表紙へ

-CANDY- Murder Mystery 1章

 アメコは便箋を元の通りに畳んだ。そして枕元の明かりを消し、ゆっくりと息を吐いた。彼女は起き上がって、大切な手紙を握ったまま梯子を降りた。彼女の新居は京都北部の小さな町にある。砂藤アメコは京都市内のとある私立大学を卒業し、この街の小さな美術館に勤めていた。彼女は一人で広すぎる部屋に住む為に京都市を離れた。広すぎる部屋で一人暮らしをしようと目論んだのには理由があった。この物件には二つの十畳の居間と六畳の寝室があった。

 今彼女のいる部屋は六畳の寝室にあたるが、本来の間取りから予定される使い方はされていなかった。見たところ、今アメコの立ち尽くしている部屋は一つの完成したリビングルームであった。そして、そこには紛れもない生活感、加えて不気味さがあった。黒いパイプでできた安価なロフトベッド、モスグリーンの布団、枕元に雑に並べられた本、ベッドの足元には脱ぎ捨てられたジャケットがくしゃくしゃになっている。ただ、雑多である割りに静かである。この部屋の不気味さは、もう一つのより広いリビングルームを見れば実感される。

 いま彼女の手紙を読んでいるこれは普段使われることが避けられているリビングルームなのだ。一人の人間が寝起きし、仕事から帰り、寝るまでの時間を過ごすことができるだけものが揃っている部屋がひとつ、ただ主人も持たずに放置されているのである。神隠しの跡のように、変わらずそこに存在し続け、アメコはその存在を避けるが、撤去することはない。

 ふと思い直したようにアメコはその不気味な部屋を出た。限られた状況でのみ立ち入るその部屋から出ると、緊張が和らいだ。外には、ステレオタイプに逆らわない女性らしい本当のリビングがある。当然そこには、より新鮮な生活臭がある。アメコは二十代前半のごく普通の女性が暮らす部屋を意識し、この部屋の家具を選んだ。柔らかい暖色の照明、ほどほどの存在感がある観葉植物、白をメインとした家具には、ところどころに赤がアクセントで差されている。壁にはアール・ヌーヴォ風のポスターが貼られており、部屋に上品さを与える。

 アメコは封筒に入れなおした手紙をキッチンテーブルに置き、遠くから眺めた。三年という期間は、一人だけで過ごすには長すぎる時間だった。アメコの心には喜びと不安が入り交じっていた。昨日までは彼女も、時間も、共に無表情であり無感情であった。いくら不安があるとしても、手紙を受け取った彼女は、昨日までよりは断然生きていた。

 便箋の裏は白紙で、封筒の裏に何かが隠されているわけでもない。差出人の名前もない。ただひとつ確実な事実があった。差出人はともかく、書き手に関しては三年前に行方不明になった彼女の恋人に間違いなかった。もう目にすることはないだろうと思っていた筆跡を前に彼女は興奮していた。これまでの人生で最も愛したひとなのだ。決して勘違いなどではない。

 一郎がいなくなった時、アメコはまだ京都市内のアパートに住んでいた。失踪以来彼女は一度も新しい恋人を作らず、大した友人も作らず、文字通りひとりで暮らしていた。彼自身が帰ったわけではなかったが、この手紙が届いたことで待つ日々が多少報われたように思えた。新しい言葉の一つ一つに胸が震える、これまで何一つ知らなかった、いなくなってからの彼に触れているのだから。背筋は常に緊張していた。怖さがあるからだ。存在しない人間の言葉ほど恐ろしいものはないのだ。

 ここへ引っ越してくる前の十九歳のアメコはロックミュージックを好む髪の長くない女だった。彼女はボウイ、ピストルズ、ヴェルヴェットアンダーグラウンド、イギーポップを、正しい時代の正しい感情を持った芸術として崇拝し、ほとんどロックミュージックしか聞かない、そんな若い女であった。それは今いる無個性的なアメコとは正反対の人間である。高校生の頃から彼女は普通という言葉から遠ざかるように生きていた。彼女が最も嫌ったのは社会と大衆であった。だが、今はそう感じても嫌悪を表に出すことはない。

