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bum  第3章 aki ..3

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 一艘の小舟が水面を滑っていた。ゆっくりと。

 川は流れている、舟はゆっくりとだけ動いていた。どちらが動いているのかわからないほど、静かな滑りだった。漁師は網を引き揚げながら、口笛でも吹いているのだろうか。あいにく彼の表情は笠に隠され、心は風に隠され、僕には見えなかった。

「せっかくだから岸に降りて水を近くでみたいわ」

 僕たちは川に沿った広場で、柵にもたれかかって話している。露店を出している婦人たちは客がいないために集まって世間話に花を咲かせている。そのうちの誰かの子供らしいのが一人、走り回り、大きなパラソルを天に投げ、掴んでは投げ、遊んでいる。

 青緑色の重たい空の下、少年の若い筋肉が歌を歌っている。記憶のない僕は彼に出所のわからない親近感を覚え、悲しくも淋しくもない不思議な涙を流した。ホタルは僕を置いてコンクリートの階段を岸辺へと歩いて行く。僕は彼女の後ろ姿を見て、美しいな、と日本語で呟いた。彼女は川に夢中で僕の涙を知ることはない。きっと僕の知らない涙が彼女にもたくさんあったのだろう、そう気づいた。また、僕の知っていたホタルの涙も今は失われてしまった、僕の古い記憶と共に。僕はゆっくり彼女の後を追って歩いて行く。

 遊覧船は五時からのディナー航行までの休憩の最中で、デッキで青年が竿を持って座っている、水面に垂れた糸は動かない。

「何か釣れてる?私たちもそっちへ行っていいかしら」

 青年は黙って頷いた。僕ら二人が桟橋を渡ってくるのを見て、彼は竿を置いて、隅に重ねているプラスチックの椅子を二つ取って、並べてくれた。黒い釣り竿は午後の光を吸って引き締まっている、糸はたるんでいる。釣り竿の立てかけてある柵にもたれ、ホタルは烟草に火をつけた。柵には吸烟所とが書いてある。船はゆっくり揺れている。川は流れているのだ。

「あたしたち今日の夕べに船でラオスに渡るのよ」

とホタルは青年に言った。

「どこへ行くんだい?」

「どこへでも行きたいと思ってるわ。特にどこへとか決めていないけれど、私たちの最後の旅行なのよ」

「最後って彼が国に帰るとか?」

「いいえ。私が彼にもう会えなくなってしまうの」

「悲しいな」と彼は言った。

 またホタルは黙った。対岸のラオスの奥の方に霞んで見える山並みを眺めているようだった。

「名前は?」

「ニル」

「初めましてニル」

「ねえ、この川って泳げるの?」

「まさか、この水は一見ゆっくり流れているように見えるけれどね、水面の下には渦が巻いているんだよ。泳いだらもう浮かんでこられないくらいだよ」

 青年は仕掛けを水から引きあげて、ビニール袋に入っている粉餌を手に取り、水で湿らせて練ると針に刺して再び水に放った。

「どんな魚が取れるの?」

 彼は両手を広げて魚の大きさを示した。五、六十センチはあるようだった。

「そんなに大きい魚見てないな」

 すると彼は「濁っていて見えないんだよ」と言ってビニールの中からねり餌を一掴み取って水にばらまいた。すると小さな魚が数匹、ばらばらとついばみ、その後に小魚の食いきれない塊がゆっくり沈む時、四十センチくらいの魚がひゅっと現れ一口に平らげて消えた。

「パーブックも釣れるの?」とホタルが聞いた。パーブックとはメコンオオナマズのことだ。

「ここいらにはいないね。うんと下流の方か、もっと上流じゃないといないと思うな。ウボンの辺りは獲れると聞くよ」

 その時ちょうど竿の先がピクリと動いた。彼はゆっくりと竿を取り、そしてリールを巻いた。五センチ程度の小さな魚が釣れていた。

「これは食えねえな」と言い彼は水に帰した。ラスボラ・ボラペテンシスを思い出させるような地味な赤と金色のアクセントが入った銀の魚だった。

 ニルは僕らが船でラオスへ渡ると言っていたのを思い出して、「いくらで舟を予約したか」と聞いた。ひとり三百バーツで五時に出る、今は時間を潰している最中だ、とホタルが答えた。彼は今から俺が船で渡してやるからチケットを払い戻して来い、と言った、二百バーツでいいと言った。

 僕とホタルは走ってチケットを戻しに行き、遊覧船へ戻るとニルが舵とモーターが一体になったものがついた小舟を準備していた。

「五時半までに戻れるならどこまででも連れて行くぜ?」と彼は言う。

 ホタルは百バーツ札を二枚渡した。

「それなら一番よく魚が釣れるところへ行こうよ。それから一番近い関所に下ろしてくれればいいな」と僕は言った。するとニルは笑いながら首を振り、遊覧船に戻り、自分のと他に二本釣り竿を持って戻って来た。

 舟は、急な流れを底に秘める静かな水面を滑るように走り始める。川の真ん中まで出て、上流へ向きを変える。この小舟はまるでセスナの様に身軽で同時に危うげだ。だが僕らはヘッドホンとマイクを用いずに話す。

 ぬるい水しぶきが首や腕に散る。大きな声で叫んで伝え合う。チベットから運ばれてきた冷水もここでは30度近いようで、しかし、炎天下においてのみ涼しい水であった。巨大なナーガ像を背にして僕らはメコンを上がり始めた。ホタルは水を愛し、僕は煌めきを愛した。ニルは魚を愛している。

