キャンディはフォンの原付を後ろから追いかける。主要街道を離れ農地の中を進み、十分ほどすれば小さな集落が現れた。家は十軒もない、そんな小さな集落だ。そのうちの一つが彼の家だった。どうやら農家らしい。高床式の住居として建てられたらしく、一階部分のみがコンクリートの壁を持ち、それ以外の柱や屋根は木造であった。
「何人家族?」
「六人」
彼が長男で、弟が一人と、妹が二人、それに両親が一緒に住んでいるらしい。
「二階は両親の寝室がある。僕の部屋も二階だ。今日は弟も僕の部屋で眠るよ。キャンディは妹たちと一緒に一階で眠って」と言った。
彼女はまず風呂に入った。フォンの弟、おそらく中学生くらいなのだが、彼がキャンディを風呂場に連れていった。この国の風呂に浴槽はないらしい。大きなコンクリートの貯水槽があり、そこに洗面器が浮いている。弟は洗面器を取って、体にかけて洗うそぶりを見せた。そして、シャンプー、ボディーソープの順に指さし、頭、身体を洗う手ぶりを見せた。フォンは英語が話せるが両親も、兄弟たちも話すことはできない。彼女が分かったと頷くのを見て、弟は風呂場の扉の鍵を彼女に教え、固く戸を閉じ出て行った。
水は冷たかった。日本の三月なら悲鳴があがりかねないが、ここは常夏だ。彼女は少し気持ちいいとすら思った。湿った床もコンクリートの貯水槽も、壁の蜘蛛の巣やヤモリも、衛生的とは到底言えない代物だったが、彼女はこの文化がまだ残っているときに訪れることが出来て嬉しいと感じた。どう考えても、この風呂や、高床式の木造家屋は、何年後かにはすっかりなくなってしまうのだから、強く記憶に残しておきたいとすら思った。その感覚について一郎が夜な夜な話していたことを思い出した。彼は思い出についてこう話していた。きっととても美しい記憶になるだろうが、例えいくら美しくても人の心を将来苦しめるかもしれない、そうであったとして、その瞬間に想像することはできない。
タオルを肩に乗せて風呂を出ると、小学生くらいの妹たちが寝床を準備していた。三枚の布団を並べて敷いて、今その上に蚊帳を貼ろうとしている。この建物には屋根も壁もあるが、完全に外気と遮断されているわけではなく、虫もヤモリも猫もどこかの隙間から自由に行き来する。蚊帳なしで眠ることはできないのだ。いつもは二人用の蚊帳だが、今日はキャンディがいるので大きめの蚊帳を出してもらったらしい。妹たちは蚊帳の紐をかけるのに苦戦しているようだった。蚊帳がいつもより大きい分、いつも紐を引っ掛けている柱より一つ遠くにかけないといけないが、その遠くの柱の杭は妹たちの背丈では届かないのだ。キャンディは近寄ってどこに掛けるのかを尋ねた。妹たちは恥ずかしそうに指さして、蚊帳のまわりを一周した。手伝ってやり、四方全部はり終わると、二人は恥ずかしそうに手を合わせて頭をさげ、さっさと眠ってしまった。
彼女は部屋を見回した。天井からは簡素な笠と電球だけの照明がさがっている。窓には貝殻で作った風鈴のようなものが吊られており、そよ風に合わせてカランカランと乾いた音を立てる。ここは海からは遠く離れている。海へ旅行して買って帰ったか、誰かがお土産にくれたのだろう。何れにせよ、これは誰かの海の思い出の名残りなのだ。
他人の家の生活の気配に包まれると、胸が温かく満たされた。彼女は青白い電球を消さずに、一郎の過去について書かれた日記帳を読み返す。一郎は生きていた。彼女の知らない場所でも、彼女について考えながら。
今、彼女はその日記を読み、ゆっくりと自分の記憶のように彼の思い出が描かれ出すのを感じていた。彼のタイで過ごしていた日々、最後の休暇にすなわちイサーンの田舎を旅行したことを知った。一郎も今のキャンディのようにこの美しい世界に触れていたのだ。そして、彼はキャンディに再会する為に強く、記憶に負けないくらい美しく強い人間になろうとしていたのだ。キャンディ電気を消し、静かに蚊帳に入り、布団をかぶって眠った。扇風機の風は涼しく、布団は温かく、どちらもとても優しい。