 今のアメコは髪を長く伸ばしている。平気でレースのついた服を着る。赤いハンドバッグに口紅を入れて出かける。今アメコはイチゴの柄の入ったパジャマを着て、長い髪を湿らせたままコーヒーを作っている。普通であることを望んだが、彼女は普通が何なのかすらまともに知らず、大人になっていた。このイチゴのパジャマも買って帰ったは良いが、着て鏡を見ると大人の女性ではなく、小学生の子供のように見えた。当然、今深刻そうな顔でイチゴ柄のパジャマを着ている彼女も滑稽なものである。昔から変わり者だと言われがちだった彼女の習慣を変えた、性格や感情を消し去ったきっかけは恋人の失踪である。

 彼の名は川崎一郎という。三年前の誕生日、彼女は一郎と一緒にいた。一郎が突然姿を消したのは、アメコの二十歳の誕生日の一週間後であった。彼は気づいたらいなくなっていた。当時、一郎は二十三歳だった。死人は、今も二十三歳のままのはずだ。

 一郎は死んだのだ。いくら努力しても、アメコはその喪失を受け入れることができなかった。どこかに生きているような気もする、だがその姿を頭に浮かべようと試みても何も浮かばない。彼女が脳裏に見たのは、深く白い霞でも、一郎の後ろ姿でもなく、広い夜の水平線、ただうねりの予感だけが感じられる漆黒だった。彼女だけがぽつねんとその暗い水に浮かんでいた。

 始めのうちは、誰も彼が死んだとは考えていなかった。周りの人間は初めのうち、アメコが単に男から逃げられたのだという風に考え、その方向で慰め続けていた。警察はすぐに失踪を自殺と結論付けたが、アメコも一郎の両親もそんなことは信じなかった。アメコは失踪後もその年の暮れまで、一緒に住んでいたアパートでひたすら帰りを待っていたが、警察の推測が当たっていたことがわかったのはある冬の朝であった。 一郎の両親がアメコのアパートを訪ねてきたのである。そして、彼らは一通の手紙を彼女に見せた。それは明らかに遺書であった。彼の父親はアメコにことの顛末を伝えた。ブラジルのデタラメな住所に宛てた手紙が数ヶ月かけて、日本にある彼の実家へ送り返されてきたのだという。わざとに違いない、一郎はそういうふざけた演出を好む人間で合った。封を開けると、負担すべき復路の送料がピッタリ入っていたらしい。

 尤も、その遺書には大したことは書かれていなかった。理由も方法も結果も、何もわからない。ただもう二度と会えないことを報告し、残りは謝罪の内容だけの遺書であった。いつかまた、来世かどこかでまた会いましょう、とわけのわからない言葉で手紙を締め、一人前に追伸まで添えてあった。

 追伸の内容に従って両親はアメコを訪れたのだ。気の毒だから僕の彼女に早いところ引っ越して、すっかり忘れろ、と言ってやれ。葬式をあげる金が浮いたと思って引っ越し費用くらい出してやってくれないか、ということだ。全く自分勝手にもほどがある、と言ってアメコは号泣したのを覚えている。

 死んだとわかったわけではないから、確かに葬式をあげることはないし、お墓代もかからないもの、と彼の母親はアメコの引っ越し費用を出すことを了承している旨を伝えた。蛙の子は蛙という言葉があるが、一郎の母親の喋り方は彼女にオタマジャクシを想起させた。失踪した彼の銀行口座にはどういうわけか、多額の金が入っていたらしい。しかし、遠慮をするなと言われても思い入れのある場所を越すのは悲しかった。

 引っ越しは彼を忘れるためではなかった。彼を決して忘れないために、アメコは引っ越すことを決めた。大学生のアメコは京都市内にある私立の大学へ通っていたが、京都市の北西三十キロも郊外にある別の町へ引っ越した。そして、それまでと同じ額で三倍の広さがある部屋を借りた。

