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bum  第2章 natsu ..5

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 ある朝目を覚ますと雨の音が聞こえていた。暗い部屋の板の隙間から薄青い冷たい空気が入り込んでいた。雨はバナナの葉を敷き詰めた屋根の上から聞こえる。僕はもぞもぞと起き上がり、戸口から顔を出し、充満する霧を眺めた。

 日は始まろうとしているが、太陽はそこになかった。遠く木々があった。乳色の霧の中に、ただ青い影の形としてのみ木々は存在していた。霧は濃かったが、木々の陰はそれを超越して遠くから僕の瞳に訴えかけていた。木々の陰は尚どこまでも遠くまで続いていく。ひとつひとつの木々がまるで人のように様々な形をしていた。

 長く眺めているうち、僕はまるで木々を真似て人が歩き始めたのではないかと思うようになった。木々は何かを自らに強制することなく深く考え続けていた。それらは純粋に印象だけで構成された身体だった。僕は梯子をおりて家から抜け出た。それは確かにただ出かけるというよりは抜け出すという感覚を持った出発であった。

 僕が村から歩きでると、うとうとしていた犬が一匹、とにかく痩せた犬が一匹目を覚まし、面倒臭そうに僕の後をついて来た。僕はまっすぐにその森に向かっていくのだ。まだ牛たちを連れ出す時間ではなく、ただ僕はいたずらに歩き出しているのだ。ある時点で犬は僕を置いて先に走って行ってしまった。犬は人の姿を遠く茂みの中から覗きながら、先回りしていることがある。きっと彼は僕がどこへ歩いているのかを知っているのだろう。知っていると言うよりは考えついていると言うべきかもしれない。もしかすると導こうとするのかもしれない。

 日の出の寸前に空気を支配する大粒の霧は、木の葉と眠りに雫を垂らしている。僕はそれを指で静か拭った。そして僕はその水を嗅いだ。それはソーマの様に甘く薫った。明晰性の香りだった。その匂いはあまりにもはっきりとクリアでありすぎて、もはや無臭と言えるほどに純粋な智慧の香りを持っていた。

 再び犬が僕の前に現れ、ちょこちょこと走って行った。僕がのんびりと歩くのを振り返り、その犬は低く吠えた。僕は目をシャキッとし直して、一歩一歩意識するようにしゃんと歩いた。僕は傾斜を上っていた。それはきっと、村人たちがモーターサイクルを手に入れる前に山間部の畑へ向かう際に歩いていた道だろう。勾配は僕がこれまで歩いた村の道よりも急なのではないかと思えた。脇には野放しになった烟草の葉っぱが生えていた。畑仕事の行き帰りに採集するために植えたのだろうが、人は今ここに烟草が生えていることを覚えているのだろうか。

 僕は犬を追うのと道を辿るのの丁度間くらいの感じで、歩き続けていた。近いのか、遠いのかは、分からず、霧の中で僕は距離の感覚を忘れ、ただ歩き、時に登った。僕は自分の思いが脳から溶け出しているのではないかというように感じた。何も考えずに歩くようになり、僕は自分の身体がなくなってしまっているのではないかというように感じ始めていた。まるで僕は何でもないように歩いていた。

 ただ視界が前へ前へと移動しているのみで、そこには体の呪縛や重力へのしがらみはないのだ。僕は記憶を失ったが自分の中に何か不動とも思えるようなものが存在するのを知っていた。そして僕は多くを考えることをした。そして時折僕を先導するその犬もその考えを持っているように見える。僕の脳にあるのは揺らがない思考、迷わないまっすぐな思考だった。それは道筋や始まりを持つことのない、常に完全な結果を持った思考なのだ。その思考で多くを考えることは、多くを知ること、すなわち知り得ないことを前提とした智慧の範囲を果てしなく広げることだった。

霧は徐々に僕の視界の左脇にある斜面を、滑り降りて行った。雲が地上を庇いに赴くのを見ているようだった。僕が上っていた斜面はどうやらただの丘陵のようなものではなく、遠く別の国から続く山脈の一部をなすとても鋭い山の連なりのようであった。それはただの非常に高く広大な地面にすぎない。

 僕は霧の滑り降りた跡に顔を出した地面に、いくつかの人の生活を見た。ビニールハウスを遠くに見た。一つ向こうの峰には政府の農業研究施設が見える。それらの文明の端くれは乳色の雲の中からぼんやりと黄色い光を放っていた。未だ世界は薄明の中だ。ビニールハウスの中には菊の日照時間を調整するためのランプが定間隔に並べられている。その光はハウスの中をぼんやり明るくし、斜面の一面に並んでいる為、遠くからもイルミネーションの様に黄色く見えた。政府の研究機関には航空障害灯が赤く点滅しており、他は窓一つの灯りのみだ。広く視界があって文明の存在を認められるのはそのくらいのもので、人などまだちっぽけなのだと思わずにはいられない。

