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bum  第1章 haru ..7


 地面に座り込んでカッサバの根を堀り起こりている。のんびりでいいから籠四つ分と頼まれ日の出前には出て来たが、それでも時間がかかる。もうすっかり朝で、早く済ませないことにはすぐ暑くなっていく。
 ホタルが住んでいる小屋の周囲に広がる農地は全て、彼女の故郷である村に属する畑だ。彼女はあそこに住んで農作業をすることで小遣いをもらっている。もちろん僕もここに住むからにはある程度働かなくてはならない。イサーンは住民のほとんどが第一次産業に従事しているが、土地の質、気候ともに恵まれているとは言い難い。しかし彼らは貧困を脱するため懸命に励むのだ。今は僕もその一部だ。
 もっとも、ここでは村人たちが共同で広い農地を管理し、全体の利益を分配しているために不作の畑があっても緊張は少ない。これは最近村に帰ってきた大学卒の若者が提唱したスタイルだと言う。僕はノートに書かれていた青年、列車で向かいに座っていたこぢんまり髭をはやした青年を想った。
 ここの畑は小屋から十五分ほどのところにある。畔を歩いてくるととても気持ちがよかったが、今はもう暑さに煩わされる時間帯だ。大人の腕程もある太いカッサバが束で、硬い土から顔を出す、それを見て安心して引っ張ると簡単に折れてしまう。早めに片付けたいが、急ぐと失敗するのがカッサバ掘りだ。化石掘りになった気持ちで慎重にやっていると日が暮れてしまう。
 どうも僕は昔カッサバを掘ったことがあるらしい。手際は良くないがやり方は知っていた。先週トウモロコシの収穫も手伝ったがその際も上手くできた。しかし、稲はわからなかった。きっと僕はカッサバとトウモロコシの収穫をしたことがあり、稲の収穫をしたことがないのだ。
 ホタルの助けもあって、僕は記憶のない生活に上手く対処できるようになっていた。僕の記憶が続くのは睡眠の寸前までで、寝てしまうと、また朝には全て忘れてしまっている。初め何日かは困ったが、そのことをノートの表紙に記すことで、僕は目を覚ましていちいち自分の置かれた状況を理解するようになった。
 表紙を開くと他人の話を聞くように自分の過去を読み返し、それに従い、自分の形を知っているような顔を装ってベッドを降りるのだ。ノートに起きてから何をするかが書かれていることもある。今日は、ホタルの左利きのタイ文字で「カッサバ四籠、急がずに」とあったから僕は畑に来ている。
 ジーンズの尻で赤く土に汚れた手を拭い、腕で額の汗を拭い、籠は畑に置いたまま、木陰の四阿に戻って休む。小さなクーラーボックスから水を掬って飲む。午前の光の中をどこまでも続く農地が美しい。どこまでも同じような景色が続いている。ぽつりぽつりと木が残り、牛が繋がれているところもある。そよ風が吹く。木陰では涼しさを感じ、まだ朝なんだと僕は感じる。とても美しい。


