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bum  第2章 natsu ..4

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 山について語ろう。チェンライの山村で僕は一か月生活した。一人での歩行の最後の日々だ。タークからピン川に沿って北上し二週間経ってチェンマイに着いた日、僕はバンコクのカセサート大学の学生の調査グループの車でチェンライにたどり着いた。彼らの調査地であった山間部の村に僕は今滞在している。

 それはカレン族の村で、人は皆例外なく農業をして暮らした。カセサート大学の農業知識普及関連の研究をしている学生たちは、バンコクに帰る前に、僕がそこに不自由なく滞在できるよう話をつけてくれた。学生たちは僕がタイ語を話せるということで、調査のシートを預けて行った。一か月後に迎えに来てくれるという。

 この村のある山は国内の最高峰のある山脈と同じ連なりで、気候はかなり涼しく、夜などは寒くすら感じられた。カレンという種族はタイとは異なった顔立ちをしている。学生らがバンコクに戻る前、一人の女学生にそのことを聞いたところ、カレン族はかつてイラワジ川の流域に住んでいたという。何千年も前にこちらの方へ移ってきたらしい。

 僕はその村でいくつかの家に泊まり、それぞれの家でやっている様々な生活の様子を書きとめ、色々な畑で色々な労働をした。一つの家に留まらなかったのは、学生たちと一緒に村を回っていたころに村人たちと仲良くなり、代わる代わるに今晩はうちにとまらないかと言われ、言われるままに動いていたからだった。その村の人々は山に広い土地を持っていた。歩いて三、四時間もかかるようなところにまで畑があったが、村は一カ所に固まっており日が暮れる前に皆農作業を終えこの小さな村に帰ってきた。村人もせいぜい二百人程度であり彼らの全員に顔を覚えられることは決して珍しいことではなかった。

 県内で最も盛んな商業作物はゴムの木であるそうだが、この辺りは国立公園内での居住域かつ農業が特例的に許された地域である為、そのような商業作物の栽培が禁止されている場所がほとんどだった。一部菊をグリーンハウスでの栽培をしている場所が点々とあったが、それらは丁度公園から少し出た場所であった。それでも学生たちはまだこの地域の自然保全は十分ではないと言っていた。主に外資の企業からの植林などのせいで森林破壊が多いと言う。彼曰く、企業は主に中国と日本からなるのだと言う。僕はそれを聞き、これまで自分が何か悪いことに加担しているという自覚が全くなかったと気づき、しばらく硬直し動けず、その後も数日間はとても悲しい気持ちが振り払えないでいた。

 村人のほとんどは貨幣経済にほとんど依存せずに暮らしているようで、若者が時々パソコンを持っていたりするくらいで、他はほとんど自給自足であった。彼らは農業から得られる利益のほとんどを村全体の福祉や、若者の学業の為に使っているようだった。実際に食べもののほとんどは村で作られるようで、日常的に買わなくてはならないのはトマトソースの魚缶と塩くらいであるようだ。

 やはり僕が労働から得る給料はスズメの涙ほどで、帰りはバスを使って一日で帰るようにしなければならないだろうということが分かった。往路と同じように歩いて毎日どこかに泊まりながらという訳にはいかない。しかし貨幣は少ないが食べ物は少なくない。食事はたらふく食べることが出来た。そしてそれがとびきり美味かった。これまで食べたものと比較することは事実できなかったが、感覚的にはとびきりという言葉をつけておいて問題ないだろうと十分思える驚きがあった。

 話を聞いていると、どうも彼らは本当に金などどうでもよかったらしい。バンコクを中心に発展が広がって、ついに若い層に教育が与えられたり、外部のものが便利なものをもたらし、より効率的なものを得るようになって、村もその影響を少し受けただけだ。良いものがあるのならそれなら若い世代に勉強などをさせてやり、年寄には現代の医療を受けさせてやれるならそれがいい、というくらいの感覚なのだ。金銭がなくても食事には困らないのだから。彼らは作物の交換をよく行っていたし、貨幣経済がすぐそばまでくるまでは、あげる、もらう、ということも日常的にあったらしい。今でも村人同士は仲が良いので今でも、あげたものは帰ってくるし、もらった恩もいずれ帰っていくというように考えているようだった。しかしそれらがすっかり変わってしまうのも遠い未来の話ではないかもしれない。