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 越境して僕とホタルはニルがいつも大麻を仕入れているという漁師の家に来た。釣りを終えニルが良い宿を紹介してやると言いここへ僕らを送り届けたのだ。彼は月に二、三度、川を越えてここに鮮度の高い葉を買いに来るらしい。そのラオスの漁師はタイで大学を卒業している、要するに裕福な農家の育ちだとニルは言った。彼の本業は大麻ではなく、親の持っている方の畑での仕事らしいが、今は親がやっているのだから忙しくない。それでこの川のほとりに一人小屋を建て寝起きして、時間の許す限り、草の手入れと魚捕りに打ち込んでいる。

「夜になったら戻ってくるよ」と僕らを対岸へ渡し終えると、ニルはタイに戻った。

「国境越えちゃっているけれど、」とホタルが言うとラオ人の青年は平気さ、と笑った。あとで関所にいけばいいと言う。明日の朝渡って来たことにするということだ。ホタルはビックリしていた。

 ラオ人の彼の名はサンベーシという。サンベーシの小屋はラオ側からメコンへ流れ込む小川のほとりにあった。メコンへの合流点から15分ほど歩いて上流へ遡った場所になる。乾季になって水量が少しずつ減り始めているが、雨季のころは水が多く危険で、合流点から十五分も上がったところに小屋を構えてやっと安心できるという。今は水深一メートルもないらしい。彼曰く、もう少しすれば水底が見えてきて船で遡ることはできなくなるが、そうなると川岸にも野菜を植えられる。家族のやっている大規模な農業は金にはなるが植物と繋がれるような感じがない、逆にここで小さな畑に自分の好きな野菜や果物を必要なだけ育てるのは面倒で金にもならないが楽しいのだと彼は言った。既に、むき出しになった川岸の斜面にピーエッグプラントとトマトが植えられていた。

「ガンジャはどこに育てているの?見えないようだけれど」とホタルは待ちきれないような顔で尋ねた。

 サンベーシは嬉しそうな顔で小屋の裏手へ僕らを招いた。裏側にはバナナやイチジクの木々が森の様に茂っており、ときどき大事そうにパパヤの木がある。オーチャードなのか雑木林なのかはっきり判別しづらいその緑の中をかき分けて歩いて行くと、パッと視界が開け、1ナーンほどの広さの畑が顔を出した。そこには本当の大麻が気持ちよさそうにうっそうと生えている。風に揺れる大麻草の葉を眺めながらサンベーシの方から漂ってくる烟を嗅ぐと、これはまた根本的に正しいな、という気持ちが湧く。彼は二、三口吸って、ジョイントを僕に渡した。僕は咳き込まなかった。深くゆっくり吸って、一瞬脳の中を見渡し、それから吐き出した。

「俺は酒を買ってくるからさ、まあ好きにしててよ」とサンベーシはモーターサイクルでどこかへ行ってしまった。ホタルはいつのまにか自分の分を巻いていた。火をつけながら言った。

「懐かしいわ。丘の上で二人喋りながら烟をくゆらせてたのを思い出す」

「ずっと前一緒に夕日見た時、僕らってこんな感じだったの?」

「そうそう。前あなたすっごい咳き込んでた」彼女は笑った。

 ホタルはのんびり畑を歩いて奥の方へいった。あとをついて僕も歩く。よく見れば、この畑も大麻草だけを育てているわけではないようだ。一番丈のあるのが大麻草でその下には色々な野菜が植えられている。僕は一つよく熟れたトマトをもいで齧った。それはとてもうまかった。また同時に現実と脳の距離を僕に再認識させるような鋭い感覚があったため、僕は自分にカナビノイドの作用しているのを気づいた。

 僕は風に揺れているバナナの葉がどれほど遠くにあるのかを考え、難しいなと感じた。畑の一番奥まで検分し終えたホタルはこっちに振り返り、Uターンのジェスチャーをした。奥まで行こうとしたが、彼女は何もない、一緒一緒、という顔をして僕に戻るよう促す。僕たちは小屋に戻って、縁側に転がって二人でトマトをいくつも食べながら喋った。

「あなたは一回咳き込んで、それから深呼吸したあともう一回吸い込んで、走って私を追いかけたの」

「丘を上がったの?」

「そう」

「丘で何をしたの僕たちは」

「夢を見たの」

「なんの夢?」

「終末の夢」

「それも夕日くらい美しかったかい?」

「もちろん」

「教えてよ」

「遠くに一筋の輝く水面が見えるの、それを見つめて私たちはずっと喋ってたの。いいでしょ?」

「羨ましいな。覚えてたかったよ」

「もう、私が生きていた時に見たもので一番美しかったよ。私はね、死ぬまであの景色を心に抱いて生きるんだと思った。しかもそれって実際そうだったのよ」

「そんなのを思い出せないなんてね…」

「記憶を失う直前のあなたはそれを見ても美しいと思わなかったかもしれない。でも私と一緒に居た頃、あなたの心ってすごく美しいかった、それが翳っているくらいならぜーんぶ忘れてしまってもよかったんじゃない。美しい記憶も変にまぜこぜにしたら濁っちゃうの。あなたはきっと一人でそれを変に混ぜてしまったのよ。誰より美しい人に戻れるわきっと」

「はぁ、やり直したいな」

「何言ってるの。今やり直してる最中じゃない。綺麗なコップに、新しいコップに、慎重に記憶を戻す準備をしてるのよ。綺麗なコップできてる?」

「なに?わかんないわかんない」僕は笑った。

「次水をいれたら、前よりもっと綺麗な水面ができるよ。次はひとりでも背負えるように頑張るんだよ」

「うん」

 彼女は僕のお尻を叩いた。