 そのほかは全て緑なのだ。この世界は広大な緑だった。ほとんどは野性の緑で、一部分ごとに分かれて見える緑は人に手なずけられた緑、すなわち耕作地だ。耕作地は依然すっかり殺されているわけではない。自然の息吹はまだ生きている。低く息が聞こえる。

 こう見ると、電照菊のビニールハウスも、政府の機関も、現代世界の小さなかけらは、この量では自然の一つの要素、多様性の一つの顔なのだ。これくらいがちょうど自然から許された量なのだろう。だからこそこの地域では人々が自然と調和しているように見えたのだろう。ゆっくりと遠くを見ている。

 やがて薄まった霧の中に仏塔が見える。向こうの山の上に寺院があるのだ。その姿も当然美しかった。明るくなると参拝客が来るのだろうか、それとも人が多く参るのは限られた時期のみになるのだろうか。いつかあの寺院にも赴けたらよいのに、と僕はふと明日に希望を抱いた。

 犬は荒く息をしていた。そして彼は僕をまっすぐに見つめていた。僕と犬は深い霧の中で夢を見ているようだった。僕は急に淋しさを感じた。それは遠くから世界を眺めて感じる他人の寂しさではなく、僕自身のうちから生まれる強い淋しさだった。僕は自分が記憶を書き始めて初めて本当の淋しさという感情を感じたように思えた。僕は誰かが淋しさを表すのを多く見たが、自分自身でその感情を生むことはなかった。だが初めて感じた今の時点で、僕は既にその感情にネガティブなものを感じていないのだ。淋しさの原因を探した。原因は、この広い世界で人々は大地を征服することを許されているわけではないという事実だと思う。僕たちは小さな粒にすぎない。風が吹けば容易に飛んでしまう埃に似たようなもので、そこに儚さがある、そして美しさがある。

「早起きだな。なんて名前なんだ?」

 僕は犬に言った。犬はしばらく舌を出し、ハァハァと息をしながら尾を振っていたが、終いに話しだした。

「ニコって名前さ」

「そうか。君は僕の話を聞くつもりがあるだろう。なあ、君もこの、分かるだろう?僕の気持ちが」

「君はそう望んだから記憶を失ったんだよ」

 犬は言葉が終わるのを待たずに答えた。

「どうしてさ。僕はかつて幸せな記憶をもっていたんだろう」

「もちろんだよ」

「僕は違う人だったの?」

「そうさ」犬は冷酷な表情をしていた。

「その頃は良かったか?」

「まさか。良かったらどうして自分を捨てたりする」

僕は黙っていた。

「恋しいのか?」

「ううん。どうして覚えていないものを恋しがることができる?できないよ。ただ僕は、気になるだけなんだよ。僕が昔どんなだったか、とか」

「多分、君は記憶を取り戻すことができるね」と言い犬は笑った。

「どうしたらいいの」

「君は、力と忍耐力を持っていないといけないよ。自分の過去を背負うことができるだけの十分な強さを持たないとだめだよ」

「そんな深刻な顔をしなくてもいいでしょう?だってみんな自分の過去を背負って、平気な顔をしてるじゃない。どうして僕だけできないの」

「人によるさ。できない人もいる。同じ行動をしていても人によって別に感じるだろう。君だけじゃない」

「今僕は何も感じない。痛みも感じない。頭に何もない空洞があるように思えるんだ」

「君はその空に浸るべきだよ。本当に考えずにその空洞に集中するんだ。そこには何もないと思う?そうじゃないんだな。僕の言っていることが分かるか?」

 僕は首を振った。

「君は自分が何を持っているのかを見つけないといけないよ。君の空洞には何もないのではない。そこにある美しい目に見えないものを感じないといけないよ。そして世界をその内なる流れに乗せてしまうんだ、そうすれば、君は今の様に他の世界から影響されないだけではなく、自分の様に動いて行けるさ。君の記憶は内側から破滅したんだ。何故なら君は常に、非常に複雑な物事について、よそから入ってくる全ての物事について、難しく考えすぎて、結び目を真剣にほどこうと、考えすぎたんだ。でもそれが悪いことだとは言わないよ。きっとあの頃、そこには、そこ、というのはつまり、君の考え方にも、世の中にも、誤解が多すぎた、それだけだ」

