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bum  第1章 haru ..6

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 彼女の家はウドンタニから南西へ二百キロ強行ったところにあるチャイヤプーム県にあった。おおよそ半日近く、炎天下をモーターサイクルで走り続け、到着した時にはもう日が暮れようかとしていた。

「私の家がチャイヤプームにあることを知らなくってウドンタニで待ち合わせたのか?それとも再会は思い出のウドンタニが良かったのか?それは今のあなたに聞いてもわからないことね。真相は忘れ去られた記憶の中、次があれば覚えといて、私のところに来たいなら最寄りの国鉄駅はチャットゥラット駅だからね。ウドンタニは行き過ぎ。そのノートに書いといた方がいいよ。忘れるんでしょ」

 ホタルは笑って言った。僕はありがとうと言ってチャットゥラットという場所をノートに記した。彼女の家はちいさな広い農地の中にある二階建てのログハウスだった。家の前にモーターサイクルを停めると、その足で小屋の脇にある水瓶から小さなプラスチックのたらいで水を掬い、手を洗うと残りを庭の花にかけた。水の音が鳴り、あたりの静けさに気が付く。広い農地のどこかからエンジンの音が低く聞こえ、それ以外の音という音はなく、しばらくしてその音も止んでしまい僕は黙って小屋に入った。入るとすぐ横に小さなソファーがあり僕はそこにかばんを置いて、部屋の中央にある大きな机の前に座った。机の中央に水槽があり、その中で青いベタがゆらゆらとひれをなびかせながら僕を見つめていた。

「こんにちは。今日からここに住むことになったんだ。仲良くしよう」僕は魚に言う。

 ベタは鰓を広げて僕を威嚇した。どこかにある裏口からホタルが入って来た。彼女は緑の野菜を持っている。流し台にそれを放ると手についた土を払って、金属のやかんを火にかけた。

「いい家でしょう?」

 そう言いながら僕の向かいに座った。そして机の上に空のコップを二つ並べた。

「静かな農地に、水のせせらぎが素敵な小屋、これは君の理想?」

「あなたの理想よ」

 ホタルはポケットからキャメルを出して火をつけた。僕にも一本よこした。烟草の烟は凝り固まった部屋をほぐすように広がり、消えていった。

「またこうやって話しているのってとても不思議ね」

 彼女は立ち上がり、壁際の台にある無数の水槽を眺め、一つ一つに餌を入れながら言う。部屋をぐるりと囲むように台があり、その上に無数の水槽が並んでいた。水槽はキッチンにもあったし、さっき僕が荷物を置いたソファーの後ろにもあった。外の農場の静けさとは対照的に、部屋の中には絶えずエアレーションとフィルターによる水流の音が聞こえている。

「久しぶりに会うのはどうなの?」

「そりゃあね、嬉しいし、会いたくて会いたくて寂しい、って思ってた日々が忘れられていく」

 もし、二度と出会えないことを前提とした出会いがこの世界にあったのだとすればそれはとてつもなく切ない。もしこれが、もし二度と会えないはずだった人との再会なのだとすれば、彼女の表情は十分に理解できる。しかし、僕にはその感慨はなく、それもあって彼女の心がはっきりし始めないのかもしえない。

 餌をやり終えると彼女はまた手を洗い、やかんを持って戻って来た。やかんを机の上に置くと。椅子に座らず僕のことを後ろから黙って抱きしめた。

「もっと早く会いたかったのよ」

 彼女は髪をかき分けた。

「あなたの耳ってダイヤモンドみたい」

 彼女が鼻をすする音がした。首筋に暖かい体液が伝う、やがて冷たくなった。彼女はどこかへ消えた。机の端には彼女の烟草が載せられたままだった。二人分のコーヒーを淹れ、コップを持ち、烟草を咥えたまま戸口を出ると、暗くなった空の足元に、帰り遅れたオレンジ色の夕日が帯状に集まっていた。烟はしばらく漂い、僕に形を意識させた。彼女は道に居り、遠い太陽を思っていた。コーヒーを渡す。黙って受け取った。顔は見えない。「一緒に暮らすの?」僕は明るい顔で言った。何はともあれ、再び会えたのだから喜ぶべきだろう。

「そう」ホタルは嬉しそうに言った。

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 彼女曰く、この近くにも野生の蛍がいるらしい。彼女はいつか見せに連れていってくれると言った。二人で広いマットレスに転がると、彼女は必ず僕の耳を眺めた。

「ダイヤモンドってタイ語で何って言うか分かる?」

「フェットだよね」

 このダイヤの耳がいずれ聞こえなくなってしまう。このキラキラと輝く不思議なダイヤの耳は誰かから移植されたもので、人の身体では長くもたない。ある日ぱたりと音が聞こえなくなるのだ、とノートには書かれていた。これはひとつのただ不思議な話だ。

「タイ語も随分わかるようになったのね」

 彼女はどこか寂しそうに見えた。ふと、前会った時から僕は変わってしまったんだろうなと思った。記憶がないことを差し引いても僕はもう彼女の知っていた僕ではないのだろう。彼女が変化を恐れているのか、惜しく思うかは知らない。また、僕はじきに耳が聞こえなくなることを別に怖いと思わなかった。