 アメコは自分の実家から譲り受けた古いスバルの軽四で、数時間かけて毎日大学に通った。女の子らしい習慣を次々と身につけて、新しい部屋を作った。彼女は恋人と生活していた頃の自分を完全に切り離したのだ。三年の歳月の中で、自分が作った嘘に呑まれるよう、現実から目を背け、嘘の自分を本筋と信じるようになった。

 アメコが切り離した過去というのが、先ほどまで彼女のいた不気味な部屋の実体である。彼女は自分に付随していたものまで全て切り離すことで、過去が時とともに変質しないよう封をした。彼の過去に対する執着が彼女の二十歳の若い魂を保存することに一役を買ったとも言える。アメコは男の両親に頼み、部屋に残された彼の物を全て形見として譲り受けた。そして、部屋の荷物をそっくりそのまま、位置も変えずに新居に運び込んだのだ。デジタルカメラに残した記録の通りに、家具やら、あれこれを部屋に並べた。そして、それを死者の遺したもののように扱い、一切手をつけずに保存した。失踪から三年が経ち、初めて恋人から短い手紙が届いた。そして彼女は、思い出に浸る正当な理由と共に、三年前恋人と二人で過ごした風景に佇んだ。

 手を触れなかった過去の封を解き、彼女は恐ろしいほど美しく、幸せに浸った。彼女の脳には彼との思い出が少しずつ蘇りはじめる。目を背けることはできても、大切な思い出を完全に忘れることはできない。

 彼女は過去の部屋に戻りロフトベッドの下の机の電気をつけ、わきの棚から一冊のノートをとった。それは、失踪した恋人の日記である。読むなと言われていたノートを前に彼女は緊張した。そわそわと当たりを見回した。落ち着かないまま再び椅子を立つと、部屋の電気をつけた。よっぽど落ち着かずにいるのだろう。彼女は年中置かれたままのコタツの周囲を二、三周歩いて、例の部屋を出た。

 アメコはキッチンのやかんに湯が沸くのを待っている。脇のカップにはドリップのコーヒーが引っ掛けられている。部屋のどこかから、ピピッとデジタル時計の音、0時、日付が変わった。五月月十日、彼女は二十三歳になった。そして再び、あの人といた頃と同じ駆け抜けるような日々に巻き込まれた。

 君を一目見て感じたのは、火花だ。あの火花だ。君は、僕にとって、紫色の火花そのものだった。僕は命に換えても、あの火花を自分のにしようと思った。君は、あの日、僕の目の前で鋭く光っていた。あれから、僕の人生は本物の火花の様に美しかった。ありがとう。今の君にはわかるだろう、美しい思い出を背負うことは、苦しいことなんだ。幸せは重いんだ。僕たちは素敵だった。でも、一度さようならを言わないといけない。まだ待っているのなら、僕の亡霊を探して。

 じゃあ、永遠にさようなら。

 手紙にはそう書かれていた。一郎がどこにもいないという事実は変わらない。そこにあるのは火花の散った後の、真っ黒の夜空なのだ。アメコは切手に滲んだ消印を光に照らし、方々に傾けて読み取ろうとする。決心はできていた。亡霊を追い、灰になるまで燃え尽きよう、アメコはそう決めた。

 暖色のランプの下で、「五月八日 三石」と消印は語った。三石とは岡山県備前市にある小さな町の名前である。彼女の故郷の相生市からそれほど遠くない。高校時代、三石はずっと彼女の通学電車の窓から見える平凡な景色であり続けた。一見、三石という場所は彼女の人生とは関わらない、電車の窓枠に切り取られるだけの平面の風景だった。