「僕は自分で自分をぶち壊したの?」

「そんな感じだが少し違うな、君はぶち壊れる前に自分で自分自身を危険なものと感じて捨てたのさ」

「それって惨めすぎないか?」

「そんなことないさ」

「じゃあ何なの?」

「それは美しい崩落さ。君は新しく生き始めているんだよ、そして君はまだ鍛えるべき核を失っていない」

 風が吹いて、山脈の下部を覆っていた乳色の霧まで全て吹き去ってしまった。遂に遠く広い世界が見えた。視界の隅まで霧は晴れている。

 僕の目には世界が明らかに見えていたが、それでもそのものを考えず、僕はただその世界に映った自分の幻影を認めた。同時に、僕はもっとたくさんの考える必要のある物事、いや、認める必要のある物事を自分の中に感じた。それは全て自分の失った記憶を再び迎え入れる為だった。世界を広い視野から僕は見おろし、そして前へ振り返った。豊かに痩せた犬はいなくなっていた。

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 旅を終え僕はイサーンに帰った。カセサート大学のバンでチェンライ市街へ戻った。学生にひとりのイサーン出身の者がいて、彼を迎えに来た家族に乗せてもらいコンケンまで戻った。大学はこれから夏休みだと言う。

 チャイヤプームに戻り数日するとイサーンは雨季になった。雨が降り始めても、ホタルは以前と同じように野菜の世話をしている。そして遠く海のことを考えていた。

 ノートを読み返し、僕は皆の持つ悲しみを自分の中にも感じていることに気が付いた。感情は僕の中に帰って来ていた。より近く、皆の感情に触れることができた。ホタルは今も同じ木の机で毎晩、詩を書いていた。僕が彼女の元に戻った日、彼女は言った。

「これからの日々が私たちの最後の思い出になるわ」と。

 僕には彼女の言う意味が分からなかった。だが、僕はこの言葉を重く受け止めた。そして、その言葉を書き留めた日から、僕はノートに読むたびに、これが最後の日々になるのだと感じた。これからの日々が、彼女と僕の最後の暴露になるはずだと感じた。僕が全てを把握するための、自分の中を全てをも理解するために、僕らは旅をするのだ。「最後」という彼女の言葉は何度も何度も僕の頭の中に響き続けていた。

 再会から、僕は日に日に彼女に対する共感を抱くようになった。それはもはや彼女自身が自分のうちにあるようにさえ感じられるほどだった。彼女もかつて僕と同じように自らの記憶に傷つけられ、沸騰した脳に拷問されたのだ、と察した。彼女も深く考えたのだ。今もきっとそうなのだろう。

 僕は毎晩眠る前に彼女に三か月の旅行の記録を少しずつ読み聞かせた。彼女は静かに耳を傾けていた。そして時折嫉妬のような顔で僕を見た。彼女の目は夜の寝台の上でさえ、遠くの山々や青い空を映しているようだった。彼女は僕の記録、切り離された記憶に触れ、人々の堆積した感情の重みに圧倒されているように見えた。彼女は僕がフォンと過ごした一日の記録を喜び、何度も聞きたがった。

「私とあなたが初めて会った日もそんな風だったんだよ」と言った。どんな感じだったのかと僕は尋ねたが、彼女ははっきり言わなかった。僕は自分がカレン族の山の上で世界を見た日の記録を読むと悲しみを感じる。その悲しみは満足感を含んでいた。悲しみは美しさなのだ。そう言っても彼女はそうは感じないと言っていた。

 彼女は言った。

「仮にあなたが変わっても、私は悲しく思わないわ。心の中にややこしい感情が渦巻いていた頃のあなたも、私の中にまだいる。そして私はその頃の君も愛してる。あなたは私みたいにめちゃくちゃだったわ。もしかしたら私と話したせいでめちゃくちゃになったのかも。でも、それもそんなに悪くなかったわ。だって私は自分の横顔を鏡で見てるって思うくらい似ている人に出会えたんだもの。私たちはあの頃似ていたのよ。けど今はね、似てるんじゃないの。私たちは異なる川が海で合流して混ざり合っているみたいに、溶けてひとつになっているの。それがあなたの新しい心。私は何も後悔しない」

 彼女はその日、僕が日記を読み終わってからも長く話していた。

「あなたはきっと、二重の視界を得るのよ。二つの視界は、同時に存在し、そしてぼやけないのよ。あなたは一つ上の世界を自分の瞳で見つめることができるようになるわ。それらはあなたの新しい日々の始まりになるはず。そして、あなたは記憶を取り戻すわ。そうすると、あなたは再会するの」

「誰と?」

「あなたの片割れよ」

「双子か何か?」

「違うわ。精神的な双子。私とあなたは同じ形をしているからパズルのようにはまらないの。欠けているものを満たし合うことはできないの。でも、その片割れの人、その人は似ているけど違うの。あなたの全てを満たしてくれるの。あなたとその人とは、離れ離れになったパズルのピースなのよ。でも私はそうはなれない。私はあなたなの、私は、あなたの鏡なの」

 彼女の言葉は、何もかも知っている人の言葉のように聞こえた。そして僕はそれらの美しい言葉を書き留めた。