊ぶ子供がいる、そのような光景が横目に消えさった。僕の声も今にも消えそうで、一秒ごとに発された言葉は消えていた。

「外国の知らぬ街、あるかどうかも昨日まで知らなかったような場所に生まれた人間が思い出話を始めたことに僕は驚いたんだ――当たり前のことなんだ、誰にだって過去があって、昔話を共有する相手がどこかにいる、でも僕は彼らを人間として認識していなかったから突如浮かび上がったように思えて驚いたんだ。そして、気づくと涙を流していた。もちろん君のことを、僕は人だと思っているけれど、本当に生きている相手だと思って接することができているのか、確信を持つことができない。僕は他人に都合よくあってほしいし、優しくてミステリアスであってほしいと思っているのかもしれない。邪悪な期待だよな。そこらを歩いている人は人形じゃないし、空を横切る鳥は僕の心情の投影じゃない。にもかかわらず僕は…」気がつくと僕らは大きな池のある公園に来ていた。「――つまりその酒場で会った男たちの生まれた場所に一番近い都市がここだったんだ」僕はいつしか鉄網の柵の間をくぐり線路を渡り、細い未舗装の道を通りここへ来ていたのだ。そして僕は彼女が時折相槌を打ってくれていたことを思い出した――が、彼女が意味のある言葉を発したかどうかを思い出すことができなかった。

「たくさん話したね」と彼女は僕を振り向いて言った。「考えることはみんな同じよ。私はあなたの理想通りには歩かないし、希望の象徴でもありえない。でも、そのように解釈すればいいじゃない。私をあなたの期待の形に切り取っても構わない、そして私も好きなようにあなたを解釈していく――すると私たちは永遠に絵のような人たちでいられるわけね、浮き上がらず自我を持たず、誤解は許される。そうすることで本当の形に近づいていけるのかも――ねえ、聞いてる?」

「全然、僕は今も君の言葉を鏡にして自分のことを考えていた」緑に濁った池の水面に波はなかったが、僕も彼女も隅で網を担いで泳いでいる男がいたから釘付けだった。池の周りには火を吹いたように赤い花を載せた木がたくさんあった。「この木は街のシンボル?」

「マダガスカル原産よ」

 まともに相手を見つめられない人間同士の、その間に存在する風景が人の本当の形を示そうとしていた。同じものについた差で僕は彼女の形を少し知ったような気になった。

「人の話を聞くことが好きで、」彼女はそう言い、ペットボトルから水を飲んだ。こぼれた滴が首筋から白いTシャツの間に流れ落ちていった。「ホテルの受付にいると、たくさんの人が現れて去っていく、話すことなんかはほとんどないの。これって少しすり減る。時々話す人がいると、あなたが見知らぬ人の昔話に泣いたことと同じで、私もそこらじゅうに生きている人がたくさんいるってことを突然思い知って、なんだか色んなものを恋しく思う」