 ただ通過する場所が、彼女の人生のかけがえのないポイントに変わった日があった。そのせいで彼女にはその消印にはっきりとした心当たりがあった。

 アメコは湯を注がず、カップを棚に戻した。例の部屋へ行き、彼女は別のカップを片手にキッチンへ帰ってきた。彼女の精神は真っ直ぐ過去へ向いている。過去から持ち帰ったカップにコーヒーを淹れた。凍りついた古い土が氷河期の終わりに溶け出すよう、ゆっくりと時間が空気に溶けだすのを彼女は感じた。部屋の中に充満しているのはコーヒーの香りではなく緊張感だった。一口コーヒーを飲むと、深く息を吐き、テキパキとパジャマのボタンを外した。イチゴの柄が入った馬鹿げたパジャマは、もはや彼女に着られるべきではなかった。洗濯機の脇のカゴに彼女は上下ともパジャマを投げ入れてしまった。上下揃いの黒の下着は、アメコの白い肌をきりっと引き締めている。それが仮に桃色やラベンダーであれば、悩みもせずに脱いでしまっていただろうが、両手を腰に当て彼女は鏡の前でしばらく悩み、結局キッチンへそのまま戻りコーヒーを手にとった。飾り気のない黒の下着に辛うじて繋ぎとめられているように見える身体は失った日と同じままだった。だが、精神は異なるものである。彼女は二十三歳の精神で自分の、みすぼらしい肉体を見つめていた。

平日の夜中にコーヒーを飲むとは、すなわち明日の社会生活を放棄すること、極めて個人的な類の暴動の始まりである。人は皆、前へ向いて歩いていく、未来の酸素を吸い、二酸化炭素は吐き捨ててしまう。だが彼女は違う、彼女はこれから過去へと歩いていくのだ。興奮していた。息を荒くして、彼女は再び幸せだった日々に触れることに対して胸を高鳴らせた。これまで懐かしむ以外にはどうすることもできなかった過去が、彼女にも手が届く過去に変わっている。コーヒーを少しずつ飲みながら、秋の不安定な空気を楽しむ。今日はあの日の続きだろうと感じた。彼女の凍結していた人生はまた動き始めた。彼女は戻るべきところに戻ったのだ。

 この物語は砂藤アメコという二十三歳の人間が、三年前に二十三歳で失踪した川崎一郎という人間を探す冒険である。永遠にも思えるような長い時間をひとりで生きてきたアメコには、一郎を忘れない強い決心があった。そして消えた男の残した謎は彼女を冒険に掻き立てる。

 川崎を語る上で欠かせない性分がある、それはこの物語に欠かせない要素でもある。彼の執念は常に失うことに対する抗いであった。彼は喪失を脅迫的に恐れていた。お気に入りのジュースはいつも気づけば製造中止になり、彼はその缶を捨てずに残した。大切なコップはいくら大切にしていても割れ、彼はそのガラスの破片を集めて保存した。外国で吸ったタバコの包みは引き出しのなかに大切に片付けられた。旅行中のレシート、バスの切符、映画の半券、彼は忘れてしまうことを恐れ、何もかも残した。そして、自分の過ごした時間を忘れないために記録を残した。彼が最も恐れたのは記憶を失うことだった。

 彼が記録を残した数冊のノートは今もアメコの住む部屋に残されている。それは日記の体裁をとった、彼の全てを含有するような不思議なノートであった。しかし、この文章を読むことを彼は強く禁じていた。いなくなった後も、アメコは言いつけを守りそれらを今日まで開きはしなかった。このノートの日記部分は度々引用されるだろう。それはこの旅の中でアメコが思い返すことのほとんどを占めていたからである。
 彼女は一冊を手に取った。表紙には「2019年6月 川崎一郎」とマジックで書かれている。熱いコーヒーを飲んでいたとしても、下着だけでは寒さが気になる。それでも、彼女はノートを開きたい気持ちを押さえられなかった。

 彼女が今手をかけ、開こうとしているこのノートに、アメコと一郎がふたりで歩いていた日の記憶があるのだ。そして、彼女は失うことを極端に恐れた男が自らを消し去るまでの道筋を探るのだ。そこには、彼女が一郎と一年ぶりに再会した日の記録があった。