彼女は夢を見ていた。水の中を自由に泳ぐ夢だ。それは流れの遅い澄んだ川で、エメラルドグリーンの水は太陽の光を余さず底へ注ぐ。肌色の砂には光の波形が揺らめいている。彼女は水深五メートルほどの川で、沈むでもなく浮かぶでもなく漂い、空を飛ぶように自由に動き回ることができた。息が苦しくなることもなかった。アマモのような水草がところどころに群れて生えている。自分の身体の二倍ほどの巨大な魚が泳いで彼女と戯れる。ピラルクーのような虹色の古代魚はエメラルドの水に体色を彩らせてうねるように泳ぐ。彼女がその背中にしがみつくと、魚は嬉しそうにより体を激しくひねって早く舞う。空を飛ぶように泳ぐことはできても、魚のように泳ぐことはできないのだと悟り、その大魚を尊敬した。頭上の水面では泡が宝石のように煌めいていた。美しい世界に生まれたことのない彼女は、悲しくなり目を覚ました。
瞳を開いたとき、彼女は落ち葉の中に倒れていた。起き上がろうと身体をひねるとかさかさと音が鳴った。木漏れ日が温かく彼女の周囲を満たしている。空の向こうに本物の太陽があるのだ。立ち上がると少しふらついた。カセットプレーヤーを拾い上げてヘッドホンを頭にかける。歩き始めると自らの重みを負担に感じた。身体は重力に押し潰されかけているようであった。空から切り離されたばかりの地面が彼女の身体を引っ張っている。
林の中を進むと径をみつけ、そこに沿っていくと大きな池に出た。池には真珠のように美しい白蓮が咲いていた。彼女は自分が死んだのだと悟り、死の世界が彼女の記憶を混濁させているのだろうと信じた。彼女は自分がどこで何をしていてここへ来たのかが分からなかったのだ。蓮池は水晶のように美しい水を湛え、虹色の波紋が広がり、なびいて薄れながら紫に光って消える。するとあの真珠のような蓮の方から何ともいえない良い香りがする。真珠の蓮の金色の髄から匂いが垂れ出ているのだろう。水鳥は氷のように透けていた。彼女は季節を感じない世界に不安を覚えた。
好きな人を探し旅に出た。そこまでは覚えていた。
自分が今どこで何をしているのか、考えようとすると頭の中がぼやけていく。抜け落ちている記憶がどのくらいの期間になるのか見当もつかなかった。池のそばにあるベンチに座り、彼女はあくびをしながらリュックサックの中身を見る。着替え、財布、ペンチとクリッパーと、鍵、あとは数冊の大学ノート、それだけだ。特に変わった様子はない。大きな池は、向こう岸にも道があり、それは小さな森にある丸い池だが、人によって作られているな、ということが明確に分かるものだった。しかし、彼女が以前訪れた禁足地の巨大な池とは根本的に異なる時代、いわゆる近現代に作られた池に見える。
彼女は仕方なく立ち上がり、不思議な視界の中を歩き始めた。ここがこの世であれ、あの世であれ、すべきことは変わらないと思い直した。好きな人を探したい。彼女は亡者のように彼の影を追うだけなのだ。
池から離れると、土の径は砂利の道に続き、その砂利の道をゆくと大きな鳥居があった。色彩は少しずつ彼女の知っているものと近づくようで、また彼女自身も変質した親しみのない視界に慣れ始めていた。次第に違和感を感じない程度に慣れたか、違和感を感じない程度に色が調整されたか、それは彼女にはわからなかった。
鳥居の向こうに広がったのは東京の街だった。「なんだ明治神宮か」と彼女はひとり呟 いた。変わりなく響いた自分の声に彼女は安心し、街へ歩き出ていった。この世界はこの世界のままである。
ビルの上にある空は一瞬知らないマルーンレッドに閃いたのちに、青に帰る。雲は正しく白かった。駅に行く途中彼女は幾度も見えない何かにぶつかり、道を阻まれた。駅で電車に乗り、彼女は空港へ向かった。彼女は自分がどこへ行くべきなのかを知っていた。好きな人がかつて住んでいた場所に行くのである。彼は大学時代の四年間を遠いところで過ごしていた、彼女の行ったことのない場所、彼女はきっとそこに何かがあるはずだと思うのだ。駅にも、電車にも人はいない。彼女は飛行機のチケットを買った。チケットには四月十二日二十二時半と書かれている。
彼女はレストランでサンドイッチを食べ、煙草を吸いながら無人の空港から飛び立つ多数の飛行機を見送った。不思議なことにレストランの給仕などは彼女にも見えた。この世界には人がいないのではなく、ただ用のない人間が見えないだけなのだろう。混濁した夢のような世界、これをあの世というなら、それはそれで構わない。ここに彼女が嫌悪を催すものは何もない。
時間を潰しきって、やっとゲートを越え、彼女は免税店でセブンスターのカートンを買った。入り口でチケットを確認されたはずだが、機内には一人のキャビンアテンダントもいなかった。当然乗客もいない。だが、寂しさは微塵もない。無人の飛行機は飛び、彼女は重力から解放された。目を瞑っても眠気は訪れず、彼女はぼんやりと懐かしさに浸った。リュックサックの中には、何本か見覚えのないミックステープと、ノートが入っていた。彼女は音楽を再生し、最後のページを開いた。これは、川崎一郎が彼女に出会った日から、東南アジアから帰国して再会する日までの日記だった。一郎は大学時代の三年間を熱帯のバンコクで過ごした。一郎はその日々の日記を彼女の部屋に持ち込まなかった。一郎は結局失踪してしまったが、再会するとき、きっと彼はもう記憶に悩まされはしないと思っていたのだろう。
きっともう一度、天国で会えるなら、きっと上手くいくはず、そう思い彼女は最後のページから日記を読み始めた。