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-CANDY- The Murder Mystery 7章

 空が白み始めるより先に彼女はホステルをチェックアウトし、大仙古墳へ歩いた。リュックサックには三石の煙突工場へ侵入したのと同じ装備に加え有刺鉄線を切るためのクリッパーが入っている。大仙古墳の広い外周から、彼女が侵入に選んだのは東側の住宅街に面した面である。人通りの少ない一角だ。そこでなら少し時間をかけて確認だけしておけば、誰かに見られる可能性も低い。散歩道ほどの幅しかない静かな場所で、いくつか住宅があるがいずれにも暗いカーテンがおりている。人々は深い眠りの中だ。

アメコは塀に忍び寄り、縄を取り出すためにリュックサックを開いた。彼女は影にしゃがみこみ中を探した。ロープが見当たらなかった。もしかすると、失踪する前に一郎がロープを鞄に入れていたのかもしれない。リュックの底まで探したが、やはりロープは入っていなかった。仕方がないので彼女はクリッパーのみを取り出しリュックを閉じた。

 ロープなどなくとも。彼女はゆっくり塀に近づいて、手を伸ばした。彼女の手が届く場所から、数十センチ高いだろう。彼女は高校の体育の授業でふざけてバスケットゴールにジャンプして手を伸ばしたことを思い出した。あれがちょうど三メートル、そう考えると途方も無い高さだがやるしかない。

 彼女は助走をつけて勢いよく塀に向かって走り、斜め上へ思いっきりジャンプした。普通に跳んだだけでは届かない、彼女は最高地点で頑丈な塀を蹴りつけ、もう少し上へ跳び上がろうとする、手を伸ばした。彼女はその左手で有刺鉄線を掴んだ。手のひらに釘が刺さり、痛みが身体中を駆け巡る。だがアメコはその手を離さずに、コンクリート塀の上に右肘を引っ掛けた。

 肘で身体を支えながら彼女は、血の流れ出る左手にクリッパーを持ち替えた。有刺鉄線を刃と刃の間に合わせる。塀についた右手を動かし下側のグリップを持つ。彼女が左手で力を入れると有刺鉄線は潔い音を立てて切れた。同じことを三度繰り返し、全ての有刺鉄線を切断した時にはもう疲れ果てていたが、気合いを入れて塀を越え、向こう側に着地した。茂みから二、三羽の鳥がふらふらと飛び立った。高い塀に隔てられ住宅街は見えなくなった。有刺鉄線を握った際に手のひらに刺さったのと、切れ端に脇腹を引っ掛けた以外にはほとんど怪我もせず、彼女は無事古墳内に侵入した。血を舐めて歌った。再び大仙古墳の領域に入り、彼女は都市の真ん中で人間はこうも簡単に文明から遮断されるものなのか、と感心した。鳥たちは、眠りから覚まされ不機嫌なのか、寝ぼけているのか、頼りない声で鳴きながら主墳の方角へ消えた。

 一郎と侵入したのもこの辺りだっただろう。昼下がりに彼女たちは侵入したのだ。あの頃はひとりではなかった。人に見られたらどうしようかと、ハラハラしながらそのスリルを彼女と一郎は楽しみながら、この古墳に踏み入った。今のアメコはひとりだ。塀を超えやっと落ち着かない気持ちが止み、彼女は安堵した。

 塀の際から水面は見えない。魚たちからはアメコが見えているだろうか。三時間の睡眠のせいか急に疲れが押し寄せる。昨日から動きっぱなしだったからだろう。彼女は深呼吸した。立ち止まっている暇はないのだ。早いところ周濠を超えてしまおうと思い彼女は服を脱いだ。人間の世界からは一線向こう側に彼女はいるのだ。何を気にする。下着姿になると、靴も脱いで、リュックに何もかも詰めてしまい、最後ナイロン袋にリュックを入れて固く縛った。それを堀に投げると、彼女はゆっくりと水際に進んだ。枝が静かに折れる、裸足に伝う感触は目を覚ます刺激だった。春の水はどうだろう、気持ちのいい刺激と思える冷たさならいい、と彼女は願った。ゆっくり足を水に浸し、泥を踏んで進み腰が浸かったところで大きく息を吸い込み彼女は泳いだ。リュックの入っているナイロン袋まで行くと、そこからはそれを浮きにして掴まり、一気に対岸まで泳いだ。堰堤に上がるともう二、三羽の鳥が飛び立った。ここまでくれば一安心で、有刺鉄線が切れているのが見つからないうちは好きなだけここにいても平気だ。古墳は三重の周濠に囲まれている。外には二重の細い堀があり、彼女が今泳ぎ切ったのは三重濠、次に二重濠を越えると、その向こうに主墳を守る一重濠がある。堰堤の林を歩いていると水の冷たさが遅れてやってきた。すぐにもう一つ堀を泳ぐことを考えるとうんざりしたが仕方がない。林の向こう側に来ると、彼女は躊躇せず堀に飛び込んだ。三年前に来たときは、昼間で、しかもあれは真夏の日だった。この二重濠で一郎とアメコはしばらく泳いで遊んだ。だが、今日は春の寒い日である上に、アメコは既に疲れ果てている。のんびり懐かしんでいると足を攣ってしまう。彼女は力を入れてまっすぐに泳いだ。水底の泥が舞い、きっと魚が泳いで逃げているだろう。古墳時代の魚だ。彼女が泳ぎ切って二重目の堰堤の森へ入るとき、背後の空が少しだけ白み始めていた。都市の真ん中にある人が踏み入ることのない巨大な森に今彼女はいるのだ。そこで夜を明かしたのだ。それは不思議な快感を彼女にもたらした。今この場所は彼女だけのものだった。

 最内部の一重濠で泥のついた下着を洗い、目についた木にかけた。日が昇ればそのうち乾くだろう。タオルで身体を拭き、Tシャツを着た。少し寒いがジーンズは穿かずに短いパンツを穿いた。彼女は寒さを我慢しても自由で身軽でいたかった。ジャンバーを羽織って、素足のまま、彼女は三年前に一郎と遊んだ場所を探し、堀に沿って森を西側へ進む。彼女は今日の侵入で何を見つけるべきなのか、一切見当もつかずにいた。徐々に白んでゆく空に浮かび上がる巨大な大仙は荘厳である。仄暗い水面に古墳の影が浮き上がっている。

 ゆっくりと日が昇り始めていた。ただ、空に美しい朝日はなかった。ぼんやりと雲を染める薄橙色の光があるだけだ。取るに足らない日の出でも、古墳のシルエットだけは逆光に焼かれ黒々としている。それはとても人の作ったものには見えなかった。静けさにどこやらの水面が弾ける音だけが響く。朝が来ても、この世界は静かなままで、すぐ向こうで人が起きだして街へ出かけていくだろうがその騒々しさも届かない。彼女はひとりだった。どこに救いを求めるでもない、この世界には自分と神秘的な自然だけしかないのだ。口笛も音楽も、ひとりの世界には必要がないものだった。誰も邪魔しない。そうと分かっていれば、気を紛らすために何かをしなければならないということもない。孤独な世界の岸辺に腰を下ろし、彼女は黙って大昔の誰かの墓を眺めていた。