 ある程度貨幣経済が基盤に居座るようになってからも、今のところ、この村では原始的で無駄のない生活、そして嘘偽りのない感情が生き方に根差している。僕は彼らの作った服を着て、彼らの作った家に住んだ。木の床に座ってノートを読んで、フォンと会っていた日を知ると、きっと彼もここに来れば喜んだだろうにな、と思うことがあった。

 村での労働で僕が最も愛したのは水牛の世話だった。僕が二十頭ほどの水牛をつれて数キロ向こうの牧草のある川辺に歩いていく。

 まだ学校へ行き始めていない子供が二、三人ついてきた。彼らは僕らに話しかけたり、一緒に遊んでもらおうとしているわけではなく、ただ水牛と一緒に川へ行き、そこで遊び、お昼に帰ってくるというのを日常にしているだけだった。これまで爺さんがやっていたことを僕が代わりにしているというだけの違いだった。何度か彼らに話しかけたり、食べ物をあげたりしてみたが、大喜びしたり、期待していたというそぶりも見せず、まあ話しかけられたら答えるし、食べ物ももらえるのなら貰っといておくか、という程度で別に僕から何かを求めているわけではなさそうであった。

 水牛を連れて行く川はそこまで大きいものではなく、ごろごろと岩の転がっている間を、幅二、三メートルの水がさらさらと流れているような小さな川だった。水牛は時折水を飲みもするが、ほとんど川から数メートル離れた林で草を食んでいた。僕は水牛が水を飲んでいる場所より少し上流のところで足を水に浸けて、水牛の首についている鈴が遠くでゆっくりカラン、カランと鳴っているのを聞いていた。子供たちは僕に見えないところで遊んでいるらしく、時折川辺に駆け下りてくるのが見えた。

 そういうのんびりとした時間の中で、僕は時々自分が失った全ての記憶に関して考えた。何もそれらを失って悲しく、悔いているというようなことはなく、ただ考えることが多かった。ゆっくり僕が持っている記録、記憶ではなく記録をゆっくり読み、それを物語に入り込むように辿った。

 僕はノートを開き次に大学生たちが戻ってくる日付が少しずつ近くなるのを知る、それを見るのは少し心寂しかった。しかし、そのことはすっかり負の感情というわけではなく、ふさぎ込むようなことはなかった。負の感情とは何なのか?そもそも負の感情は何をもって負と捉えられているのか?僕は悲しさや寂しさを否定することを、間違ったことの様に感じ始めていた。

 この村にはそもそも悲しそうなものが感じられなかった。しかし稀に村人の中には突如悲しみに捕らわれるものがあった。それは村の外から来る文明の波そのもの、とそれに揺られて生まれる不安に嫌悪感を催すからだっただろう。彼らの怒りや悲しみがコンクリートで覆い固められ電気で麻痺されているように思えた。彼らは感情を無視できなくなったときや、感情を急にふと思い出した時、高圧でそれを受け吹き飛ばされてしまうのだろう。時々、悲しくなってしまいどうしようもなくなってしまっている人をみると、僕はやるせない気持ちになった。その慣れていない麻薬の様な状態がこの世界を悲しませたり、分かち合えなくしている理由の一つなのかもしれない。

 僕は文明が悪なのかとまず考えた。しかしそれも誤りであると思えた。自分が精神的に進化しているというわけではないが、もし発展を急ぐ人々がその発展と同じ速度で精神的に進化しているのであれば、その発展した文明の中で心を荒げることもないのだろう。僕はただそこに影響されづらいのだ。

 悲しいという感情が嫌われることが負の感情なのかもしれないと思った。僕は悲しさや寂しさを負のものとして受け取らず、自然に感じるようになった。ありのままに悲しみ、寂しく感じ、そう感じることを苦しいこととは思わないのだ。悲しさは、自分を揺さぶるものでも何でもなく、同じように流れる水だった。