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bum  第3章 aki ..4

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 十月も終わりに近いある曇天の昼さがり、四時を少し回ったところであった。赤道からの距離がある程度離れたこの場所で、過ごしやすい熱気の古都、ルアンパバンにホタルと僕は足を踏み入れた。サンベーシの小屋で何日か過ごし、その後、彼の友人たちが運転するピックアップに揺られて、僕たちはここまで北上してきた。彼らは中国に商用があるらしい。ルアンパバンに来て何か用があったわけではない。またメコンを見たかったからここで下ろしてもらったわけだ。

人の多い場所から逃げるようまっすぐ左岸の市街地を通り抜け、ホタルと僕はメコンを渡った。右岸には人少なく、洞窟探検ツアーに観光客を誘うガイドは必死だが、僕らは立ち止まらなかった。坂道をしばらくあがった。「丘の上から川を見ようよ」と歩いた。頂上にはさびれた寺院が一つ、僕らは立ち止まり、眼下を流れるメコンを見た。

 ホタルは瓦礫に腰をかけて、口をきゅっと結んで川を見つめていた。何かを考えていることは明らかに思えたが、僕は彼女が水面に何を見つめているかを考えようとはしなかった。ホタルは溜め息をついて、カーキ色の背負い鞄を置いて、また溜め息をついた。

 僕も彼女の脇にかばんを置いたが、座りはしなかった。彼女を置いて、ひとり歩いて寺院を見に行った。誰もいない寺院は灰色で、中にある白く大きな仏像にも細かいひびが入っていた。壁のペンキがはがれてコンクリートが覗いている。修繕のための寄付を募る張り紙がある。僕とホタルの他には誰もいない。川を渡る前に通り過ぎた左岸の立派な寺院たちとは比べ物にならないほど、傷んでいる。一通り見渡して、僕は寺院を出てホタルの隣に戻った。

「何が見える?」

「ねえ、私に本をくれたの覚えてる?別れ際にね、服のお礼だった。ギフトフロムシーってやつ。装丁がとてもかわいかったから買ったけど、タイ語だから読めないって言って、私にくれた。どうしてそんなものを、あなたは旅行先に持ってきてたの?読めもしないものを。あれ、日本に帰って読んだりした?」

「さあ」

 彼女は上着から烟草を出して火をつけた。僕の方を見ることはなかった。決して見えるはずはないが、まるで魚が見えるのではないのか、というような熱心さで川を睨んでいる。百メートル以上も下に見える川に泳ぐ魚が見えるはずがない。仮に見えたとしてそれが彼女に何を与えるのか?

「どうして僕の過去をはっきり教えてくれないの」

「自分で好んで捨てたんだから、教えてしまうと意味がないでしょ」

曇り空は僕を暗い気持ちにすることはなかった。

「海の話聞きたい?」

「ああ」

まだ彼女は川を見つめていた。それが海へ続く。

 風が吹いて僕は不安になる。下に空間が見えている状態で風が吹くと不安になるだろう?だから神は世界を作ったとき、宇宙に風を吹かないようにしたのかもしれない。心がはためいている。

「私はあなたに初めて会った日に、海を見たいとも思っていなかったことに気が付いたわ。私あの頃海を知らなくて、知ろうともしなかったの」

「僕も知らないよ」

「見たいと思う?」

「怖い」

「あなたも海を知っているから。思い出せないだけ。あなたは記憶を失う前、海は人が最後に戻るところだと言ったの。遅かれ早かれ皆、旅を終えて大きな海に流れ込むって。そして一つになるの」

「この川みたいに」

「その通り」

「あなたは川を見て恐ろしいと言った。私は川を怖いと思ったことはなかったわ。でも、初めて海を見た時、海に恐怖した」

 僕は黙っていた。ホタルが僕の肩に額を押し付けた。温かい涙が腕を濡らし、そこに目があるのだと気づいた。

「毎晩、太陽が沈んでいくのよ」

そう言う彼女の声は震えていた。

「私はそれを見て恐ろしく思ったわ。その水面を川のものよりも美しいと感じていて、それに気づいていて、尚恐ろしいと思ったのよ」

僕は黙っていた。ホタルは途切れ途切れに話していた。

「とても美しいのよ。アンダマンの海はちゃんと透明で、青いのよ。エメラルドブルーよ。それが夕方になったら、なんの障害もない空を滑る太陽が貫くように染める。それはもう、川にかかる夕日の何倍も綺麗で、見惚れちゃうわ。他にはなんにもない。空、海、それだけ。それだけが光るの。ただ、光る水面は揺らめきながら、私に寄ってくるの。波がおしよせると不安にもなるわ。波が私を飲み込むことはないんだってわかっているけれど、怖く思うの。そうするともう、あなたは海の中にいるようなものよ。あの中で包まれると、海に覆われた心は、冷たい水を気持ちよがって、私はその中へ進んで行くの」

 ホタルの姿は半分透けているように薄く、それを眺める僕は悲しさと分類されるべき感情を愛し、それを抱いた人に相応な表情を持って、虚ろに彼女の姿を見ていた。

「要するに、私は何もかもわからなくなってしまったの」

 いつかあったはずの高揚感はもうない。鼓動だけが激しく鳴っていた。