 この田舎式の宮殿で僕とホタルは毎日書き物をする。この木造小屋はホタルがこしらえた宮殿だ。村から少し離れているだけではなく、構造上も他の住居から孤立している。どうやらホタルは強いこだわりを持ってこの建物を作ったらしい。村のたいていの住居は、高床式で二階の高さから居住区が始まるが、ここは床下の空洞は一メートル程度で、高床というよりは普通のログハウスに近いように見える。大体田舎風のコーヒーハウスと同じような造りらしく、入り口の外にはテラス席に相当する空間があり、そこには竹でできた縁台と、睡蓮鉢がある。それにハンモックもかかっている。広い農園を静かに眺めるのが彼女の楽しみなのだろう。このような気の利いたテラスを持つ家はこの辺りには他になかった。しかし、何と言ってもこの部屋を宮殿たらしめる最大の魅力は居室にある。
 窓辺には貝殻の風鈴が吊るされており、それは及ばない自然への憧れか、敬意か?その窓から入り込む風だけはほとんどが潮風になった。夜になると、部屋は限られた光だけで照らされる。すると、人の温かさが影に際立てられる。ステンドグラス風のテーブルランプは瑠璃色のガラスを通して拡散し、机に柔らかい幾何学模様を描く。水槽が無数にあることは以前にも書いたが、夜になると一つ一つの水槽の上に吊られた白熱球が灯る。それらは水槽内に育てられている水草の種類に合わせ、彩度の高い純粋な赤から、薄いオレンジやピンク、水色からグリーンなど色とりどりのシェードで覆われている。例の窓から潮風が入り込むと、部屋の中をさまよい、吊り下げられた電球を揺らして回る。そうすると僕とホタルの影も踊る。
 夕食を終え、テレビで流れているムエタイの試合を眺めながら、薄暗いが鮮やかな光の中で、ぼんやりとしているひとときは僕がここで一番気に入っているものだ。尤も、僕にせよホタルにせよ、ムエタイの試合を真剣に観戦しているわけではない。テレビのスピーカーから流れてくる、低い音量でも割れているのがわかる音声にもほとんど注意を向けてはいない。しかし、僕らはどちらも、意識の中央にそのテレビ中継を置いている。そして隣国から出てきた戦士が、忖度の透けて見える判定負けに顔を暗くして、舞台を降りていくのを、僕らは見送る。
「子供の頃、家族で夕食を囲んでいたひと時を偲んでね、思い出があるって確かに面倒かもしれない。あなたが捨てたくなった気持ちわかるのよ。懐かしさって何なんだろうね。思い出の供養がほとんど毎日で、大変だったわ。でも、当時はもちろん、今だって、うちの実家にはこんな立派なテーブルないのよ。床で、茣蓙を敷いてお皿並べて食べてたわ」
 懐かしむことが人らしさの様に思えてならない。記憶のない僕は嫉妬してしまう。その感覚がない僕は人ではないのではないのかと不安になる。記憶がないことが苦しみであったことはないが、疎外感を感じる日は多い。
 ムエタイが終わるころには僕らはすっかり食事を終え、気づかないうちに話すのをやめてしまっている。静かになっている僕らの前で、テレビコマーシャルが流れている。その時、僕は気づくのだ、水槽を照らす白熱球の影が揺れていることに。
 ホタルはいつも、ムエタイが終わってコマーシャルが流れていることに気づくまで、しばらく無表情でぼんやりしている。彼女の顔は、右手にあるグッピー水槽の赤い電球の光に浮かんで、穏やかだ。番組が終わっていることにハッと気づくと、すぐにリモコンを取ってテレビを消す。その後に続くドラマの再放送を見ることは決してない。その辺に関して彼女はきっぱりしている。無心で居る時の彼女の瞳は、いつもどこか悲しげだった。その目は常に怯えていたものが、怯えなくなった後に、悲しさだけが基本層として浮かび上がったような悲しさだ。そこに何か意味があるように思え、何故なのかを考えようとすると、彼女は勘付いたように僕の方を見て微笑む。僕に気遣っているのか、本当は何か悲しい事実を隠しているのか、そうされると僕はもうほとんど泣きそうになってしまう。
 食卓兼書き物机の中央にある小さな水槽で、青いベタが尾びれを振ってホタルに媚びる。食事の机に生きた魚がいることを不自然に思うことはなかった。
 悪いことに彼女はこの魚に「スシ」という名前をつけていた。彼が僕を初めて見た時に威嚇したというのは、その名前故日本人に警戒したというところがあるのかもしれない。
 食卓に水槽があることがどの程度衛生に良くないかは知らないけれど、少なくとも、僕は「ひどい下痢」になったことはなく、ホタルからすれば僕の程度の下痢は日本人にとって普通らしい。僕たちは料理が多いときは水槽の上に盆を載せ、そこからメインディッシュをつつくことさえあった。下痢になったのはちなみにその時ではなかった。
 どうしてこんなにも沢山水槽があるのか、と尋ねると、彼女は「あなたが飼えって言ったんだよ。あの頃、私の部屋には空の水槽が一つあって、あなたはひとりで暮らすのは寂しくない?って聞いてきた」と言った。
 そう聞いて、僕が脈絡もないことを尋ねることは記憶を失ったことが原因でなかったのだと知り安心した。何故そう言ったのだろう、当時から彼女は寂し気だったのだろうか。確かに、熱帯魚が百匹以上泳ぎ回っているこの部屋は寂しくない。ここ数年、ホタルの文章を書くことの次に愛している趣味は魚と水草の天国を監視することらしい。ムエタイの試合が終わると、僕たちは二人で食器を片付け、各々何か書き物をした。その間も影は静かに揺れている。
 コーヒーを飲みながら僕は、尋ねる。
「大切なものは?」
「大切なものは、何もないか、何もかもか」
 彼女は机に向かって詩を書いている。顔を上げず、熟考した様子も見せずに返事をした。僕はペンをカチカチ言わせながら、水槽の多い部屋を眺めまわし、ノートにその日の記録をつけていた。書くことはないように思えるが、何となくふらふら辺りを見回していると思い出すことがある。
「土いじりは好き?」
「良い。手を洗う水があるうちは」
 ここに来て二週間が経つが、僕の中で自然発生した疑問に関して、彼女が逆らわず答えることは、珍しいシーンではなかった。僕は何も分からないし覚えていない、どうしてそう尋ねたかもわからないし、そのように脈絡のない疑問を彼女によくぶつけたし、彼女は何も分からないまま返事をする。
 僕はホタルの書く詩が好きだった。僕は机に向かってただ日記をつけているだけで、それは自分が記憶を蓄積できないことに対する埋め合わせに過ぎない。しかし、ホタルが書くものはもっと美しい、素晴らしい芸術のうちだった。度々その詩に心惹かれた僕は、出版社か何かに持っていけばいいのにと言った。彼女は「他の人に見せたくて書いているんじゃないもん」と呟く。僕にとってピラミッド並みに美しい芸術が、誰にも見られないまま消えていくと思うと、難しい気持ちになった。

“ひと”
踏み固めた道は沈んでゆく
振り返ればもうそこになく
先に進むには足を沈め、
身体を沈め、心を沈めゆかなくてはならない

“海”
水面に世界を見た、波のきらめきは感情、感情は水底を隠す、
なぜなら水底に真実があるから

“無題”
海についた魂を再び川に戻し、果てに山の泉に帰す

“無題”
雨上がり、月夜、泥を這いあがり羽を

 この生活が突然始まる前、僕がどこで何をしていたのか?そうホタルに尋ねると、それまで腕を組んで難しい顔で何か考え事をしていたらしい彼女は笑って言った。
「あなたは住みにくい世から、ありがたい世界に越して来たんだよ」